「「ダメおやじ」ではないが誰のせいにもできないからやはり「ダメおやじ」」家族を想うとき ピラルクさんの映画レビュー(感想・評価)
「ダメおやじ」ではないが誰のせいにもできないからやはり「ダメおやじ」
最初は「ダメおやじ」な話しかなと勝手に想像したけど違った。酒や女やギャンブルとは無縁で、家族想いで真面目で、言行に関しても家族に非難されているほど感情に走ってはいない。過労死という言葉をニュースや新聞で見聞きするようになって久しいけど、本作はその過労死の近辺が描かれていた。最後、疾走していく親父だが、あのまま失踪しても、あるいは海へダイブしても仕方ないと思えるほど追い詰められていた感がある。
過労死は真面目でないとできない。真面目は通常誉め言葉だが、どこか視野の狭さを伴っている感じがある。一途なあまり融通が利かないというか。向上を希い時間を費やし努力しているのに一向に成果がでないなら、もっと根本的なところで改善を試みればよいのにそれができない。もっと強くもっと密に重ねれば上手くいくと信じているようで、そしてもっとマズくなっていくのである。
本作は映画の力でもって観る者を大局的見地に押し上げてくれて、ターナー家がにっちもさっちもいかず落ちていくさまを、岡目八目の見識でもってみせてくれたが、省みれば我が振りも随所で無能の行き詰まりなのである。
人は誰しも得手不得手があるから、些末なことや愛嬌的にいくつかのことが下手であっても構わないが、真摯に取り組むべきところでは上手くありたい。
本作を労働問題、ひいては諸悪の根源は社会問題や資本主義でみるのもひとつだが、まずもって「ダメおやじ」のダメの規準は上手くできない原因を「自分のせい」にするか「自分以外の何かのせい」にするか、ではなかろうか。
親父のドツボにはまっていくさまが、どうしようもないなと同情的に映るように、リアルに自然に描かれていただけに要注意だ。「家族のため」は愛情を感じさせるが、事態が悪化すると「誰かのせい」にすり替わっていた。「家族のため」と「誰かのせい」は表裏一体で「誰かのせい」も「社会のせい」も五十歩百歩。missingを厭うは、ジリ貧を脱せられる勇気と見識、そこである。
「ダメおやじ」ではないが誰のせいにもできないからやはり「ダメおやじ」。厳しいようだが現実はもっと厳しいからそう結論せざるをえない。少し前『アマゾンの倉庫で絶望し、ウーバーの車で発狂した』という書籍が話題になったが、原作ではないようだがつながってそうである。読んで現実を覗いてみたい、いや、これ以上みたくないか……。