その手に触れるまでのレビュー・感想・評価
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タイトルなし
ダルデンヌ兄弟作品を初めて観たのは3年前に観た「午後8時の訪問者」
劇中、ほぼ音楽無しでカメラワークは手持ちで(多分)人物を中心に写すところが印象的でじわじわくる作品だったんですよね。
その後、2人の過去作品を何本か家で鑑賞しましたが、どの作品もドキュメンタリータッチなのに見入ってしまう内容ばかり。
本作でもその手法は健在で、音楽は無いし引きのカメラワークも少なくほぼ人物中心の描き方。ベルギーならでは、というよりは欧州が抱える問題でもあって、その問題をべースに人はどう変わることができるのかというところが焦点な気がしたんだけど、、
少年アメッドはどうだったかというと、握手さえ拒んでいた人間がああなれたのは救いだけれど、あのシチュエーションでそうなったのはいささか突拍子もない演出に感じました。作風も題材も好みですが、、
マインドコントロールって怖い
この子自身にも、何か特性はあるのかもしれない。
いったん、はまるとこだわる性格。
そこに、宗教がからむと、もういかん。
どんなことも、コーラン(教典)にかかると素晴らしく聞こえてしまうわけですから。
まだ自我が確立していない子どもが、ここにはまると、もう、抜け出しにくいのではないのだろうか?
実際には、身近な大人が「そうはいっても、現実には…ね」みたいな、色んな考え方を指し示すわけです。
でも、偏りのある宗教者に見込まれてしまうと、もう、ロックオン状態ですよね。
呪縛が解けなくなるわけです。
最後、いったいこの子はどうするつもりだったんだろうか?
本当は?
そう考えると、背筋に冷や汗。
世界的に、子どもの発達傾向は課題なのでしょうね。
愛の代わりに憎悪を教える宗教指導者は、実に罪深い
映画としてはそれほど面白い作品とは言えないが、自爆テロをする子供や女性がどのように作られるのか、そのヒントがあった気がする。邦題の「その手に触れるまで」は作品の内容と乖離していて、寧ろ原題の「Le jeune Ahmed」を直訳した「若いアメッド」のほうが解りやすかった。
人が自殺するためには、よほどの絶望がなければならない。明日に何の期待も希望もないとき、人は躊躇なく自殺する。期待や希望は大袈裟なものでなくていい。例えば今日買った靴を明日履くのはひとつの期待であり希望だ。太宰治の「晩年」の最初の短編「葉」の冒頭は次のようにはじまる。
死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目しまめが織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。
ことほどさように、小さな理由で人は死なないものである。太宰の場合は着物をもらうことやそれに類いすることがなくなり、小説を書く意欲もなくなったから自殺したのだ。心に何も残っていなければ、恐怖も忘れるだろう。
しかし本作品の主人公アメッドは自殺しようと思っていた訳ではない。イスラム教には自殺を禁じる教えもある。にわか狂信者のアメッドに必要なのはジハードで死ぬことなのだ。ジハードで死んだ者を死んだと言ってはいけないと教えられるシーンもあり、アメッドはますます勇気づけられる。ジハードの相手は異教徒である。コーランから離れ、歌などでアラビア語を教えようとする教師。それはイスラムの教えから子どもたちを離そうとする悪辣な意図である。どうしてもやろうとするなら、もはや殺すしかない。
失敗して捕まっても、アメッドは崇高な使命を忘れない。従順なフリをしつつ、いつかジハードを実行する機会を狙う。できればジハードの際に死んで、信仰を全うしたいのかもしれない。アメッドの頭の中では、戦前の日本のように散華(さんげ)などという言葉で死を美化しているのだ。自分が生きた証は死そのものにある。母も兄弟も、誉(ほまれ)ある死を喜んでほしい。
狂信者は情報をシャットアウトする。信仰に反するものは何も見えず、何も聞こえない。異教徒は無価値であり、無人格であり、殺しても差し支えない。スマホを持っていても、そこから入ってくる情報に心を動かされることはないのだ。
葬式仏教に結婚式クリスチャンまたは結婚式神道という、極めていい加減に宗教と関わり合っている日本人には理解しづらい精神構造であるが、キリスト教文化が根づいたヨーロッパでは、イスラム教への転向もそれほど困難ではないのだろう。神は既にいるのだから、英語のGod、フランス語のDieuをアッラーに変えればいいだけだ。日本では仏教に神は存在せず、神道は八百万の神で森羅万象そのものが神だから、一神教を感性として理解するのは難しい。
宗教に依存しなくても生きていける日本人が世界的な長寿国となったのは、戒律による不自由がなく、健康や衛生といったどちらかと言えば科学的な価値観で生きてこれたからかもしれない。
グローバリズムは価値観の崩壊と新たな価値観の創生につながり、狭量で不自由な宗教的価値観からすべての人々が解放される未来がくるのかもしれないが、コロナ禍がグローバル化を妨害している面もあり、今後の世界はどうなるかわからない。
例えば暴走族が特攻服のようなものを着て、軍隊式の組織を作って自己アピールをしているのを見て、それに憧れる少年少女もいるかも知れない。誰でもまずは形から入る。暴走族の中身がないことに気付くのはそれほどの長い時間を必要としないが、イスラム教の衣服や生活態度や祈りなどに憧れてしまった場合、宗教には経典があってどこまでものめり込んでしまう。
本作品の主人公を見ていて、自爆テロをする子供や女性がこのように育っていくのだと、うっすらとわかった気がした。愛の代わりに憎悪を教える宗教指導者は、実に罪深い。
イスラム教徒を哀れに思います。
雑に感じました。宗教に狂うというより、元から狂っていたように思います。
ご存知の通り、イスラム教を信じる人々は非常に親切で平和を愛する人です。しかし、あまりに古典的な宗教システムのせいで悪意ある誘導を受ける人が非常にごく少数いるのも事実です。
この映画はその辺の微妙なところを全部吹っ飛ばしているように感じました。つまり、この少年のイカれ具合があまりに強烈なために、ただのサイコスリラーまたはバカすぎる犯罪者を描くコメディのようです。唐突に可愛い女の子に惚れられる展開も謎でした。また、彼の語る信仰のなんと支離滅裂で傲慢なこと!真の意味でイスラム教を冒涜していると感じました。
この少年と、他の信仰と社会性を両立させている大多数のイスラム教徒が間違っても同一視されないことを祈ります。
まあそれはイデオロギーの話で、映画としては普通に全然面白くなかったです。
演技は皆さんとても楽しめました。
純粋さの果てに待つもの
自分とは遺伝子レベルでシンクロしているとしか思えないダルデンヌ兄弟の最新作。相変わらず自分の魂にフィットしすぎる名作でした。
13歳のゲーム好きイスラム系移民少年のアメッドはイスラム原理主義者の近所のオッさんに感化されて、超過激派イスラームになりました。アメッドの先生は進歩派のイスラム教徒。オッさんに「お前の先生は標的だ」とけしかけられて、先生暗殺を敢行!しかし流石に失敗し、少年院送りとなり…というストーリー。
もうね、開始15分くらいで先生刺殺未遂事件が起きるあたりがダルデンズ。『ある子供』でブリュノが自分の子を売っ払って恋人のソニアにドヤ顔で報告したのがそれくらい。ダルデンズの場合、ビックリ事件から物語がスタートします。
本作を観て思ったことは、モロに思春期の話だな、と。ダルデンズ版中二病物語。
思春期は、生まれて初めて世界と自分を意識し、『自分とは何か』『意味とは何か』を考える時代だと思います。子ども時代までは考えなくても生きてこれたのですが、近代的自我を持つ大人になるには考えざるを得ない。ある意味、考えることが大人への第一歩です。
しかし、考えたって答えは出ない。その人が考えて、感じて、体験を重ねてその人なりの答えが少しずつ実感されていくのだと思います。
また、答えはリアルで地に足がついたものである可能性が高いです。永遠に空を飛ぶ少年から、地を歩く大人になるのです。つまり、理想と自分なりに折り合いをつけることが大事だったりします。
しかし、この折り合いはリアルであってもピュアではない。折り合いをつけた大人は、『複雑な世界を生きる人間』なのですが、ピュアな子ども時代からそれを見ると『汚れた大人』なのかもしれません。
(折り合いをつけてさらにピュアを獲得する人もおり、その手の人は芸術家になることが多そうです。ジョン・レノンとか)
アメッドはピュアなんですよ。大人を拒絶する13歳。これを日本では中二病と呼びます。
中二病も無症状に近いものから軽症〜重症とグラデーションがあります。正直、軽いヤツは「痛い!黒歴史!」で済むけど、重症は死にますし殺しますからね。古くは荒井由美の『ひこうき雲』、相米慎二の『台風クラブ』などが死に至る中二病の代表でしょう。アメッドは他殺型の中二病です。重症ケース!
ではなぜアメッドは重症中二病に罹患したのか?それは、移民・家庭内に割と大き目の傷つきがある・従兄弟がテロリスト(?)で死んでいる等の基礎疾患があったから、かもしれませんが、よくわかりません。
ひとつ言えることは、極端なピュアさは原理主義と相性バッチリだということです。近くに原理主義者のオッさんがいたから感化されたんでしょね、しかし、アメッド運が悪いね!とは言えない。ネットを開いたガチ中2が、好きな絵師さんがレイシストで、それに感化されてネトウヨに…みたいなケースなんてゴマンとありそう。本質的にはとても身近な内容だと思います。つまり、重度中二病になる危険性は現代社会のどこにでも潜んでいるのだと感じました。他のダルデンズ作品と同じく、本作もいつも通り普遍的なテーマです。
で、ピュアの果てにはなにが待っているのか。ひとつは爆死、ひとつは生々しいリアルに敗れ去ること。
アメッドは細かなリアルを体験していきます。少年院のプログラムである農場での作業等が、ジャブのように細かく入っているように思えたのです。一見効いてないけどたぶん効いている。そして、リビドーとフィジカルの痛みでフィニッシュ。
我々は生々しい肉体を持つ存在です。メシを食えばクソをするし、ムラつけばセクロスしたりオナニーする。このいわば汚らわしい活動からは逃れられない。生々しさを受け入れること、これが大人を生きるスタートなのではないかと思います。
そして、大人の世界には他者が存在します。生々しさに打ちのめされて、心身ともに痛みを抱えたとき、ついに自分と向かい合い、他者の存在に気づくのかもしれません。
その他も観応えあるポイントあり。まず、基本的に大人たちが大人(笑)。みんなアメッドの変化を待つことができています。待てる。これは不安を抱えて堪えなければできない態度です。ダルデンズ作品にはこの『抱え堪え』がたくさん出てきます。それがまた最高なのよ!本作も先生・母親・少年院の皆さん等、多くの大人が抱え堪えて待っておりました。見守る。この言葉もピタっとくるかも。とても難しいことだと思います、行動しないで待つことって。
その逆も然りで、大人のクソズルさも描かれています。ダルデンズに出てくる大人のクソさは、すべて見苦しい保身です。アメッドを洗脳したオッさんは、アメッドがパクられる前に「俺はお前を煽ってないからな、わかったな」とあまりにもダサい保身をカマしてました。この辺の卑小さがリアルなんですよね〜。負のリアルも描くから、希望がリアルなんですよ。ほんとシビれるなぁ。
あと、イスラーム移民の人たちのグラデーションもリアルだった。先生がフランス語学習のために歌を教材にしたい、という説明会を開いたのですが、意見がかなり多様です。「そんなのダメだ」という強硬意見から、どんどん取り入れよう的なリベラル意見も。それらの意見も細かく見るとそれぞれの考えに立脚しているので十人十色です。理屈ではわかっているものの、実際に観るともう一段深いところで腑に落ちるのです。これがまたダルデンズ・リアリズムなんだよなぁ、最高!
アレッドは何を信じたのか
ゲーム好きの13才の少年アレッドがイスラム指導者との出会いで過激な思想にのめり込んでいく物語。
やがて指導者の言葉に影響を受け、現代的な考えの女性教師イネスを殺害しようとする。
少年院に入っても決まった時間のお祈りを欠かすことはない。
母の訴えや担当教官の教え、農業研修所の娘で自分に好意を抱くルイーズとの出会いであっても、偏った思考を変えることはできない。
それどころか再びイネス先生を手にかけようと計画を企てている。
そもそもイスラム教は決まり事の多い宗教です。聞かれればまぁ仏教かな、という人が多い日本とは概念が全く違う。
でも何を信じても、何も信じていなくても正解はない。
多くの厳格なムスリムが自分達の宗教を誇りに思っているならそれが正しい。
本来信仰というのは清らかなもののはず。でも同時に根深い闇を含んでいることもある。人はそこから這い出すことができるのだろうか。
ラストシーン。
左手がその手に触れる瞬間でさえも右手に握られた狂気が目の前の人物の喉を突き刺すのではないか。
気が気でならなかった。
×背教者を殺して天国へ行く 〇変態の国で(宗教的に)ダラシナク暮らす
現代日本でダラシナク育った俺的価値観では、間違いなくそうなります。現代日本の社会通念上、許容されるエロさを、愛すべき「変態の国」ベルギーで愉しむ方が、原理主義に縛られて生きるより1万倍は魅力的なのに。何故に若者が狂信的な宗教に走るのかと言う問題はさておいて。
「宗教はみな正しい」はガンジーの言葉。うんうん、住んでる世界がナニモノかで隔てられている限りは、正しいって言えると思う。一つの社会、一つの町、一つの建物の中で、そんな事言う余裕ってあるんか?少なくとも、原理主義の頑なな主張は、多様化し近代化した社会にはそぐわない。
「悪魔の詩」を翻訳した五十嵐一さんが、筑波大学の校舎内で「イスラム式の殺し方」で刺殺された事件は1991年の7月。ムハンマドの生涯を題材にした小説の作者である、サルマン・ラシュディ氏・全ての翻訳者や出版者に対し、イランの最高指導者ルーホッラー・ホメイニーが死刑を宣告する「ファトワー」を発令していたため世界は戦慄。「本当に実行したのか?」。その後、トルコでは30名以上が殺害される事件も発生。ラシュディ氏本人はイギリス警察の厳重な警護を受け、その後アメリカに移住。今もご存命。
当時CIAが犯行を疑がったのは、イランの「イスラム革命防衛隊」(例のソメイマニーが司令官だった部隊)の中で対外工作・テロ活動などを行う特殊部隊「ゴドス軍」でしたが、筑波での犯行はバングラデシュからの留学生と見られています。つまりは「個人」。
預言者の「ファトワー」に従い、当時筑波大学に留学していたムスリムが犯行に及んだ(個人の見解です)。イスラム原理主義者でもなく、過激な革命思想を持つでもない、普通の留学生だったそうです。イスラム教の教義・戒律に従順に従えば、殺人も正当化されると言う恐怖を、この日本で目の当たりにした衝撃は、今も忘れられません。
映画の中で、アメッドが心酔していったのは原理主義で、イスラム教の中でも古典的であり戒律も厳しく、ストイックさが求められています(本来)。コーランで言語を覚えて来た人々に対して、近代化した社会の中で生活するため、歌でコーランを教える事を主張する女性教師は、背教者であり排除しなければならない。導師の思想は、預言者のファトワー(布告)に等しく。何ら躊躇することなく、殺害に及ぼうとするアメッド。
※※ちょっと脱線。日本のポケモンはドバイで「禁忌のファトワー」が出されています。これ、ファトワーを出した者自身が解除するまで有効なので、ドバイへ旅行した時は「ポケモン禁止」ですw 狂信者に刺殺されてもドバイでは犯罪になりません。いや、大問題にはなると思うけど、犯人は釈放されます。脱線終了※※
犯行には失敗し逮捕。少年院に収監されるも、ファトワー実行の意思には変わりがなく。歯ブラシを研ぎ、鋭利なピックに加工する様には、狂気しか感じない。彼は少年院を脱走し、女教師殺害を実行しようとするが失敗。最終的に彼は、ファトワーの呪いを、おそらく自分自身の意思で解除してお終い。
カンヌ常連のジャン=ピエール・ダルデンヌとリュック・ダルエンヌ兄弟は「変態の国ベルギー」(俺的には最高の褒め言葉ですw)の映画人。彼らが描きたかったのは「人はどうすれば狂信的な思想から逃れることができるのか」だったそうです。
濃密な84分の物語には3人の女性が登場します。「飲んだくれ」の母親も、欧州化したムスリムであるイネス先生も背教者。13歳のアメッドのファーストキスの相手となったルイーズは異教徒。この3人が、ラストの数分間でアメッドの上を通り過ぎます。
キスをしてしまったルイーズに「改宗」を求めるも拒絶されたアメッドは罪人となってしまう。自らの罪を少しでも取り返すためにイネス先生殺害に向かうアメッド。屋根から背中向けに地面に叩きつけられて生命の危機を感じたアメッドは「ママ」とつぶやいた後、凶器のつもりで手にしていた鉤を壁に打ち付けて音を出し、イネス先生に助けを求める。彼を抱き起そうとしたイネス先生を刺すことも可能だったが、すでに彼の中からはファトワー実行の意思は消えていた。
ダルエンヌ兄弟は、いくつかの可能性を示唆しますが、明確な答えを示さずにシャッターを下ろしました。ルイーズは「恋愛感情」の象徴。「ママ」は「無償の愛」。イネス先生は「赦し」。13歳のアメッドにディープキスしちゃうルイーズのエロさには、さすが変態の国!って思わされます。おれならこの時点で、ムスリム止めちゃおうかなぁ、ってなりそうだけどねw
カンヌ常連は伊達じゃないよなぁ、って思わされる、アンチ・エンターテイメント(硬派)な問題提起型の映画でした。その中でも、「変化と救い」のあるところが、ダルデンヌらしくて大好き。
良かった。とっても。
#40 洗脳って怖い
無宗教の人が多い日本人には、宗教を理由に人殺しする人の気持ちがわからない。
変わってしまった息子を見て、元に戻って欲しいと泣く母親の気持ちはわかるけど。
アーメッドは、何を求めて宗教に入れ込んでしまったんだろう?
最後に本当に改心できたのかな。
予想もつかない最後
正直、ラストシーン時、『まだあと1時間あるからここから展開が変わるのかな』
と思って観ていた(私が上映時間を勘違いしていた事もあるが)。
しかし、予想もできなかったラストシーン。
『え、これで終わり?』と同時に何とも重い気分に。
そしてなるほど、邦題に納得。
この映画の予告編やイントロダクションを観ると、
少年がイスラム原理主義のイマームに感化され、と言う内容があったので、
もう少し社会的な要素が強いかと思ったが、
この映画はどちらかと言うと、少年の心理を探るようにして見てみると面白かった。
観た人によって感じ方が分かれそうで、興味深い。
淡々と演技をするアメッド役のイディル・ベン・アッディという少年の役者も素晴らしい。
そこに救世主はいない
ナイーブな思春期の少年の青春ドラマと、過激で拝外的な思想に洗脳された若者は救えるのかというヘビーなテーマが併走して、それがスリリングなサスペンスとしても成立しているという凄い映画だった。安易に明快な救世主や救いを登場させないところも良かったと思う。
過激思想に傾いた少年の愚行を見せられて疲れる
これは、、外した。
終始イライラした。
思想に凝り固まった少年が
学校の教師を殺すことに執着してることに
ひたすらムカついた。
過激思想に傾倒する人の気持ちが
全く分からないわけではないです。
犯罪と一緒でそうなってしまった理由が
あるとは思うけど。
にしても未熟な子供とはいえ
バカっぷりにイライラ。
最後に執拗に先生を殺しに行こうとするも失敗し、
自分が2階から落ちて瀕死になるやママと泣き、
助けてくれた先生に許してって、
ムカつくわー
そりゃ、私には分からない宗教上のこととか、
文化のこととかあるんでしょうけど。
映画としてはがっかりでした。
それでも、側から見たらどんなにバカげていても、
本人にとってはいたって正しいというのは
こうゆうことかと、
これは私もやっているかもしれないと、
思えたことは収穫でした。
厨二病がイスラム過激派に洗脳されたら
ビターズエンド配給で、
「少年と自転車」の監督となれば、そうですよね、作風も見せ方もこうだし、うん、納得の作品でした。
幼児的万能感に反抗期と思春期、成長過程にある自己中心性の強い子供のフラストレーションが混ざってる少年時代にイスラム過激派の洗脳なんて受けたらこうなりますよね、本当に。
神様への信仰という差別化、自分の特別感なんて与えられたら、危険極まりない。
それには、映画の中だけでは拾えない要因ももっと沢山あるでしょうが、
実際にイスラム過激派に傾倒した青少年の事件が沢山起きていて、日本だってこれから人口減少で、イスラム教の方も増えてくるだろうし、そうしたら過激派思想も一定数は流入してくるでしょう。
観ておいた方が良いと思います。
少しだけ光の挿し込むラストで、ハッピーエンド好きな私の溜飲は下がりました。
なぜ過激な思想に傾倒していったのか…
が描かれていないけどこういう危険な教えにはまってしまうのが全く理解できない。神はどれほど偉大なのやら。
他者とのつながりで少しずつでもこころが開けていったらよいけど。
ラストも判断が難しい。触れることで気持ちに変化があったかどうか。だけど見応えありました。
狂気という語は使いたくない
主人公の少年アメッドがどうしてこういうふうになってしまったのかは描かれていませんが、きっとすごく孤独だったのではないかな、と私は感じました。
父親が家を出ていったせいでしょうか?
多感な年ごろのせいもあるでしょう。
アメッドを愛してくれているお母さんがいても、きょうだいがいても、イネス先生がいても、彼はすごく孤独だった、おそらく。
そして導師の教えに傾倒していく。
汚れを浄めるためにしっかりと手を洗い、礼拝することで、自分の世界を懸命に保とうとしている様子がよく伝わってきます。
そこから、極端な行動に走ってしまう。
宗教に限らず、何かに深くとらわれている人とコミュニケーションをとることの難しさを痛感しました。
ひとが変わる瞬間を描き続けてきたダルデンヌ兄弟
ベルギーに暮らすムスリムの少年アメッド(イディル・ベン・アディ)。
13歳の彼は、ごく最近まではゲームに熱中する普通の少年だったが、兄とともに食料品店の二階にある小さなモスクに通ううち、イスラム原理主義に傾倒していった。
ひとつには従兄がジハードの名のもとに散ったことが大きいが、それだけが理由とも思われない。
彼の補習を担当する放課後教室の女性教師イネス(ミリエム・アケディウ)、彼女もムスリムであるが進歩的な考え方をしている。
ある日、ある事件がきっかけで、アメッドはイネスをナイフで切りつけるという行為に及んでしまう・・・
といったところからはじまる物語で、ダルデンヌ兄弟ではムスリムを描くのは初めてのこと。
社会的な事柄を題材にすることが多い監督であるが、彼らの弁によると、決して社会派監督ではない、という。
ケン・ローチとは方向性が異なる、と言っている(『サンドラの週末』上映の際のティーチインでの発言)。
個人的には、ダルデンヌ兄弟が描きたいところは、「ひとが変わる瞬間」であろう。
はじめて観た『ロゼッタ』が、まさにそんな作品だった。
「ひとが変わった瞬間」に映画は終わる。
この映画も『ロゼッタ』と同じで、アメッドが変わったところでスパッと終わる。
日本版タイトルどおりに、である(ちなみに原題は「LE JEUNE AHMED」、若いアメッド)。
アメッドがイスラム原理主義に傾倒していくのは、やはり、自身の立場を不幸と感じ、その理由をムスリムでありながら戒律を守らないことにある、と考えているからだろう。
考えている、と書いたが、思考停止とも言える。
父親がいないのは母親の飲酒(ほんの寝酒程度だが)や、姉たちの自由な行動・・・
いずれも戒律を守っていない・・・
思考停止によって短絡的な行動に出てしまう。
こう書くと、なんだかバカらしい話のように思えるが、同じような話は巷間にごまんとあり、身近ともいえる。
映画は、アメッドが少年院に入ってからの後半が実にスリリングでサスペンスフル。
女性教師イネスに対する憎悪が消えないアメッド。
アメッドとイネスとの面会のシーン。
課外教練の農作業をするあいだに手に入れた歯ブラシの先端を尖らせて・・・というシーンはゾクゾクするし、教練担当の教官の娘と農作業を行ううちに・・・というのも繊細に描かれていて、どうなるのかと興味深いです。
最終的には・・・
どうなるかは書かないが、個人的には、観ていて「あっ」と声が出ました。
そして、触れるその手の先にあるものは・・・
答えは見えず…
特定の宗教を信仰していない僕のような無宗教の者にとっては、この作品で描かれているマイナスな面は信仰する前に考え得る抵抗の一つであり、どこか鑑賞しながら「そうだよな」感を抱きながら終始鑑賞していた。
もちろん宗教には素晴らしい側面もあり、宗教によって救われる人や改心し幸せになってる人も沢山いるのも事実。その反面今作品で描かれているように、誤った信仰の仕方が家族を傷つけ、周囲の知人を傷つけ、芽生えかけていた恋が絶たれとどんどん幸せから遠ざかり孤独を進める結果となってしまう場合もあるという事だ。
冒頭でも書いた通り僕のような無宗教者にとっては、宗教を信仰する前において考えられるデメリットの様なものであって、特段驚くような事ではなかった。
しかし同時にこの作品を観ることで信仰することを否定的な気持ちになることもない。結局は自分、周囲含め正しい信仰の仕方、接し方と言う答えは自分の中ではやはり見えないままで終わった。
逆に特定の宗教を信仰する人において、この作品を鑑賞しどういう感想を抱くのか。そこが凄く気になったりもした。
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