「どんな風に「見る」のか、非常に興味深い」パラサイト 半地下の家族 つとみさんの映画レビュー(感想・評価)
どんな風に「見る」のか、非常に興味深い
カンヌやらアカデミー賞やらでとにかく話題の作品なので、今更ド素人の私が演出的な話をしてもしょうがない。
「格差社会」について悲観的な話をするのも味気ないし、ここは一つ「結末は絶対に話さないで!」というお願いに隠された、ポン・ジュノ監督の照れ臭いくらい純粋な「希望」について書こうと思う。
この映画に登場する人物の中で、全てを俯瞰的に把握しているのは一番幼いダソン。
ダソンはかなり面白いキャラクターだ。
ダソンは「先住民マニア」である。西部開拓史という近代アメリカの支配階級から見た「繁栄の始まり」は、先住民側から見れば抑圧と搾取の始まり。
先住民に夢中なダソンとは、虐げられてきた弱者に寄り添う存在なのである。
IT企業社長の父は「現代の社会を支配する人たち」の象徴だし、美人で流されやすい母は「扇動に煽られる市民」と「トロフィーワイフ」の側面を併せ持つ。
ダソンの父と母は現在の社会の有り様に、完全にはまりこんだ者たちだ。
そんな両親はダソンの行動を「奇行」だと思っているが、その奇行は格差が横行する社会への潜在的な拒否反応である。姉のダヘはダソンの奇行がフェイクであることを見抜いているが、ダソンにしてみれば「奇行」を行っているのは両親やその価値観に従う姉であり、搾取と支配に取り憑かれた大人たちの方である。
ダソン自身、キム一家に「半地下の臭い」を感じ、彼らが同じ臭いであることを指摘するが、そこに父のような「不快感」はない。
「半地下の臭い」のするギジョンになつき、膝の上に座って大人しく絵を描いていたり、クビになった「完全地下」の元家政婦・ムングァンと連絡を取り合ったりしている。
ダソンの中では確かに生活の差はあれど、格差によって生まれる「支配・被支配」の差別は形成されていないのだ。
あまりにも幼いので彼が物語の中で積極的な役割を果たすことはないが、地下のグンセから発せられるSOSを読み解けるのはダソンだけだった。
終盤、グンセの襲撃によって阿鼻叫喚と化したガーデンパーティーで、半地下の住人であるギウを救おうとするのは高校生のダヘであり、地下の住人となってしまったギテクを取り戻す決意をするのは20代前半のギウである。
ダソンほど純粋な存在ではないが、彼らもまた今存在する社会のルールに絡めとられるギリギリ手前の人物たちだ。
厳然と存在する格差に対し、「それはおかしい」と声を上げたり、弱者を差別することなく手を差しのべたり、自分の可能性を信じ賭けてみようとする人物たち。
コミカルなまま悲劇に突入していく物語、悲観的に見れば「格差の再生産」を予感させるようなラストシーンとは裏腹に、ポン・ジュノは若い世代に対して、希望を込めて作品を作ったのだろう。
そしてそれがピュア過ぎて照れ臭いから、ネタバレ厳禁!なのだと思う。
元々のタイトルは「デカルコマニー」にしようとしていたらしい。絵画の技法の一種で、観る人次第で印象が代わるこの技法は、自分がどこに視点を持つか?で全く違った作品鑑賞が可能になる。
「パラサイト 半地下の家族」に絶望を見るのか、希望を見るのか?それは自分自身の絶望と希望、そしてそのどちらを選択するのかを発見できる行為でもあるのだ。