劇場公開日 2020年1月10日

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「映画の底力」パラサイト 半地下の家族 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)

5.0映画の底力

2020年7月11日
PCから投稿

近年の日本映画は韓国映画の影響を受けている──と思う。
それが表明されたことはなく、表立った潮流をつくってもいないが、なんとなく──、時には瞭然と、そう思う。
影響を受けたのはノワール的空気感で、ここ数年のあいだにみるみる李相日風な映画が増えた。
底辺の暮らしやバイオレンスの描写にかつて日本映画が持っていなかった鬱蒼としたリアリティがある。
影響されたかどうかはともかくとしても、観る側としては、それらは韓国映画で知った空気なのだ。

それを知ってか知らずか、近年の韓国映画はノワール的空気感を抜け出し始めている──ように思える。
韓国らしい非情な空気感はあるけれど、ひとひねり入ってくる。
神と共に/ミッドナイトランナー/The Witch/悪女/バーニングなど、どこがそれだと具体的に指し示すことができるわけではないが、とても新しさを感じる韓国映画だった。ようするにブラッシュアップされていた。

かんがみると、新手や刷新の頻度や出現率は、日本映画界の何倍ものスピードがある。もちろんその速さは漠然とした感じにすぎないが、おそらく新陳代謝もはげしく起こっているはずである。
・・・いや、正直なところ、日本映画界に新手や刷新はない。スピード云々以前に、無風、ぜんぜん動いていない。
ちなみに日本映画界は昭和ポルノを出発点とした映画人が多くいたゆえんで、団鬼六風世界観が脈々と生き残っているのだが、韓国でそのテの美学が生き残れるとは思えない。日本は動員率とは無関係に、美学があるらしきクリエイターには甘い──と思う。

パラサイトも、ノワールの一歩先を感じる映画だった。
刃物をいったん研ぎ置いて、人物をすこし丸くして、方向性を明るめにして──なんとなく、そんな気配がある。ものすごく新しい。

ここに描かれている寄生と乗っ取りの方法は、謂わば常套手口で、似たようなことが現実にあるらしい。ところが、その噴飯な人々がたくみなキャラクタライズによって、もはやかわいい人々に見えてしまっている。

一般にドラマや映画に出てくる悪人は、いうなれば真っ直ぐな悪人であって、粗暴/非情/短気/冷酷/強引/二面性などの人格で表現されている。彼らはけっして、謙譲/自虐/道化/柔和/質素などの資質を持たない。もちろん外見も然るようになっている。
言うまでもないが、観るひとに対して悪人であることが解るようにする目的がある。わたしたちは、毎度同じような人物像から、善悪の配置を知る。

もし彼らが、いつもの人物像でなければ、それは妙味だ。
ばあいによっては、毎年おなじ忠臣蔵を見たい向きには、妙味があだになって──世の中には変わっていることが嫌いな観衆もいるゆえ──しまうが、それはクリエイターならば仕掛けていいところだ。

この詐欺一家は、一見、奇抜なキャラクタライズが為されているわけではない。ただし、もし意識的に彼らを顧みるなら、一人一人、類型におさまらない人物像が創られていることが解る。キテクもヨンキョも穏健な父母である。ギウは気弱な兄で、ギジョンは淑やかな妹である。そして全員が賢い。

ふつう、この配置なら、キテクは粗暴な親父だが恐妻で、ヨンキョはずぼらな鬼嫁で、ギウは頼れる切れ者な兄で、ギジョンは勝気な妹=ヒロイン──といった体ではなかろうか。
人物像を類型から外しているだけでも映画はじゅうぶんに新しい。
が、当然、類型から外しただけ、ではない。

格を押し上げているのは撮影でもある。
ごみごみと重なり合う半地下のかれらの住まいも、高級邸宅も、近接した表情もスタイリッシュな意匠がある。おそろしくVividな撮影だった。Columbus(2017)という映画を思わせた。
そして、汚穢まみれの底辺世界と整然とした上流世界が、きれいなコントラストを描いている。
このコントラストは、必然的に人物へつながっている。
美しい住居の金持ちであっても、人を見抜けないお人好し──に対して、半地下に住んでいても、人を丸め込む聡明がある。ただし、そんな単純なコントラストへドラマを落としている──わけではない。

映画はブラックコメディと括ってしまうと、笑えるところはすくない。やはり新しいノワールだと思う。なんて言うか、形容が難しく──新しいとしか言えない。総てが瞠目だった。これほど疑いの余地のない、相対のない、パルムドールはかつてなかったと思う。

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津次郎