「恋愛を超えた、ひととしての関係性が啓かれる」あなたの名前を呼べたなら りゃんひささんの映画レビュー(感想・評価)
恋愛を超えた、ひととしての関係性が啓かれる
大都会ムンバイで女中をしているラトナ(ティロタマ・ショーム)。
彼女が仕えるのは大手の建設会社の御曹司アシュヴィン(ヴィヴェーク・ゴーンバル)。
ラトナはアシュヴィンのことを「旦那様(Sir。これが原題)」と呼び、決して名前で呼ぶことはない・・・
というところから始まる物語で、アシュヴィンは婚約者の浮気が原因で結婚を破断したところであり、婚約者とまるで性格の異なるラトナに惹かれていく・・・と展開するが、いわゆる身分差の恋愛物語ではない。
ま、そのような恋愛物語の側面も大いにあるが、監督(脚本も担っている)が狙っているのそこんところではない。
ラトナは、寒村(貧しい村のこと。暑いインドなので寒いわけではない)の出身だが、19歳のときに結婚し、結婚後4か月で夫に先立たれている。
村では、夫に先立たれた妻は「死ぬまで未亡人」で、再婚するなどは赦されず、嫁ぎ先(生家もだが)の家名を汚さないでいるだけの存在で、つまりはただの厄介もの。
また、インドでは厳然たる階級社会(階層社会ではない)で、階級によって就ける職業も決まっている。
近代化目覚ましいインドであるが、旧弊は因習と階級差がある。
因習と階級差は、どのようにあっても破ることはできない。
が、アシュヴィンは米国で教育を受けており、基本的にひとは自由で平等ある・・・と考えている。
それが、また、ラトナを苦しめる・・・
と書くと、ありゃ、身分差の恋愛物語みたいですね。
でも、違いますから。
大きなドラマチックなエピソードはないが、因習と階級とそれに対比される自由と平等のせめぎあいと、それに困惑苦悩するふたりが淡々と描かれていきます。
映画の決着点は、恋愛物語としてのハッピーエンドではないかもしれないが、ひととしてのハッピーエンドであろう。
日本版タイトルが示すとおり、ラトナがアシュヴィンのことを「旦那様」ではなく、「名前」で呼ぶ。
ラトナとアシュヴィンが、ひととしての自由と平等を得、恋愛を超えた「信頼」関係になったことを示している。
静かに、心深く、沁みたラストシーンでした。