あのこは貴族のレビュー・感想・評価
全237件中、1~20件目を表示
「窮屈さ」と向き合う二人の女性の物語…だけで終わってほしくなかった。
○作品全体
貴族側である華子と庶民側である美紀、どちらも生活に窮屈さが隣り合わせになっているけれど、その窮屈さが向かう先が「押込められる窮屈さ」と「抗う窮屈さ」で対比していたのが面白かった。
根底には「東京」という街があって、「東京」の上にあるそれぞれのコミュニティで生きていこうとする登場人物は、性差を超えて共感できた部分が多い。
共感できたからこそ心に響くセリフがたくさんあった。
『どこで生まれたって、最高って日もあれば泣きたくなる日もあるよ。でも、その日、何があったか話せる人がいるだけで、とりあえずは十分じゃない? 旦那さんでも友達でも。そういう人って、案外、出会えないから』
特にこのセリフ。周りからは順風満帆に見えても、その人が過ごした一日にクローズアップすれば、順風満帆な一日なんてそうそうやってこない。自分が選ばずして窮屈さを感じているのであっても、選んだうえで窮屈さを感じているのであっても、それを吐き出せるから闘っていけるし生活していける。心にストンと落ちてくるようなセリフだった。
登場人物にしろセリフにしろ、地に足ついた(自分の生活の地続きにあるような、といったほうが良いか)作品だからこそ、フィクションっぽいというか、ファンタジーっぽい展開にはちょっとがっかりした部分もあった。
一番はラスト。一言で言ってしまえば華子が生活してきたコミュニティをすべて放り投げて友人のマネージャーをやり始めたわけだけど、そのマネージャーというポジションがすごくフィクションだ。音楽家の友人がいるという部分は良いけれど、なんのノウハウもない中で、今まで貴族社会で生きてきた人間がマネージャーという仕事をするというのは、求められる能力もそうだし、代償があまりにもなさすぎないかと感じてしまった。離婚をしたときに青木家側から酷い仕打ちを受けるけれど、言ってしまえばそれだけで、社会的にマイナスになるわけでもない。もちろん、華子が新しい環境で「泣きたくなる日」を過ごしていないとは思っていないし、友人という「何があったか話せる人」がいるからこその前向きなラストなんだろうけど、それこそ本作の根幹である、コミュニティという要素は「友人」というコミュニティにも、「仕事仲間」というコミュニティにも該当するはずだ。「友人」というコミュニティから「仕事仲間」というコミュニティへと変化した世界を、ちょっとないがしろにしていないか、と思ったりした。
自分はもちろん貴族側のコミュニティでもないし、「東京の養分」から足掻こうとしているわけでもない。それでも生きている中での窮屈さだったり、周りからの目線というものは嫌というほど感じている。そういった部分の描写は素晴らしかった分、ラストの幸一郎の態度も含め、ファンタジーな部分が正直残念ではあった。
おそらくファンタジーっぽいと感じてしまった根幹には、幸一郎のポジションが曖昧なことにあるんだと思う。
女ったらしの二枚舌なわけだけど、最後は華子を尊重している。緩さを持ち合わせている幸一郎らしいといえばそうだけど、そうだとするならば離婚をした後の幸一郎は、「厳格な世界で生きなければ行けない幸一郎」であって、それは救われているのか?と思ってしまう。離婚をすることで間違いなく風当たりが強くなる。それはきっと、庶民の世界以上の風当たりなんだと思う。だからその逆風を与えるだけの「悪役」たる要素がないから、可哀想という感想を抱いてしまう。
幸一郎自身、結婚生活に限界が来ていたのかもしれないけれど、幸一郎は物語の途中で政治の世界で生きていくことを余儀なくされる。この部分に幸一郎がどういうスタンスで臨んでいるのかが語られていないから、幸一郎がどうしたいのかがわからないまま物語が進んでいってしまう。
女性の価値観の描写はセリフも含めて洗練されていたけれど、「仕事で疲れて不機嫌なダンナ」っていうステレオタイプを被せられている幸一郎を見ると、寄り添わない男という記号に逃げてしまっている気がする。それでいてラストはなんとなーく離婚を許容している幸一郎がいるし、ポジションが曖昧になっているなあ、と思ったりした。
メインキャラクターは華子と美紀の二人だけれど、その2人に繋がるのは幸一郎なんだし、幸一郎も含めてそれぞれが感じる社会の窮屈さを描いてあげてほしかったな、と思った。
○カメラワークとか
・橋の上で二人乗りをする少女たちと手を振る華子のシーンが凄くよかった。夜更け、街灯、橋、道路…いろんな要素によって華子と少女たちの世界が切り離されていることが演出されているんだけど、すごく些細な邂逅でありながら、それぞれが一生懸命に今ここで生きてるんだってことを伝えあっているようなシーン。
○その他
・正直一番納得行ってないのは幸一郎と別れたこと。
『どこで生まれたって~』の会話の後、華子は幸一郎に出会ったときに話した映画を見たかを聞く。幸一郎はその映画を見ていなかった。だからそこに華子は「何があったか話せる」人ではなかったと見切ったんだろうけど、そうした場合この華子と幸一郎のシーンって、なんだかチグハグというか、ミスリードな気がするんだよなあ。
そもそも華子という人物は「探る」ということを敬遠する人物として描かれていたはずだ。幸一郎の浮気の気配があるメッセージも見てみぬふりをしていた。この時点で幸一郎が裏表のある人間であることは分かっていたはずなのに、最後の最後で「本当に映画を見ていたのか」と幸一郎に投げ掛けるのは、むしろ「何があったか話せる」人に近づいたように感じてしまうんだよな。結局これは華子にとって「最後だから」で聞いたことなのかもしれないけれど。
距離感も謎だ。今まで二人が崩した姿勢で並んだのは幸一郎がクタクタになって帰ってきて、ベランダに腰掛けたときくらいだ。そこは華子が幸一郎寄り添おうと距離を近づけようとした(結局はそうはいかなかったが)空間だった。映画の話をぶり返すところも、二人は相当に体を崩して、リラックスした空間で話している。それであればここは「近づく」シーンだと思ったのだが、そうではなかった。このミスリードに意味があるとは、ちょっと思えない。
映画の話をするシーンって、今までの環境から変わってしまう決定打でなければ行けないと思うんだけど、そうではなかった。そういった映像演出もあって、納得いかんなあ、となった。
環境の呪縛への気付きと、一歩外へ踏み出す勇気
貴族とは誇張した表現かと思いきや、ヒロインの華子は割と掛け値なしの現代貴族。
松濤の令嬢華子と富山から進学で上京した美紀それぞれの数年間の人生、二人の邂逅とその後が、5章に分けて描かれる。
ヒロイン二人の出会いは束の間で、一緒に行動して何かを成すわけではないが、ひと時の会話が華子の自我の目覚めを誘う。
深窓の令嬢だろうが苦学生だろうが、人生の岐路で惑い、悩むことはある。そんな時に幸せに繋がる決断をし自尊心を取り戻すには、環境の枷に惑わされず自分の心に向き合い、自身の足で前に踏み出すしかない。そんな主題が、分かりやす過ぎるほど対照的な二人の人生のコントラストと共に描かれる。
全体にヒロイン二人の心の動きがとても細やかに描かれている。都心での華子の移動手段が、そのまま彼女の心の状態を表しているのが印象的だ。
環境因子も取り除いて自分の素直な気持ちを見つめ、守って生きることの難しさと大切さ。日々ありのままの気持ちを話せる相手の得難さ、そんな誰かがいることの幸せ。
そんなメッセージを感じ取った。
華子の結婚相手探しを端緒として、冒頭から上流家庭の特殊な息苦しさについての描写が続く。結婚することも結婚にあたり仕事を辞めるのも、一族郎党が肩書きだけで中身のない見合い相手を連れてくるのも当たり前。
華子自身も一応ちょっとした試行錯誤をするが、閉じられた世界の外側には到底手が届かないし、耐性もない。かといって姉達のように上手いこと環境を受け入れて立ち回ることも出来ない。
見ていて何だかきついなと思ったところに婚約者幸一郎の雲上一族が登場し、家制度の化石の描写でお腹一杯になり苦しくなった。
美紀の章では、受験で慶応大学に入った彼女が目の当たりにする内部生との経済的格差が描かれ、息苦しい世界の外面の華やかさと、階級間の絶望的な線引きを見せられる。一方、美紀の故郷富山の、既視感あふれる田舎の情景で少しほっとする。
ラストで解放のカタルシスがあるのかな?スカッと明るく終わるかな?と期待をし過ぎたせいか、終盤は随分大人しめという印象。格差と上流社会の閉塞感のインパクトが強すぎて、ささやか(本人にとっては一大事だが)で静かな解放シークエンスだけでは拭いきれない胸苦しさが残った。
また、一部心情描写に違和感を覚えたシーンもあった。二人が初めて出会った場面だ。
とある不穏な展開をきっかけに、華子の友人逸子が二人を引き合わせる。
流れから考えて普通は険悪になりそうな局面だ。華子はお嬢様だから泰然としていたとも考えられるが、美紀もニコニコしながら即座に引き下がり、しゃんしゃんと話が進む。台詞で説明があるので頭では理解したが、感覚的には???という感じだった。
そもそも、美紀を呼び出しておきながら説教するでもなく、ふんわりしたことを言い始める友人逸子が一番よく分からない。
作品のテーマの都合で女性同士の諍いを描きたくないのは分かるが、それなら他にやりようがある気もした。
婚約者の幸一郎が、問題がある割にさほど因果応報な目に合わないのももやもやポイント。
これは勝手な妄想だが、この作品は後から登場する美紀を筆頭の主人公と思って観るのが、後味がよくなるという意味では正解なのかもしれない。
彼女の方が環境設定が身近だし、半生の起承転結がきちんとあり、気持ちの揺らぎや決心も描かれている。華子に着目していると、本人の意志が希薄な一方で環境のインパクトが強くて疲労する。
華子がタクシーから降りて自分で足跡を刻む物語は、ラスト近くでやっときざしたばかり。彼女の歩みのドラマは作品を越えた先で始まるのだろう。
フラットというよりニュートラル
この映画のどこに進んでいるのかわからない、それでいて忘れがたい瞬間を確実に重ねていくような語り口に、最初は戸惑い、やがてなんとかペースをつかめるようになり、なんとも言えない心地よさが余韻として残った。
地方出身者としては水原希子が演じた田舎からの上京組に感情移入してしまうのだが、並行して描かれる上流(という言葉自体がすでに問題をはらんでいるが)の世界もまた、あるがままに並走していて、ほんのわずかな瞬間にだけ、ふたつの世界が交錯する。かといって格差社会に物申す映画ではなくて、厳然と存在する格差の中で、それぞれに生き方を見つけようとする人たちを描いている。
フラットというと公平な視線を指している気がしてしまうが、公平とも違う。どちらかというとニュートラルという言葉が近い。岨手監督が『グッド・ストライプ』を撮った人だと後から気づいて、納得した。あれも、どこに収めていいのかよくわからないけれど、とてもニュートラルでいい空気の映画だった。
東京は時折、自転車の方が車より速い
この映画は東京に生きる2人の女性を描く作品だ。東京という街は面白いところだと思う。ロサンゼルスほど貧富の差や人種で分断されておらず、かといって金持ちと貧困層の住む世界ははっきりと異なる。それでも東京は時折、違う世界に住む住人がまじりあう時がある。本作はそんな間隙のような瞬間を描いた作品と言えるかもしれない。
もう一つ、東京が面白いなと思うのは、混雑しているが故に車よりも自転車で移動した方が早い時があるということだ。主人公の華子はいつもタクシーで移動する。誰かが行き先を告げてくれたタクシーの後部座席に乗っているだけのような人生を彼女は送っている。彼女の人生の行き先は誰かに決められてしまっていることの象徴だ。もう一人の主人公、美紀は、自分の足と手で自転車を漕いで移動する。美紀は、自らの意思で人生の向かう先を決めている。そんな彼女の乗った自転車が、華子の乗ったタクシーを追い抜いていく。その時、初めて華子は自らの意思でタクシーの後部座席を降りる。
自転車がタクシーを追い越すのは東京ではしばしば見かける「東京あるあるネタ」にすぎないが、そんなあるあるネタを最も重要なシーンに活かされている。「東京の映画」として大変秀逸だ。
キャスティングの妙 門脇麦と水原希子の役への寄り添い方に喝采
「うーん、これは素晴らしい作品」。
鑑賞後の第一声。
山内マリコの小説を原作に、全く異なる生き方をする2人の女性が自分の人生を切り開こうとする姿を描いており、門脇麦が箱入り娘の華子、水原希子が自力で都会を生き抜く美紀を演じている。
このキャスティングの妙に、今作の伝えたいことが詰まっているような気がする。
おそらくパブリックイメージから考察すると、役どころが逆でも違和感は抱かれないはず。
それを製作サイドは承知のうえで、あえて今回のキャスティングで押し通している。
ふたりとも見事に役を生き、寄り添い方がとても繊細かつ美しい。
これこそ新境地開拓といえる役どころではないだろうか。
自分自身を生きるということ
華子と美紀の生き方が対照的で面白かった。
規則や嫁としての生活にがんじがらめだった華子は
美紀や逸子の生き方を見て自由を求めて離婚する。
離婚する前までは愛想笑いばかりだったが、
逸子と共に働き始めてからは笑顔が増えていて良かった。
男が善人過ぎる。作り過ぎな設定!残念!
会話を大事にした映画だと思う。
傑作になろうと思うが、夫婦の関係を表現する時に、政治家を選んだ事が悔やまれる。政治家に対する偏見が生まれる。
また、
撮影方法をカットを多用して、正面から捉えて、小津安二郎監督風にすれば味わいも良くなったと思う。
勿論、僕の独断である!
追記 『色々な階層が住み分けられた街が東京』って言う様な台詞が出て来るが、港区大門辺りはダウンタウンとは言えないと思うが。
オフビートな時間経過なんだけど、なんか時間設定が違っているように感じる。短い時間に色々な事が起きすぎている。もっともっとオフビートにして、出来れば、オムニバスにすれば『真っ白なワンちゃん映画』になったと
独断で思う。
この演出家は才能豊かな演出家と思うがしかし。
日本映画界はどこまで育てられるものやら。
道路の反対側から手を振り合うシーンがすごくよかった、外部とつながる...
道路の反対側から手を振り合うシーンがすごくよかった、外部とつながるってそういうことだよね~、はじめて人と関わったわけではないけど初めて人と交信した宇宙人みたいだった
、でもあんな赤の他人と挨拶するってなんかうれしいことだよな
そして門脇麦のお嬢様役がめっちゃハマってた
お金持ち=勝ち組・幸せというような単純なものではなく、 どんな環境...
お金持ち=勝ち組・幸せというような単純なものではなく、
どんな環境で生まれ育っていようと、
誰にでも悩みはあるし、苦しさを抱えなければならない日々も同じようにあるのだと思う。
今自分がいる場所で、手の届くことを一生懸命やりながら生きていくしかない。
そうやって生きている同じ人間として、
階層の違う相手の苦しみに対しても共感する姿勢を、
嫉妬だとか見下しだとか簡単に片付けるのではなく大切にしていきたい。
意図した演出かはわかりませんが、
終盤、美紀の家のベランダでアイスを食べていた時に、
華子のアイスの持ち方が途中で変わったのが印象的でした。
東京に潜む階級の壁『あのこは貴族』
今日何があったかを話せる相手がいるだけで幸せなのかもしれない。それが旦那なのか、友達なのかはわからないけれど…。
日本の社会には見えない階級が存在している。政治家の息子は政治家に、医者の息子は医者に。貧困が連鎖すると言われるように、その逆の立場の人間も連鎖的に親から脈々と受け継いでいるものがある。富、お金、名声、土地、趣味など…。『ディスタンクシオン』の著者ピエール・ブルデューはこれを文化的資本と呼び、文化的資本による階級差の存在をデータから導き出した。この映画『あのこは貴族』では、それぞれの立場における「普通」を描くことで対比的に格差を描き出している。
例えば、アフタヌーンティーを「お茶」と称して気軽に行く階層、電車など乗ったこともなくタクシー移動が当たり前の階層、居酒屋のトイレなど使ったこともない階層、東京を自転車で移動する階層。これらの描写は、社会の中での階層の違いを鮮明に浮かび上がらせる。世界は繋がっているとはいえ、人々の間には大きな分断が存在しているような気がしてならない。
東京は住む場所によってさまざまな顔を見せる。そして、場所によって似通った価値観を持った人々が集まる。似通った価値観の人間同士は群れを成し、固有の常識を共有していく。それが階層の固定観念となる。確かに、マッチングアプリは地理的に形成されたネットワークの垣根を越える秀逸なツールだが、家柄や人柄といった垣根を越えることは少ない。これは近年パワーカップルが増えていることからも言えるだろう。つまり、地理的な要因を克服できても、階級差からなる関心や価値観までを埋めるには至らないのだ。
結局、皆、井の中の蛙なのかもしれない。同じような価値観の人と付き合ってばかりなのだ。自分が優秀だと思っていた場所も、一歩外に出てみれば全く違う環境があるというのは、外の世界を知らなければ分からないことである。映画『あのこは貴族』では、本来であれば交わらない階級を持つ二人が、ひとりの男性を通じて出会い、互いの世界に触れることで新たな視点や価値観を得る様子が描かれている。
しかし、私は思う。果たして違う世界に触れる必要はあるのか?違う世界で生きていくためにはどうすれば良いのだろうか?
この映画の門脇麦の演技は、まさにその問いに対する一つの答えを提示しているように感じる。彼女が演じる華子は、都会に生まれ育ち、何不自由なく過ごしてきた。しかし、結婚を考えていた恋人に振られ、初めて人生の岐路に立たされる。彼女はあらゆる手段でお相手探しに奔走し、ハンサムで家柄も良い弁護士・幸一郎との結婚が決まるが、そこから彼女の人生は大きく変わっていく。
一方、富山から上京し東京で働く美紀は、恋人もおらず仕事にやりがいもなく、都会にしがみつく意味を見いだせずにいた。そんな彼女が華子と出会うことで、それぞれに思いも寄らない世界がひらけていく。美紀を演じる水原希子の演技もまた、異なる階層の人々が交わることで生まれる新たな視点や価値観を見事に表現している。
この映画は、単なる階層の違いを描くだけでなく、その違いが人々の生き方や価値観にどのような影響を与えるのかを深く掘り下げている。例えば、華子が自分の幸せを結婚に見出そうとする一方で、美紀は自分の力で生き抜くことに価値を見出している。この対比が、映画全体を通じて強調されている。
また、映画の中で描かれる東京の風景も非常に印象的だ。華やかな都会の一面と、その裏に隠された現実の厳しさが対照的に描かれている。特に、華子がタクシーで移動するシーンと、美紀が自転車で移動するシーンの対比は、階層の違いを視覚的に強調している。
この映画を観て感じたのは、私たちが普段見過ごしている社会の中の「見えない壁」の存在だ。私たちは日常生活の中で、無意識のうちに自分と似た価値観を持つ人々とだけ関わりを持ち、異なる価値観を持つ人々との接触を避けているのかもしれない。しかし、この映画はその壁を越えて、異なる価値観を持つ人々と関わること、自分自身で決断することの重要性を教えてくれる。
例えば、華子は結婚に固執することなく、自分自身の幸せを見つけるためにバイオリニストである逸子のマネージャーになる決断をする。また、美紀は自分の力で生き抜くために努力を惜しまず、大学の同級生である理英と起業するという選択をしたように。これらのキャラクターの行動は、異なる世界で生きるためのヒントを与えてくれる。
私たちは皆、井の中の蛙であり、自分の世界だけを見て生きている。しかし、外の世界に目を向けることで、新たな視点や価値観を得ることができる。それが、自分自身の成長や新たな可能性を見出すための第一歩なのだと思う。
●まとめ
『あのこは貴族』は、異なる階層の人々が交わることで生まれる新たな視点や価値観を描くことで、凝り固まった価値観や、自分自身を見直すきっかけになる作品だ。この映画を観ることで、私たちもまた、自分の世界を広げ、新たな可能性を見出すことができるのではないだろうか。門脇麦と水原希子の演技が光るこの作品は、ぜひ多くの人に観てほしいと思う。
●参考
・『ディスタンクシオン〈普及版〉』I 〔社会的判断力批判〕 (ブルデュー・ライブラリー)
無個性な主人公と“映画やドラマでは出てこない文化”
榛原華子(門脇麦)と時岡美紀(水原希子)と青木幸一郎(高良健吾)をフォーカスしている。
どんな立場でも、誰もがそれぞれ悩みを抱えている日本の知られざる文化(劇中のセリフでは「映画やドラマでは出てこない文化」)をリアルに再現した女性視点で描いた恋愛物語。
センスの良さを感じるカメラワークで、構図もさることながら、光の使い方が芸術的。
歩道の木漏れ日
雨に当たるタクシーのヘッドランプ
食事中の間接照明
顔への光の当たり方
日向と日陰
逆光も上手く使っている。
BGMが少なめで、セリフが聞きやすいのも嬉しいポイント。
今作は特に水原希子さんの魅力が引き出されていたと思う。
岨手由貴子監督の他の作品にも興味がわいた。
旧体制からの女性の自立を細やかなディテールで描写
東京の中にある階級差の表現はなかなかに面白いが、それも俯瞰で見れば旧態依然の村社会・家社会の呪縛で雁字搦めの穴の中、田舎と同じじゃん、そこから脱出した方がいいんじゃねというのがリアルだ。また上流であるほど得られるベネフィットに対して自らの自由度が制限されるのは、最上位の皇室を見るまでも無く明らか。
物語の主眼は旧体制からの女性の自立ということで、友人との起業を快諾して、2ケツ自転車を漕いでいく風景の、何気ないけど自然なカタルシスが良かった。同じく2ケツ自転車のJKを含む、女性のバディのコントラストが強めに描かれ、対する男性陣はかなり影が薄いのだけど、幸一郎の諦念・諦観は高良健吾の憂いを帯びた佇まいと演技と雨で丁寧に表出されている。なんとミキと最初の出会いでノート借りた日も雨だった。
小物の扱いが秀逸で、母の婚約指輪!を始めとして、使い込まれたケリーバック、シャネルのバック、ミキのまっさらなグローブトロッター等、階級差をモノと時間で表現しているのも見事。車と自転車の使い分け、場所の上下感の選択も周到で、作画とフレーミングに往年の巨匠の香りが漂う。華子が幸一郎家にお目見えの際の、お茶事の席入りのような所作の先には、男3人が床の間側、女3人が廊下側で据え膳が整えられていて、幸一郎の膳は炉畳の上に配されているとか、祖父の慇懃無礼な言動と共に、最早化石のような世界を容赦無く描き切る。結婚式の記念写真のど真ん中!に政治家の叔父がでんと陣取り(背が一番高く、悪人面)、撮影直後そそくさと幸一郎を庭に連れ出し既に政治活動が始まっている描写も行く末を暗示していた。
金持ち喧嘩せずというが、華子とミキの面会時の「お雛様展のチケット」の入った茶封筒が出てきた時、心の薄汚れた私は「手切れ金」かと思ったがさにあらず、母と一緒に美術展→姉妹毎のお雛様→クリスマス、これらはマウント取っているのではなく、唯々邪気が無く言っているのが凄いのだ、だからこそミキはアッサリと幸一郎との腐れ縁を切る決心をするのだろう。ちなみに三井家所蔵のお雛様....なので場所は日本橋か、榛原家は三越の「外商」枠なのだろう。華子が自立するにあたっての修羅場での、幸一郎母のビンタにはちょっと驚いた(嫁の両親のいる前で)が、すかさず幸一郎父の、「事を荒立てる訳にはいかないので、今日のところはお引き取りください」と言うところまでがコトバ通りの「手打ち」で、流石の顛末だった。
一方で、幸一郎とミキの「手打ち」は、キャバクラ再会後に行った馴染みの町中華で。背景にちらっと見えるメニュー立てに再会時はメニューは机上で「使用中」だったのが、最後は「納まっていた」のが穏やかな終わりを暗示。そこでミキは初めて自分の出身地を帰省土産の「ホタルイカの天日干し」でもって表明する。
快調なテンポ感と無駄のない緻密な作画、小物やディテールへの細やかなこだわりが素晴らしく、複数回の視聴に応える映画。ラストシーン、高いけどステージから遠い幸一郎、ステージに降りる階段途中の華子の位置関係、認め合って微笑む二人が希望を感じさせて爽やかなエンディングだった。
なんとなくク・リ・ス・テ・ル?
Netflixで。
読んでいないので想像ですが、非現実的にドラマチックではない、でもちゃんと色んな出来事の連鎖によって語られている原作を、うまくまとめたのかな?という印象。とにかく適温で心地いい。
キャスティングも、みんな名のある人だけどちゃんと役柄に合っていて無理がない。
とくに高良健吾。まさに適役って気がする。水原希子も「ノルウェイの森」の頃からは考えられない頼もしさ。
外側には暴力的な構図や力関係が渦巻いている中、かろうじてエアポケットのように平穏な場所で、心ある若人たちが互いに気を遣い、抑制を効かせて自分にも相手にもベストな選択をしていく…というノーブル青春ストーリー。
暴力とか性的なことは背後に感じさせつつ表には描かないため、上品。
ただ私はゲスなため上流階級のゴタゴタとかエグみとかもろもろ、もっとあってもいいし、それ以上にヒロイン2人の今後のご活躍をお祈りしたい気持ちだった。4人をメインにTVドラマとかやってくれてものいいのよ。でもそれには高良健吾の役が生々しすぎるかしら…
あと山中崇が出てくるとつい不穏な展開を想像してしまう。
ラストのオチはちょっと「花束みたいな恋をした」をきれいにしたみたいな印象。なにしろみんないい子。
貴族はほんのひと握り。そこに愛はあるんか。
いるいるこういう内部生。
えてして受験組の方が賢く、勉強と無縁の脳内ながら、家柄だけは良く、タチの悪い遊びだけは覚え、親の手伝いをして議員になる。
いるいるこういう上京組。
生きていくのに必死な様子もあるけれど、
必死に東京に馴染むよう努力している。
背伸びがあざとくがめつくさもしく見える時もあれば、たくましく見える時もある。
いるいるこういうお嬢。
お嬢とされる中でも家柄が良すぎて、相当な世間知らず。俯瞰で立ち位置を見極める力がなく、
どこにいってもおっとりぼんやり。
婚活で本当に見合うお育ちの方と出会えず、絶対に生活水準が違う層に出会いを頼んだりする。
どれも身近にいた。
どれも生きづらさがあるだろうと思う。
私含め世の大半はどれでもないから。
華子ほどのお嬢は、世に言うお嬢様扱いされる生い立ちの中でも、ほんのごくごくひと握り。
日本に〇〇家は限られるので、家柄同士で選ぼうにも母数が少ないから、大変そうだと思う。
大抵は、現代の日本人女子は生い立ちの経済力に関わらず、逸子タイプか美紀タイプ。
仕事をして自立していないと、日本人未婚男性の結婚対象としてはおろか、日本経済にとってもお荷物な風潮。また、富裕層の既婚妻でも、職を持ってないのは作中に出てくる階級という表現では下の方だと思う。働かずともお金が回る仕組みを女も持っていてこそ、富裕層出身女性らしいとなるのが現代よ。
ゆとりある家庭の子は頭が良く、手放す必要のない仕事に就き、家庭と仕事を両方持ち、臨機応変に華子のような振る舞いもできるが、中身は同世代男性顔負けで、毒舌。これが現代のリアルよ。
なので、作中の、家事手伝いなど死語で非現実的に思えるが、逸子の言う見えない階級は確かに存在する。
ダージリンやアールグレイを飲み慣れている層もいれば、マウントレーニア片手に仕事する層もいる。
どの層にいても、どんな事情でも、
泣きたい日も嬉しい日もあるし、
その日あったなにげないことを話せる人が誰でも良いからいれば上出来という美紀の言葉はその通りだと思う。
そして、どの階級でも自立力が問われる。
富裕層に生まれ家系に囚われる人生でよく似た生い立ちで性格も合う人を見つけるよりも、上京の孤独を分かち合える同郷の友を見つける方が確率的には簡単だろうなと想像するが。
でも色んなことをひっくるめて、昔からの女友達は楽。そういう関係性を求めた時に、階級を超えて見つけることは本当に難しい。
それが改めて映像化されている作品。
飲むお茶、お茶にかけるお金、行くお店、買うお肉、出会うところ、全てが異なるから。
結婚も、出会いの形だけ本人が模索する形式なだけで、もともと恋愛結婚ではないのだから、婚約に結婚にと進んでも幸一郎も華子もまっったく嬉しくなさそうで。その隙間隙間でわずかな愛が芽生えれば良かったのだが、同じ富裕層の中でも幸一郎と華子は階級が異なり、言い合える関係性にはなれない仕組みだから、やはり合わないんだなぁこれが。
頑張って稼いで背伸びしても、埋まらない違いは根底からあって、その階級差は下から上を見ると同じに見えるが、上の中でも細かくある。
青木>>華子>=逸子>>>>里英>=美紀
水原希子扮する美紀が、流れを掻き回さない、わきまえた良い子だから成立している話で、この子の味わった惨めと孤独とそれを乗り越える根性と生命力たるや凄まじい。それでも決してそれを人に言わず言動を荒らさないのが、実に富山県民のイメージそのものな気がする。猛勉強して慶應に入れたならキャバ嬢の世界でもアホくさい思いを沢山しただろうし、なんの苦労もなく何の見栄でもなく当然のように無職でエルメスを提げる人達の前では、美紀のヴィヴィアンやカルティエのバッグも虚しく見える。
門脇麦には、存在感が強く肝の据わったイメージがあり、この陰鬱とぼうっとした華子役は顔立ちの華やかさで決まったのかな?抑えた演技がストレスでないのかな?と思いながらも。
違和感を感じているが出さない感じが逆にリアルで上手だなと感じた。芸能界の女優さんで、お嬢様はほぼ見た事がないし、いても芸能界に入るほど奔放なお嬢様なので、自分の人生を自分で決める本物お嬢様の物申すタイプが多い。だからこの役をこなせる方は限られる中で、この女優さん本人の生い立ちは?
と気にならせないのは門脇麦さんが演じたからだと思う。上京組でもたくましい生立ちでもないからこそできる役。
石橋静河は初期の役に意地悪なものがありその印象が強かったのだが、最近はどの役で見ても素敵。
自立しながらも誰かのためにひと肌脱ぐが姉御でもガサツでもなく、落ち着いた役がとても似合う。
作中で楽器を引く姿がとても美しく、姿勢の良さが際立っていた。
高良健吾には、役の設定からして海運王の慶應出?そんな男性で、敷かれたレールの結婚という肩書き目的の女性だけで満足するはずがない。そんな人いないってと最初からわかりやすい。田舎ヤンキーも飲んだくれも浮気性もできる俳優さんでそちらが実に近いのではと思うがこの役ではそれらは封印させられている。
ただただ、本音を出さない関係性でも垣間見える、真を見つめない冷たさが伺える。
素晴らしかった
門脇麦も水原希子もとても良かったのだが、
その友人たちを演じる石橋静河と山下リオが凄く良かった!!
というのも、おそらく彼女らが
階級のグラデーションでいうところの中央付近にいるからっていうのもあると思う。親近感があって、本作中では陽だまりのような存在。
その4人の関係性がどこをとってもシスターフッドに見えて、とっても良かったです。ドラマで観たい!
特に好きだったシーンを2つ挙げると、
一つ目は、パーティにてバイオリンを演奏した石橋静河が、マカロンを食べるシーン。これが非常に良くて。
トップのマカロンを取って代わりに花を挿すのだけど、
それを遠くから見ていた水原希子が笑うのよね。
一般的には"いやしい"と思える行動を、水原希子は(おそらくは)"愛おしい"と思い親近感あったのよね。
グザヴィエ・ドランの『マティアス&マキシム』にも、一方が途中で火を消した煙草を大事そうにポケットに入れて、もう一方がそれを見て微笑むっていうシーンがあって、もんのすごく大好きなシーンなんだけど、それに近しいものを感じた。
もうね、"いやしさ"のようなものまで引っくるめて、その人を好きになるのが良くて。それを遠くから見て笑っているのもいいのよね。当人は気づいていないっていう。
あと二つ目が、
水原希子を起業に誘う山下リオ。
もうここの喫茶店シーンが全て良かった!!!!
台詞が刺さる刺さる。
子供を見て、独身で子供が嫌われないように、とか。
水原希子が、誘いに対して即答したのが良かったですな。しかも、そう言って欲しかったって……!熱いぜ…!
特にイガイガする事ない二人の関係が暖かかったですな。互いが都会のオアシスですよ。
というか、この二人のシーンは全部いいんですよ…。
ニケツとかマウントレーニアとか。
とくにニケツ!!!!!
私なんてまさに「地方組」ですから、めちゃくちゃノスタルジーなシーンでもあり、希望も感じました。
きっと、誰にも奪えないというか、二人にしか経験できない瞬間ですもんね。うん、本当に良かった。
原作もそうらしいんだが、衣装もたのしめた。
年齢とともに変わっていくバッグやアクセサリー。
特に、社会人時代の水原希子のカルティエのショルダーバッグがとってもかわいかった。
あと、門脇麦が"アールグレイ"とか"ダージリン"とか、もう注文の仕方にまで、育ちが出るのね〜って感じで新鮮だった。
やっぱり、とても上手よね。
声色とか普段と違ったし、あと表情ですよ!!
表情で全てを語ってたから、この物語はこんなにも説明が少なく済んだんだと思いますよ。(時系列がいつのまにか変わってて、割と追いにくいけど、すっと入ってきた!)
ラストシーンは正直、腑に落ちなかったけど、
久しぶりにいいもの観たな〜と思いました。
邦画、全然捨てたもんじゃないです。
本当に素晴らしかったです。
多様な価値観に触れる事ができる名作。
面白かった。自分が知らない世界。
これまで知らなかった様々な価値観を知ることができた。
東京。
と一言で言っても、そこで暮らす人々の出自、価値観、身分は様々で。
実は多様で、それでいて互いに受け入れ難い価値観の相違があって。
自分と似た価値観の人たちが寄り添いあって生きているが故、自分と違う価値観の人達には無意識にフィルターをかけてしまっているのかもしれない。
上流階級の男性幸一郎と婚約しながらも、結果的に家族に縛られて抑圧されていく華子の姿を見ていると。
身分が高い事、収入が良い事=必ずしも幸福でない事が身に染みて良く分かる。
それは上流階級に生まれ、後継になる事を生まれながらにして期待され。自らの夢を抱くことすら叶わない幸一郎にとってもそうだ。
幸一郎の本音が垣間見えるシーンでは、裕福でありながらも抑圧に思い悩む様子が見て取れる。
むしろ地方出身でエリート街道からドロップアウトした美紀こそ、のびのびと自分らしく生きているくらいだ。
人並みの幸せというのは、個人の価値観が尊重されてのものだし。未来に馳せる夢さえあれば、どんな逆境だって人は前向きに生きて行ける。それが唯一の希望なのかもしれない。
薄味な印象
山内マリコ作品が好きで、原作は読んでいた。『アズミ・ハルコは行方不明』の実写化も微妙だったので期待せず視聴。
現代女性の痛々しいほどリアルな心理描写が山内作品の魅力だと思うが、映画用にきれいにまとめられた結果、全体的に薄味な作品になってしまったように思う。幸一郎ってもっと嫌な奴の印象あった。
襖の開け閉めやカフェの注文などから華子の育ちの良さを表現したり、同窓会で所在なく空いたグラスをまとめるシーンから美紀の性格を表現したりと、細かい描写の拘りは感じられた。
終盤、美紀と華子の会話で「どこで生まれたって最高と思う日もあれば泣きたくなる日もある。でもその日あったことを話せる人がいるだけでとりあえず十分」と話すくだりがあり、この映画のまとめのような発言ととれたが、イマイチピンとこなくてすっきりしなかった。
まとめると、
・狭い世界の価値観に囚われるな
・女同士で争うな、協力していこう
・どんな境遇の人でも悩みはあり、人生そう完璧にうまくいくもんじゃない。日常の小さな幸せとつながりを大切に
映像が暗い。雨のシーンも多いけど、昔の日本映画のような暗さだ 映画...
映像が暗い。雨のシーンも多いけど、昔の日本映画のような暗さだ
映画は結婚は子供産んで家を継ぐ事だと思っている華子と大学の学費払えず中退して仕事にもやりがいを感じられない美紀の人生を交互にみせる
どちらも幸せとは言えないところから脱して、笑顔が戻ってきた
全237件中、1~20件目を表示