クリムト エゴン・シーレとウィーン黄金時代のレビュー・感想・評価
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ウィーン黄金時代とは何だったのか?その精神性のバックグラウンドに迫ったドキュメンタリー
通常、絵画鑑賞といえばそこに描かれている対象、技法、芸術性、テーマ、描き手の人生などを深く掘り下げていくことが常だが、19世紀から20世紀にかけてのウィーンの絵画を紐解こうと思うと、決してそれだけでは間に合わない。価値観の激変が起こった背景について、もっと多角的な角度からの検証が必要となる。 このドキュメンタリー映画は、ウィーン黄金期においてクリムトやエゴン・シーレといった芸術家たちが、精神医学などの影響も大きく受けながら、これまでの美のスタンダードを覆していった様子が、外堀から丁寧に埋めるかのような筆致で論じられていく。そのため、当時の芸術について大枠で捉えたい人にとっては次々と新しいことが摂取できてたまらない90分となるだろう。 ただ、タイトル通りの「クリムト」についてどっぷり浸かりたかった人は、ちょっと狙っていたものと違うなという印象を受けるかも。上級者向けにお勧めしたい一作だ。
クリムト55歳没と、エゴン・シーレ28歳没。工芸画家とドキュメンタリー画家。
僕は、美術館へ行くと もちろん自分自身がその作品と出会ったり、対話をしたりすることが目的で、それが何よりの収穫なのだが、 会場を一回りしたあとには、今度は 絵を観に来ている人たちの様子=特に彼らの後ろ姿を眺めるのが大好きなのだ。 本作品は、初心者むけの入門用観光ビデオの要素が強くて、ウィーンという街への憧憬を喚起し、我々を旅に誘イザナってくれるものであったと思う。 鑑賞者が退屈せぬようにと、カフェの美しいケーキや、舞踏会の華やかさ、そしてモノクロの記録映像や どこかで誰でも聴いたこともある軽音楽が(年代お構い無しに)BGMとして流れる。 ロダンやアルバン・ベルクの手書き名刺はチラと映ったが、ドンピシャのシェーンベルクとかは、お座なりにしか流さない。 そこでもって、コレクターや識者たちが、その時代や、当時の独特のムーブメントを踏まえての、クリムトとエゴン・シーレへの思い入れを語ってくれる構成。 とやかくはあるだろうが、 それでも、それらゲスト登場人物たちの眼差しや、言葉や、出で立ちを、「ウィーン」という劇場に我々も招かれている雰囲気で、 我々もクリムトとエゴン・シーレの絵の前に立っている「観客」として、また「美術館の展示室の風景」として、彼ら解説者たちのことを僕は後方から眺めて見るから、 この映画においてもマンウォッチングの面白さはたまらない。 夢中になっている人は面白いのだ。 友人のギタリストS君は、展覧会から戻ったあとは「エゴン・シーレ、エゴン・シーレ・・」と独語しながら歩いていた。彼はハマったのだ。 ・・シーレやクリムトの作品の中に自分の姿を発見して、絵に呼応をしているのは、つまり若者も老人も おんなじ なのだと思う。 エポックメーキングなあの頃、 「世紀末」とか、「分離派」などというワードは“ブランドバリュー"としては申し分ないけれど、 うんちくを何も知らずとも、最後のシーン、シーレの絵の前で床に座っている若者たちの光景が、僕には大変微笑ましく思える。 子供たちにはどんどん美術館に遊びに行ってもらいたいものだ。 抱擁。接吻。恍惚。裸体。そして睨み返す目や、身欠きにしんのような自画像・・ 自分を発見することに躓いている頃の若者には、何よりのプレゼントだ。 でもね、そういえば、 日本の絵画彫刻には男女が並んで絡む作品が、驚きほど少ないなぁ。 どれも男と女とが別個で単体だし、一足飛びだと春画のジャンルになってしまう。 僕はダンスは習ったことはあったけれど、 日常の男女が、日本ではどこにも居ないのが、残念だ。
眠くなりましたが
プラハでクリムトを、つい最近上野でエゴン・シーレを観にに行ってきたので鑑賞しました。美術館で知ったエピソードが結構ありましたが、まあまあ楽しめました。自宅で鑑賞したので眠くなったので、劇場で鑑賞した方が楽しめたと思います。
【19世紀末から20世紀初めのウィーンの芸術家達の生き様を、エロスとタナトスの視点で語るドキュメンタリー作品】
ー シェーンベルク、マーラー、シュニッツラー、フロイト、ツヴァイク等々(私が記憶できた人名のみ記載)、クリムト、シーレをキーにこのドキュメンタリー作は当時活躍した様々な芸術家、学者にも言及して行く。凄い情報量である。ー ・頭フル回転で何とかついていける程のスピードでナレーションが続く。 クリムト、シーレの画の解釈が面白かったので、もう少しこの二人に焦点を絞った方が分かりやすかったかなとは思った。 <この華麗な時代の終焉とともに、パンデミック、第一次世界大戦、世界大恐慌という暗いフェーズに時代は突入していく事を二人の(特にシーレ)退廃的な画が予言しているのかあと思いながら、魅入ってしまった作品である。> <2019年8月10日 劇場にて鑑賞>
「ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道」展の予習として好適
クリムトとシーレの個々の作品を堪能したいと言う目的で観ると肩すかしでしょう クリムトと邦題に大書きされていますが、内容はどちらかというとサブタイトルの「エゴン・シーレとウィーン黄金時代」です クリムトも取り上げられていますから間違いではないのですが、どちらかといえばエゴン・シーレに方に比重がいっています 原題は「クリムトとシーレ エロスとサイコ」です 本作の目的はクリムトやシーレの作品を通底するエロスとサイコの意味性、そしてその背景となるウィーンのその時代を描くものだからです 邦題のサブタイトルにあるウィーン黄金時代というのは、1897年のウィーン分離派の旗揚げから、1918年の第一次世界大戦の終結、クリムトとエゴン・シーレの死までの期間を指しています この時代、ウィーンというオーストリアハンガリー二重帝国のコスモポリタン的な近代都市が絶頂から大戦を経て没落した期間でありました ですから「ウィーン黄金時代」とは、都市としての黄金時代ではなくウィーン分離派を中心とした芸術やフロイトの精神分析を始めとする学術が花開いた時代であるとの意味です 本作の中である人物がこの時代のウィーンを圧力鍋に例えていました 圧力鍋のなかに最先端の学問と芸術を入れて圧をかけたとき、吹き出た蒸気がクリムトやシーレ、フロイトであると クリムトとシーレの絵画に深く関連している退廃と死は、フロイトのエロスとタナトスの理論と密接に関連していることをテーマとしています 2019年開催の「クリムト展 ウィーンと日本 1900」ではクリムトのスケッチも多数展示されてはいましたが、本作でほぼ春画のようなものを見ることによって彼のエロスの源泉がようやく腑に落ちて理解することができました 当時のエロ写真との関連性も新鮮な視点で勉強になりました またそのクリムト展でも少数ながらシーレの作品も展示されておりますが、その意味の理解にも多いに役つ内容だと感じました 「ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道」展が近く巡回開催されます その予習としても最適の映画であると思います
観る価値なし
アート映画としても、ウィーンの歴史物語としても見所なし。少なくともクリムトとシーレについては、ありふれた情報しか得られない。 シーレ風の案内役や、ノーベル賞学者のエリック・カンデルをはじめ多数のコメンテーター出てくるのだが、各々が勝手な解釈を言っているだけで収拾がつかない。 同時代の文化人を持ち出して、むやみに話を膨らませていくことは容易だろう(確かに有名人は多い)。しかし、アート映画の質として問われるべきなのは、それらの話が本当にクリムトやシーレと、密接に関係しているかどうかである。“なんとなくウィーン”的なムードに流されては困る。 例えば、クリムトやシーレのアートにおいて、「性愛」や「死」は本質だ。しかし、「世紀末ウィーン」の知的雰囲気を共有したからといって、他の文化人における性愛や死を、唯一無二の存在であるクリムトやシーレと直接結びつけるのは強引だと思う。 折衷主義者のクリムトは、フランス近代、象徴主義、そしてジャポニスムなど、ウィーン以外からもインスパイアされている。 ビジュアル・アートを哲学・文学など、他のジャンルから解釈するのは、学者の博覧強記な“おしゃべり”に過ぎないことが多い。 この映画を観た後、気になってエリック・カンデルの「芸術・無意識・脳」(九夏社)を読んでみたが、やっぱりというか、クリムトやシーレに言及した部分にはがっかりさせられた。 また、クリムトの金ピカの作品を掲げて、「ウィーン黄金時代」と名付けるのも、ミスリードだろう。確かにアート面ではウィーン分離派の時代であるが、ウイーン自体は没落の最終局面のはず。 さらに、吹き替えだったので、テレビ番組を観ているようだった。観る価値なしと思う。
ウイーン黄金期って何
これはウイーン黄金期ではなく終末期に名残惜しく花開いた仇花の解説で、大戦第一次の前夜祭のようなものだ。 ウイーンは既にハプスブルク家を中心に欧州の中心で謳歌しており、産業革命、フランス革命や流行病で亀裂が生じ始めていた。その現れが音楽、絵画などのアートや医学や社会構造の変革であった。 そんな変革の騎士達が次々登場する。そんな時代の象徴としてシーレを中心に語られる。 廃退的て重苦しい映画あった。 救われるのは日本語解説であったこと。 ただ、ナレーターが画面いっぱいに大げさな身振りも眼差しで語られるのには畏怖を感じてしまう。 欧州を学ぶには必要ないポイントではある。
難しかった。。
クリムト、シーレについてというよりもその時代の精神、文化などかなり幅広いところから考察されており、なかなか難しく、クラシックが流れるなかですこし睡眠欲が、、、心地良かったが少々難易度高めな映画だった。
クリムト、シーレのドキュメンタリー映画
100年の時を経てなお人々の心を捉え続けるクリムト、そしてその弟子シーレのドキュメンタリー映画。 19世紀末のウィーン黄金時代の作品群とオーストリアを代表する美術館の数々。 クリムトファン、美術ファン必見の映画。 クリムトの代表作「接吻」「ユディト Ⅰ」「ベートーヴェン・フリーズ」など、また、シーレの作品も、ふんだんに見せ、ウィーンの黄金時代の盛衰を解説している。 そのあと、クリムト展に足を運んだが、すばらしい作品を目の当たりにでき、映画と合わせての観賞がお勧めです。 クリムト展の壁画の精巧な原寸大複製「ベートーヴェン・フリーズの部屋」は必見の価値あり。ただ「接吻」の展示はないので、こちらは映画で。
続く不確かな瞬間
封建と自由、伝統と前衛、様式と内面、道徳と退廃、秩序とカオス…。 当時のウィーンは、第一次世界大戦に向かうなか、従来の価値観が崩壊しつつあり、新たな価値観と交錯し、混沌とした状況だったのだろう。 僕は、クリムトの作品ファム・ファタルに代表される恍惚とした女性の表情には死の匂いを感じる。エクスタシーの後の恍惚感はあまりにも無防備で、それは死にさえも無防備のように思えるからだろうか。或いは、まるで快楽を目的にした薬物でもやっているかのような恍惚感のようにも見えるからだろうか。 一方、シーレの作品には、死を前にしても、それに抗うような生が垣間見れるような気がする。痩せていても目はギラつき、身体の芯はしっかりしているように描かれているからだろうか。性器を隠すことなく大胆に描いてるからだろうか。性器は生命をつなぐ象徴ではないのか。 いずれにしても、こうした一見矛盾とも捉えられるような揺らぎが、僕の目を釘付けにする。 話は変わるが、こうした混沌としたウィーンで哲学者ウィトゲンシュタインが育まれたことにも、個人的には何となく納得がいくような気がする。 第二次世界大戦後のウィーンを舞台にした「第三の男」という古い映画がある。 このクリムトとシーレの映画の終盤にチラッと映るウィーンの遊園地の観覧車の前で撮られた場面は、おそらく世界で最も知られた名台詞で有名だ。しかも、これは、オーソン・ウェルズのアドリブだったから更に驚きだ。 また、この台詞は、この時代のウィーンと芸術の関係を想起させる。以下に、記憶を辿りながら、意訳も交えて紹介したい。 「イタリアは、戦争や恐怖など30年に及ぶボルジア家圧政の下、ミケランジェロやダビンチ、そして、ルネサンスを生み出した。スイスはどうだ。500年の民主主義と平和の歴史は、一体何を創り出したのか?鳩時計じゃないか。」 クリムトやシーレの時代も、混沌や時代の不条理に抗う姿勢が、新たな芸術を育んだのかもしれない。 或いは、不条理を受け入れることによって、自分の内面を芸術として昇華させたのだろうか。 いずれにしても、時代と芸術は、皮肉な関係の上に成り立っているかのようだ。 そして…、このウィーンの不確かな瞬間は、もしかしたら現代にも繋がっていて、僕たちの時代を揺さぶっているのかもしれない。 しかし、我々は、溢れんばかりの情報に触れ、価値のある芸術を見出したり、育んだり出来ているだろうか。 豊かになり過ぎて、拝金的なアプローチに終始してはいないだろうか。 価値のある芸術とは一体何なのだろうか。 ピカソが守り抜こうとしたのは何か。 バンクシーは、何故ガザにホテルを作ったのか。 そんなことを色々と考えさせられる作品だった。 最後に余談というか、原題の副題に、エロスとプシュケとある。これは、有名なギリシャ神話のはずだが…、愛と魂という意味と掛け合わせて考えろというメッセージなのだろうか。パンフを買わないと分からないことなのだろうか…。
エロティシズムの表現というよりもそれは猥褻、卑猥な描写
東京では4月から絶賛開催中のクリムト展。歴史上最大級の栄華を放ったハプスブルク家の末期ウイーンの象徴でもあるクリムト。背景を学んでから展覧会に訪れたいと思って待ちわびた初日上映。これまで日本で描写されてなかった?クリムト→シーレに続くエロティシズムの表現というよりもそれは猥褻、卑猥な描写。芸術の頂点を極めたウィーンがこんなに画家に性風俗が乱れ、そこに芸術の頂点を導いた『分離派』に衝撃。この映画を観た後に展覧会を観る事の意義を感じた。
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