ペトラは静かに対峙するのレビュー・感想・評価
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章が変わるたびに驚きが迸る。静かな中に激情が貫く力作
田舎の村を訪れる女性。どうやら彼女は絵描きのようで、とある大物芸術家のもとで創作活動をしようとしているらしい。映画は穏やかに、かつ静かに展開し、その先に何か起こるとしたらせいぜい芸術論をぶつけ合うくらいしかないのではないかというほどだ。が、これが一つの事件をきっかけに、時代や記憶、繰り返される悲劇などを絡めた、小さくとも深くて激しい、うねりのある叙事詩へと転じていく。 物語をそのまま時系列に並べると、古典的な文芸作のように仕上がったはず。ところが作り手はそうはしない。あえて時系列を操作することで、観客がスクリーンを見ながら抱いていた「違和感」の答えらしきものを後付けで提示し、さらにチャプターが変わるたびに「えっ!」と言うスリリングな心境をもたらしてくれる。静けさは激情の裏返し。観客は何が起ころうともこの結末を見届けずにいられない。結果的に、強靭かつ骨太な人間ドラマがそこには出現していた。
嘘つきの芸術家は多い♥
すべてが7章の為に創作された。相関関係を矛盾なく作って、タブーで見るものに不快感を与えない仕組みになっている。
7章で、事の真実をこの物語のキャラクターは全員分かっている。騙されるのは鑑賞者という事だと思う。
キアロスタミの系統の演出家のようたが、理解できる。もし、そうでなかったら、平凡なクズ映画かも。それでも、この変態オヤジは芸術家ではない。権力をもて余す者は芸術家とは言えない。少なくとも、これからの芸術家には絶対的に必要だと僕は思う。
感想。
あらすじ読むと時間を行き来する仕掛けの威力半減。
耐えられないような事実を知るたび、対峙することになる。
一人一人の考えて出した行動を非難できない。それが命に関わることでも、この物語を見てるとその選択をわかる気がしてしまう。
残ったペトラに悲しみが積もって行くと思った。
あと、友達のお父さんも。
ジャウメの妻や生きてる人に責任が行く。
子供がいたのと、先に死なれるとその選択を取れなくなるのかなと思った。
母親たちの、言えないから秘密なのはわかってるけど、秘密をもっと早く告白してればとたらればを言いたくなる。
悲劇が起こってからでは遅かった。
墓まで持ってくつもりだったと思う。
ジャウメはわかりやすく最悪の男でペトラの母親は彼と関わってほしくない気持ちもあったのかも。
彼は評価されてる彫刻家で金儲けもうまい。
能力がある人は、成し遂げたことと罪は分けるべきと擁護されることがある。
芸術だと尚更。
加害者への賞賛が被害者を追い詰める。
今回その話はしてないけど、良いものを作る人だからといって、人間性はついてこない。
そして周りには分からないから、身近な悲劇が重なり続けると思った。
立場がある人は権力を振りかざせる。
必要ないシーンはないが、静か過ぎて退屈を感じることもあった。
対峙し続けたペトラは真実を聞けた。
少し救われてよかった。
ギリシャ悲劇
母の死に際し、ペトラは「芸術家ジャウメが実の父である」ことを知らされ、彼のアトリエがある村を訪れる。
だが彼から突きつけられたのは、ペトラが娘ではないという証拠であった。ペトラは村を去り、芸術家としての仕事も捨てて、通常の職を得る。
そんな彼女のもとを、ジャウメの息子ルカスが訪れる。2人は愛し合い、子供が誕生する。
だがそのタイミングで、ジャウメがやってくる。彼は「自らがペトラの実の父である」ことを認めた。ペトラとルカスの愛を最悪なものにするために、2人が血縁関係(異母兄妹)にあることを隠してタイミングを伺っていたのだ。
以前から女性関係に奔放で、傲慢な態度から恨みを買ってきたジャウメ。
村の若者の1人に職を与えるため、その母親に肉体関係を要求する。
「体と引き換えに息子の職を得たことを息子本人に伝えるぞ」と、サディスティックな一面を見せるジャウメ。それを受けて母親は自殺する。
厳しいジャウメだが、部下となった若者を信頼をしていく。
しかし、母の自殺の理由を知った若者は彼を射殺する。
ジャウメの息子だと思われていたルカスだが、実子ではないことが判明する。
ジャウメの妻もまた奔放であり、不倫によってできた子供がルカスであった…
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実際の作品では、以上のようなあらすじを7章に分割し、順序を入れ替えて提示しています。
そのため、初見では登場人物の意図や目的が分かりにくくなっています。
一度通して鑑賞し、2回目に鑑賞すると、理解が深まります。
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各章の内容と、映画における順番は次の通りです。
第1章:画家ペトラは、母の死に際し、実の父が著名な芸術家ジャウメであることを知らされる。
第2章:ペトラが、ジャウメのアトリエがある村を訪れる。宿泊先で、使用人テレサや、ジャウメの息子ルイスと出会う
第3章:テレサの息子に職を与える対価として、ジャウメはテレサに対し、肉体関係を要求する。息子にこのことを知らせると脅されたテレサは、自殺する。
第4章:ペトラはジャウメに対し「自分は娘である」と告げるが、ジャウメは証拠を出し、自分は父親ではないと述べる
第5章:ジャウメから「父親ではない」と告げられたペトラは、芸術家としての仕事を捨て、保育士の仕事を得る。退屈な毎日を送るペトラの元をルイスが訪れ、2人は愛し合う。
第6章:ジャウメがペトラの元を訪れ、自分が父親であると告げる。ジャウメはペトラが娘であることを黙っていた。ルカスとペトラが愛し合ったタイミングで、父親であることを明かしたのだという。異母姉妹と交わったことを知ったルカスは自殺する。
第7章:ルカスとの間にできた子供を育てるペトラ。そこにジャウメの妻マリサが訪れ、実はルカスはジャウメとの息子ではなく、マリサと不倫相手との間にできた子供であると明かす。ジャウメは、テレサの息子によって射殺される。
【ポイント】ペトラが、ジャウメの息子ルカスと交わったのは、ジャウメが自分の父ではないと言われ、それを信じたからだ。しかし、ジャウメがペトラとルカスの血縁関係を隠していたため、絶望したルカスは自殺する。だがジャウメが知らなかったのは、不倫によって妻がルカスを宿したことだった。ペトラとルカスのあいだにできた子供に遺伝病の心配はないが、失ったルカスを取り戻すことはできないのであった。
※ジャウメの不倫によってできた子供がペトラであり、ジャウメの妻の不倫によってできた子供がルカスである。ジャウメは妻の不倫による妊娠を知らなかったため、ルカスを実の息子だと思っていたし、ルカスもそう思っていたから、このような悲劇が生まれた。
作品内における順序
2-3-1-4-6-5-7
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【解説】
「異母姉妹と寝て子供を作ってしまった男が自殺するも、実は血が繋がっていなかったことがあとから判明する」という、ギリシャ悲(喜)劇的構造を持つ作品です。
実際、ギリシャ悲劇に『オイディプス』という作品があります。
そのあらすじは、「都市テーバイ(テーベ)を悩ませる怪物スフィンクスを倒した英雄オイディプスだが、道中で殺した人物が実の父であったこと、王になって娶り交わった妻が実母であったことを知り、罪悪感から自らの両眼を潰す」というものです。
また、『ロミオとジュリエット』に代表されるシェイクスピア作品も同様に、情報の行き違いによる悲劇を描いていますね。
このような悲劇は、現代映画において、クリストファー・ノーラン作品の中にも多少盛り込まれています。
映画『ダークナイト』の中で、ジョーカーに捕われたヒロインの救出に向かうバットマンですが、嘘の情報を伝えてられていました。ヒロインがいると思った場所にはハービー・デント(トゥー・フェイス)が、デントがいると思った場所に、本当のヒロイン、レイチェルが捕らえられていたのです。結局、ハービーは救えたものの、嘘の情報のためにレイチェルの救出は間に合わず、彼女は亡くなってしまいます。
※余談になりますが、クリストファー・ノーラン作品においては、登場人物が仮の情報に踊らされるだけでなく、観客をもまた仮の情報で踊らせるという娯楽的要素が見られます。これは、悲劇を神視点で描くのではなく、主観視点によって描くことで成されていると言えます。(神の視点で悲劇を描くと、喜劇にも見えてしまいます。喜劇王チャップリンが残した言葉が、「人生は近くで見ると悲劇だが、遠くから見ると喜劇だ」。こうして見ると、笑顔のピエロの顔に涙も描かれている理由がわかるかもしれませんね。ジョーカーは、主人公にとっては悲劇となる出来事を、神の視点から笑うピエロなのです。最近では、トッド・フィリップス監督による『ジョーカー』が、悲劇的人生を自己嘲笑する姿を描いていましたね。)
『メメント』は、嘘の情報にしたがって行動する人物を描くノーランの出発点ともいえる作品です。
虚構によって観客の心を踊らせる映画というものを、「日々の活力を与える」という点でポジティブに捉えているのがノーランなのかもしれません。
さて、このように「情報の錯綜により生まれる悲劇」は、古代ギリシャから始まって、古今の西洋文学における1つの主題であることがわかります。
本作は、ギリシャ的悲劇をスペインの荒涼とした大地を背景に描いた作品であると言えるでしょう。
情報が2転・3転し、結局ルカスとペトラは血縁関係になかった(したがって、生まれてくる子供の遺伝病の不安が弱まる)わけですが、それによって悲劇と喜びの入り混じったような複雑な感情が入り混じります。この点において、シンプルなギリシャ悲劇よりも重層的ではあります。
「兄妹ではない」「やはり兄妹だった」「やっぱり兄妹ではなかった」という情報を時系列に提示するだけでは面白みにかけるため、順序を入れ替える構成にしたのでしょうか。
また、ギリシャ古典の悲劇と、本作とを比較した場合、「ギリシャ古典は神の視点から描かれているのに対し、本作は主観視点によって描かれている」という違いもあります。
ギリシャ古典では、本来作者だけが知っている情報を、観客も共有しながら進みます。観客と主人公とのあいだでは、持っている情報に差があるのです。一方この作品では、作者が観客に対して情報を隠しており、観客が知らないことは多くの登場人物のほか、主人公も知りません。(これはノーラン作品も同様です)
「ギリシャ悲劇の単なる焼き直し」と批判された本作ではありますが、再鑑賞による面白さもあります。
たしかに、物語の本質を理解してしまえば上述の通り「兄妹ではないと思っていたから寝たけど、やっぱり兄妹だった、と思いきや実は兄妹ではなかった」という悲喜劇(?)でしかありませんが、それは物語を鑑賞し、内容をわかりやすく再構成したから言えることです。物語の理解と再構成の過程に、面白さがあるというものです。
非常に退屈な映画で、最初に鑑賞したさいは何度か中断を挟みながら見ました。しかし物語を理解したあと、登場人物の発言や行動の意図がわかるため、2回目の鑑賞では面白さがあります。新たな発見が、2度目の鑑賞によって得られるのです。そのため、本を読み返すようにして楽しむ作品であるといえます。
そういった意味で、オンデマンド配信での鑑賞は非常に適しており、上映当時見逃してしまったものの、今回VODで作品を見つけることができたのは非常によい体験となりました。
【時間軸を巧妙に入れ替えた作品構成が、不思議なサスペンスの迷宮に誘い込もうとする作品。】
ー ハイメ・ロサレス監督は、7章立てで物語を進める。だが、時間軸通りではない。ー ◆感想<Caution! 内容に触れています。> ・著名な彫刻家ジャウメ(ジョアン・ボティ:77歳にして、本作で演技デビュー)の、傲岸不遜で権威を振り翳す、人間性の欠片もない振る舞い。こんな人間がいるのか・・。 ・彼の過去、現在の行いのために、ペトラ(バルバラ・レニー)始め妻マリサ(マリサ・パレデス)や”息子”ルカスは、振り回されていく。人生を狂わされていく・・。 ・ジャウメは、実はルカスが自分の子ではないと知っていたのではないか。出なければ、”お前の偽りの幸せを邪魔するためだった・・”などと言う言葉は出て来ないだろう。 <ジャウメは、自分で身を立て、名を上げながらも実は中身のない空虚な人間だったのではないか? 出なければ、あのような最期はを遂げる事はなかったであろう。 何とも、切ない物語。 第7章のペトラが全てを理解したうえで、マリサに対して行ったラストシーンに救われた作品。> <2019年7-8月頃 京都シネマにて鑑賞> <2021年8月11日 別媒体にて再鑑賞>
パウでかした
ジャウメがクソすぎて引き込まれました。奥さん役がオールアバウトマイマザーの女優さんだそうですが、この映画のタイトルこそオールアバウトマイマザーだったかも。奥さんは夫は気づいていないと言ってたけど気づいてたからあんな仕打ちだったんじゃないのかな。まあ誰にでもあの態度の生まれついての精神的サディストなのか。ペトラが奥さんのことをあそこまで嫌うのはよく分かんなかったけど、夫婦まとめてきらいってことだったのかしら?
ラストで分かった
時系列がバラバラのパズルの様だったので、ぴったり組み合わさったラストで全てが分かる仕掛けが新鮮でした。ギリシャ悲劇の様な現実は今も脈々と続いていて、作品から何か教訓めいたものを感じます。特に女性は、被害者になることが多い。結局、ペトラもルカスもペトラの娘も母親は居るが父親が不在だったのが、何を示唆しているのだろう?と考えこんでしまいました。
嫌な奴だが仕事はできて金はある
ジャウメはとにかく性格が悪い。「人の不幸が三度の飯より好き」というような男。それを象徴するのが、メイドと寝た後、「夫にいわないで」というメイドに「言わないが息子には言う」と言い放ったシーン。さらに「屈辱を与えながらのセックスは最高」と、このセリフからも権力を誇示したい欲求が垣間見れる。しかし、仕事はでき金はある。このことが嫌な性格を差し引いても余りある魅力のある人物に映ってしまう。
静かなざわめき
静かな作品なんだけどある見方をすれば救いようが無いかも。スペインの年寄りは何やってんだよというか。カメラがじっくり動く視点は覗き見しているようで誰の視点でもない。だから客観的に見れるのかな?まだ、映画祭グランプリなど、突き抜けるほど迄には至らないけど必ず注目される監督になるでしょう。
いや、そこさ
「DNA検査しろよ」と何回か思ったね。『私たち兄妹だったんだ」と思ったところで、検査して確かめれば良かったんだよ。
全体通じてなんの話かは解んないの。「天才は理解不能である」っていうジャウメの話の気がするね。「芸術を産み出すためには悪魔に魂を売らなくてはならない」とか。
ペトラとルカスに意地悪すんのは、ルカスが自分の子じゃないって解ってたんだろうと思ったね。奥さんと血の繋がらない息子に、最高の方法で復習したってことなんだろうな。
なんの話かは解らなかったけど、謎が明らかにされていく構成だから飽きなくていいよ。
ジャウメがペトラに言う「この絵じゃ大成しない」ってとこだけは激しく同意だったな。小道具さんが描いた絵だしね。
懐の深い世界観
一筋縄ではいかない映画である。タイトルからして、スペインの家族の物語が淡々と映されるのかと思っていたが、まったく違っていた。映画の紹介ページに書かれていたとおり、最初に起こる事件は家政婦の自殺だが、映画を見ている限りまさかこの人がという人が自殺する。 そこから先はこの映画では何が起きるか解らないと身構えて観ることになる。そして確かにいろいろなことが起きる。しかし事件の瞬間やその後の愁嘆場のシーンは殆どない。必ずいくばくかの時間が経過したシーンにジャンプする。そしてそのシーンではペトラは起きたことを静かに受け止めて次に進んでいく。 強すぎる自意識は得てして悲劇を生む。本作品のジャウメのように強気な人間なら尚更だ。何事も自分が世界の中心でなければ気が済まないから、他人を信じないし、他人の成功や幸福が許せない。こういうタイプは珍しくなくそこら中にいる。ある飲食チェーンの創業社長は、社員のひとりが料理長のことを「大将」と呼んだことに激怒して、その社員をボコボコにした。自分以外に「大将」がいるのが許せないらしい。文字通りお山の大将である。社員の全員がこの社長を軽蔑していたが、身の振り方は三通りに分かれていた。呆れて辞めていく者、給料と同僚のために我慢して残る者、そして社長に取り入って得しようとするイエスマンたちである。社長はいつもイエスマンに囲まれて悦に入っていた。その会社はいまでも、長時間労働と薄給に耐えて頑張る社員たちの犠牲の上に成り立っている。 日本では大金を手にしている体制側の人間は殆どこのタイプだ。言うなれば世の中は自意識過剰の人格破綻者によって支配されているということである。暗愚の宰相アベはその筆頭だ。他人の成功や幸福が許せない総理大臣をいただいた国民ほど不幸な国民はない。 それでもまともに生きていく人はいる。主人公ペトラである。度重なる死を受け入れ、自暴自棄にもならず、インセストの問題も克服して、母から受け継いだ命を母と同じ名前(?)の娘に繋いでいく。生命のリレーはいつも女たちに委ねられるのだ。 物語の描き方はユニークである。モザイクのようなシーンを嵌めていくと、全体像が浮かび上がる。観客はその作業のために頭が休まる暇がない。ペトラの絵はジャウメによって息の根を止められるが、ペトラの人格にまでは影響を与えられない。ジャウメの苛立ちはペトラに対する不快感でもあっただろう。 人格破綻者のジャウメは周囲の人々の人格を蹂躙し、まともな男たちは弱くて、悲劇の犠牲者となる。一方で女たちは彼を鳥瞰するかのように、はるかな高みから見下ろす。人間の不条理をこれでもかと見せ続ける作品だが、女たちの強さの物語でもある。不思議に暗い気持ちにならないのはカタルシスの効果でもあるが、子宮に包まれているかのような懐の深い世界観のせいでもあるだろう。奥行きのあるいい作品である。
舞台を観てるようだが
背景はスペインの荒涼とした大地で、大きな変化はなく、同じ室内が繰り返し出てくる。
感情の起伏など抑揚をかなり抑えた演出のなか、人物像や人間関係は、淡々とした会話や発言からしか推し量ることは出来ず、ある意味、舞台を観ているかのようだ。
チャプターの時系列は何度か前後するが、これで人物像が分かりやすくなっていると感じることがある反面、人間関係を複雑に見せているようにも思う。
決して複雑とは言えないストーリーに深みを持たせようとしているのだろうか。
物語は、ジャウメの傲慢で自分本位の行動と、それに巻き込まれた人々の秘密によって起こる悲劇だ。
登場人物に次々に起こる悲劇は、まるでシェイクスピアやギリシャ悲劇を観ているかのようでもあり、昔の物語にありがちな、こんなこと(ジャウメのように)してちゃダメと言った教訓めいたところもある。
だが、ペトラがルカスの母親と和解するエンディングは、未来に希望を持たせるようで、やはりこうした悲劇とは一線を画しているようにも思える。
ペトラが、自分で描いた足を組んで横たわる女性像と同じような格好で横たわって物思いにふける場面がある。
ジャウメは、この絵を批判して、内側にこもるようで外に向かって訴えるものが感じられないと言っていたが、映画の淡々とした演技や表情が、人の内面や人間関係を明らかにするようで、何か逆説的でもあり、全ての人が面白いと思うような作品ではないかもしれないが、個人的には楽しめた。
対峙しないカメラ、対峙するペトラ
話の内容は、かなり濃い目ではあるが王道のサスペンス。 一つの家族とその周辺人物が、嘘や秘密により運命を絡ませ、悲劇的な結末を迎えていく、ごく狭い範囲の愛憎劇。 神話や悲劇の典型とも言える人間の業罪をモチーフに含む所など、古典の雰囲気もある。 物語は7つの章から成り、しかし順番に語られる物ではない。2、3章が先に語られ、その後1章に遡ったりする。 難しい内容ではないが、キャラクターの顔や名前、役割を把握するまでの間は、少し混乱した。 カメラワークやサウンドなどから受ける感覚が、一種独特。 展開の殆どが、二人の人物の会話からなる。何故かカメラは、会話する二人を同時に捉える事を殆どせず、周囲の風景から一人の人物へとゆっくり視点を合わせていき、その人ををフレームアウトして会話の相手へ、そしてまた最初の人物へ…と、留まる事なく、ゆるゆると動き続けるのだ。 会話や出来事の中心人物が写らず、カメラが風景や部屋を嘗めるように移動し、会話だけが聞こえているという時間も多い。 また、起こった出来事の結果を写さず場面が転換し、どうなったのかという不安を引きずったまま、後になって経緯が明かされる事もある。 BGMは殆どなく、ただ効果音のように、不安や哀しみを示唆するサウンドが時折流れ、それも場面転換や会話の開始でプツリと絶ち切られる。 会話と出来事だけが、ただ淡々と語られていく。 提示されるのは各人の語り言葉だけなので、その真偽や本当の心情までは、観客には計り知れない。行為の理由も、観客が自ら推し量るしかない。 カメラは特定の人物や出来事に注視する事をしない。 意図的に感情移入を阻まれ、傍観者としてただ運命の成り行きを見守るしかないような、奇妙な疎外感と不安を感じた。 古典悲劇では度々、親の因果が子に報い、過去の出来事が現在を形作る因果応報的公式に縛られ、登場人物達は大方その定めから逃れられないが、ラストのペトラの行為は、その悲劇の糸から抜け出し、大切な物を守ろうという強い意志の表れではないかと感じた。 人間の罪、業、悪意、運命。ペトラが対峙したものとは、何だったのだろうか。
いきなり二章!?
画家ペトラが彫刻家ジャウメの元を訪れて巻き起こっていく話。 あらすじに書かれている通り時系列がいじられていていきなり二章からという不思議な始まり方をする。 基本的には会話劇の様な感じで緊張感みたいなものはあるけれど、一つ一つのシーンが長くてダレてくる。 終盤話が見えてくるとなかなか面白くはあるけれど、ダレた気持ちを完全払拭してくれるものはないし、そこからまたタラタラ。 意外性もあったけど、刺さる程ではなかったかな
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