「脚本が雑でぶれている。良い素材で、良い役者を集めたのに、もったいない。」ひとよ とみいじょんさんの映画レビュー(感想・評価)
脚本が雑でぶれている。良い素材で、良い役者を集めたのに、もったいない。
何年の設定なのだろう。
今なら。東京なら。あれほどの怪我をしていれば、少なくとも学校は通報せざるをえない。そこからすぐに児相が動き、事実が認定されれば、子どもたちは保護される。野田のような、自分たちを守るために、公的機関がDV男に子どもを差し出してしまうケースもあるが、そういう行政が機能していない設定なのか?
当事者たちが分離を望めば、公的機関・DVセンターが動き、妻と子どもたちは新しい場所での生活が始まる。子どもだけが分離を望んだ場合は、児相が動き、しかるべき生活場所を提供してくれる。
当事者が分離を望まない場合は、保護されても家に帰されるケースもあり、同じことを繰り返す。小学校6年間に、8回保護され戻ってくるというのを繰り返した子どももいる。そういう設定なのか?
とはいえ、児童虐待防止法やDV方が制定される前は、民事不介入。家族の中で起こることには公的機関は動けなった。その頃の話なのか。
そこからしてリアリティがない。だから、母の行いが響いてこないし、そのことにこだわる子どもたちの思いが響いてこない。
幾つかのレビューで、母の刑が重すぎるというものがある。
上記の対応策が取れるにもかかわらず、DV男から逃れる手段を取らずに、死に至らしめたというところで、情状酌量の余地なく、かえって罪が重くなったのか。虐待は、本人からのヘルプがなくとも、状況証拠だけで動けるが、DVは、対策がとれる”大人”として、本人からの訴えがなければ、”保護”という手段はとれない。家庭内で暴れていたひきこもり息子を、相談機関に行くとかの適性な手段を取らずに、殺した父には重い判決が実際に出ている。
子を守るためとはいえ、連れ添った夫。自ら刑を重くなるような証言をしたのか。
いつから暴力が始まったのだろうか。母が眺める幸せそうな家族写真に写る子どもたちは小学生以下ではない。何がきっかけで始まったのか。幼いころから暴力はあったものの、時には写真のような穏やかな時もあり、だんだんとエスカレートしていったのか。
そんな時の重み。それでもの母の行為。酔っぱらって歌う夫を見ていて、「止めなければ、また始まってしまう」と視野狭窄になり、気が付いたら車をバックさせてしまっていたのではないか。
殺人を子どもたちに告げるときの母。一見冷静に見えるが、異様にテンパっている。あの演説は後付けではないか。子どもたちの幸せ。それだけを願った、テンパった演説のように私には見えた。
そう、”度胸”なんかじゃない。恋愛の末結婚したのか、事情があってDV男と結婚したのかはわからない。それでも、写真のような穏やかな時を共に過ごし、3人の子をなした相手。その相手を殺す。それは、美談だとかなんだとかでくくられるものではない。
15年。出所してすぐに帰らなかったのはなぜか。『幸福の黄色いハンカチ』の島を思い出してしまう。面会にも来ない子どもたち。待っていてくれないかも。でも、約束した。それは守らねば、子どもたちのために。そうして帰ってきたのなら、厚顔無恥を装うしかない。
常に”正解”は解らねど、子どものために何がいいのかを考える母。タクシー無線のくだりは笑ってじわっときた。
”立派”ではない証明に、そう来るか。
弟の万引きへの対処。犯罪を胡麻化すと再犯する可能性が高いが、ああいう風にされたら、二度とやる気は起きまい。尤も、母はそこまで計算していたわけではなく、必死だったに過ぎないのだろうが。
そんな母に振り回される兄弟。
兄弟あるあるの絡み。3者、どこかギクシャク。芝居がギクシャクしているのではない。ギクシャクしている様子を演技で表現している。なんてすごい役者さんたちなんだ。インタビューを読むと、鈴木氏と佐藤氏は”受け”の芝居をしたとか。大ちゃんの反応が、0コンマ1くらい遅れるのが絶妙。雄二の反応が、一瞬スルーして突き放している様も絶妙。そうすると、園子がブチ切れる。もしくはつなぎとめようと必死になる。慣れあっているようでの不協和音が奏でられる。
そういうギクシャクした兄弟だが、共有できる経験があった。だから、解りあえないようでいて、根っこは同じ。これが『サンドラの小さな家』の幼い姉妹のように、姉と妹が経験したものが違っていたらどうなっていたのだろう。姉が妹が経験したことを知って共感するまで、すれ違いは続くのだろうな。
演じる松岡さんが特に出色。はすっぱな態度の中に、捨てられた子犬のような姿が見え隠れし、それでも、ソーシャルスキルが一番あるのは園子。
佐藤氏は、たんなるチンピラではなく、風俗関係の仕事に携わるふてぶてしさと、人生投げている感じ、いろいろなことに距離をとっている感じが良い。ただ、「何をしに帰ってきたんですか」と母に迫るシーンでは、田中さんの演技に対応できずに、スベッタなと思う。あと、乱闘シーンではアクション俳優としての日頃の鍛錬がかえって災い。「うん。ライダーキック!!」と思わずツッコミ。素人の跳び蹴りって、あんなにきれいに決まるもの?やさぐれ雄ちゃんにはなり切れていない。格好いい自分を出したくなっちゃったんだよね。
鈴木氏は、いわゆる”おにいちゃん”を体現。”おいしい”シーンは弟・妹に取られた損な役だが、それでも複雑な気持ちを抱えてはいるだろうが「お母さんはお母さんだから」と言い続ける気持ちは、このお兄ちゃんならと思わせるところがすごい。ただ、妻と別居するようになったきっかけの出来事が今一つ推論できるような演技ではなく、惜しい。自分の中に、DV父を見つける様子はあったが、演出が悪いのか、言葉で説明されてそうかと思う程度。中盤の妻と大ちゃんのすれ違いっぷり、かたくなな心のシーンは身につまされた。感情の動きが見えづらく、妻が離婚を考えていた、そういう表現なのだろうが、何回か見て、それに気が付くのって、損な役回り。
とはいえ、兄弟それぞれの父への思いは?繰り返すが、家族写真のような関係の時もあった。暴力を振るわれていても、いなくなってしまえば、楽しかった頃の思い出もあり、母のやったことを素直に受け入れられないのか。大ちゃんは、あえて母を正当化しようとするのか?う~ん、片落ち。
殺人犯の息子の苦しみとして『ある男』を見てしまった後では、余計に設定が甘く感じる。友達の一家を殺した父をもつ『ある男』のXと、自分たちに暴力をふるっていた父を殺した母を持つ子どもたちでは、心境も、置かれた環境もまったく違うが、単に、「嫌がらせされている」と薄っぺらい設定だけにしてしまっていて、兄弟たちの経験したものが見えてこない。
この家族を軸にして、三組の親子の話も挟まれる。
漁師になりたかったのに、父の後を継いだ甥っ子。いい味出している。
この兄弟が、あのような嫌がらせを受けても、この土地に住み続けられたバックボーンを示すとともに、どんな環境だって自分の好きなものになれるとは限らないということを示したかったのか。
認知症の母を抱えた娘とその孫。
軸になった家族のような特異な環境じゃなくたって、家族ならいろいろな気持ちを抱えることがあるんだということを示しているエピソードなのか?
家族の死を願ったことがあるとして、実現すればハッピーというものではない。
死んだ対象者に対する家族の思いを羅列した?いらない。
そして、堂下の父子。
このエピソードは正直不発。軸になる家族の転機に関わるエピソードとしては面白いが、父子の顛末が回収できていない。堂下は自業自得だが、カズヤに救いはないのか?
父の元々の職業のせいで、抜き差しならない状況に追い込まれるカズヤ。「お金が欲しかったんだよ」とはいうが、目をつけられたのは、父の元々の行いのせい。それこそ本当に「お前のせい」だ。ああいう輩に一度目をつけられたら後は蟻地獄。というのは、最近検挙がつづいている”ルフィ”一味でも取りざたされている。こはるのことを褒めるなら、別の手段があるだろう、堂下!と一喝したくなる。ま、あんなことをするような奴だから、前職はあの仕事なのだろう。
と、一つの父子関係を描いているが、このエピソードは必要だったのか。元々の劇でもこのエピソードはあるのか。
いやがらせ。
正義面したうっぷん晴らし。
実際でも、犯罪者を出した事業所にも、正義面したいやがらせの電話が押し寄せる。その事業所と犯罪は関係ないのに。電話してくる人は関係者ではない。関係のない人が正義面してかけてくる。攻撃できる場所があればいいのだ。時間を持て余しているのだろうなと思う。
家族。
100人いれば、100通りの家族の思い、関係性がある。同じ家族の中の兄弟でも、経験によって変わってくる。
家族について考えてしまう。
”人””家族””取り巻く社会”をじっくり見つめ直し、味わえる、濃厚な映画かと思った。そういうのを表現できる役者を集めているし。
兄弟や母、タクシー会社の社員との掛け合いは、さすがと唸るエピソードや台詞、シーンが散見。堪能。
だのに、人や家族、取り巻く社会の、内側にうごめく動きを追うことをさけ、介護や堂下のエピソードで水増ししてしまい、アクションに逃げてしまった。残念。
≪2024.6.21訂正≫
劇未鑑賞。