劇場公開日 2019年9月27日

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「感情移入とは微妙に違う【主客合一】とは?」ホテル・ムンバイ 蛇足軒瞬平太さんの映画レビュー(感想・評価)

4.0感情移入とは微妙に違う【主客合一】とは?

2019年10月24日
PCから投稿

感情移入ではない【主客合一】とは?

事実は小説より奇なり、
を超えて、
ファクトよりもクリエイト。

フィクションで事実を、
観客の胸の奥深くに差し込む。

その深さは報道やニュース、ドキュメンタリー作品(「ジェノサイド・ホテル」もフィクションだけど)よりも深い。

傑作・・って言えない。
感動・・って思えない。
良かった・・って喜べない。

演出の技術はかなり高い。
シナリオ→撮影→編集。
多くの登場人物の気持ちの動きが観たくなるようなサブプロットの編集の繋ぎ方も上手い。

アーミー・ハマーの行かないといけないから行く正義。
地元警察の行かなくてもいいのに行く正義。
ホテルスタッフの行く正義と行かない正義。
訓練された特殊部隊の将校もただの人、
ジョン・マクレーンは夢物語の正義。

(地元警察は行かなくていいというよりも、あの時点でテロリストの正体、人数、火力、訓練度等多くが未知数のまま、突入するのは無謀・・・でも行く!(この地元警察でメインプロットを引く事も可能だったはず、、))

それぞれの登場人物の行動と観客はシンクロしながら事件を見る。
そして、解釈は微妙に違うはず。

観客の主観と客観が、
シンクロする【主客合一】という行為。

その行為は感情移入とは微妙に異なるという事と、
感情移入は物語を追うのに必ずしも必要ではない、
シンクロしたくない登場人物とも主客合一は成立するのがわかりやすい作品でもある。

そして何よりもメインプロット。

この凄惨な実話を先に映画化した「ジェノサイド・ホテル」(フィクション作品)でも書いた。

エンタテインメントでハラハラドキドキの展開で魅せるには、時期尚早ではないか。

テロ発生→状況終了までをメインプロットにしてもいいのか⁈

事件に遭遇した人々を描くだけでも充分にドラマは成立するのではないか。
企画段階での周囲からの批判、製作サイドの内側での葛藤、なんとなく想像できる。

でもあえてフィクション、エンターテインメント。

その大きな理由のひとつは、
未だ逮捕されていない首謀者への怒りではないだろうか。

首謀者への怒り、
何故こんな被害を受けないといけないのか?
と、
何故こんな子供たちが加害者に?

テロリストの少年たちのエピソード。
水洗トイレに驚き、食べ残しのピザを貪る、
タトゥーも見た事ない、そして家族への電話。
◯◯にも三分の理と捉えるかどうかは観客次第。
ここは創作だろう。
ここでも【主客合一】は発生する。
決して少年たちの気持ちには賛同できない、
ただ、どこかで止められなかったのか等考える観客もいるかもしれない。

フィクションの効果を最大限に駆使して、
ドキュメンタリーよりも、
リアルな描写で観客の心を捉え、

エンターテイメントで世界中津々浦々まで作品を届けたいという製作サイドの狙いは一定の効果をあげているのではないだろうか。

蛇足軒瞬平太