「着飾った衣装から解き放たれて残るもの。」ロケットマン すっかんさんの映画レビュー(感想・評価)
着飾った衣装から解き放たれて残るもの。
○作品全体
サクセスストーリーとその裏にある苦悩。同監督ということもあって『ボヘミアン・ラプソディ』を思い起こしたりしつつ見ていたが、ライブエイドを魂を燃やし尽くす最後の輝きの場として魅せた『ボヘミアン・ラプソディ』とは違って、『ロケットマン』は忌み嫌って置いていった自分の原石を必死に取り戻そうとするような、辛く苦しい作品として写った。苦悩を抱えながらもステージ上ではフレディ・マーキュリーとしての主人公を、楽曲とともにきらびやかに撮っていた『ボヘミアン・ラプソディ』だが、『ロケットマン』ではエルトン・ジョンとしての振る舞う主人公がそのきらびやかさに振り回されているように感じる。ステージ上でピアノを弾きながらカメラがグルグルと回るカットが印象的だったというのもあるかもしれない。自らを着飾る衣装と観客の声、ピアノの音にかき回されてしまうかのようなステージ。追い求め、手にしたはずの輝きに翻弄される姿が、スターとして生きる苦悩を想起させた。
自分の原石である音楽への純粋な気持ちに向き合うとき、ステージ上で着飾っていた衣装を少しずつ脱いでいったり、シンプルな音の世界、もしくは無音に近い世界へ進んでいく。大きくなっていく名声とは裏腹に、無くなっていく身近な愛。出てくる人物は増えていくが、主人公が信頼できる存在はどんどんと減っていく…この相反する関係性が上手く表現されてるシーンとして、豪邸で「自殺ショー」を行う主人公が水の中に沈んでシーンが挙げられる。音がほとんどない、シンプルな世界に沈んで行くが、表情は柔和だ。そして「救出」というよりも「強引に浮上させる」見知らぬ人々。名声と自分の奥底にある気持ちが天秤に測られる間もなく、スターとしての存在としての運命を決めつけられているようなシーンで、とても印象的だった。
リハビリ施設の終盤のシーンではスターらしい衣装、スターとして奏でる音、スターとしての振る舞い…自身の気持ちと天秤に測られることさえも放棄して、自分のなかにあるシンプルな音楽への気持ちに立ち返っていく。中でも精神世界の中に現れる父や母たちとの対話を経て自分自身とハグをするシーンは、何よりも過去の自分を承認することが優先されているような演出で、主人公が取り戻したかったものを実直に伝えていた。外のベンチで昔のように歌詞を受け取るシーンでは音のコントロールが素晴らしい。あれだけ華々しく人の声にあふれていた世界が嘘のように、鳥のさえずりと信頼できる仲間との会話だけが存在している。手にしたものと、代償として失ったもの。どちらを自分の意志で尊重するか、選択した上で存在する世界。「孤独に生きていく世界を選択した」と母に決めつけられたが、そこから脱却する一歩目の世界だと言える。
着飾った衣装や人々から押し寄せる様々な声から解き放たれた先には、スターのままでは気づけなかった鳥のさえずりがある普通の日常と、音楽への純粋な情熱だけが残る。朝食を片付ける皿の音を背に「僕の歌は君の歌」を作っていたあの頃のように。
○カメラワークとか
・PANワークで1カットっぽくする演出が印象的。ピアノ弾きながらグルグル回るカットもピアノが手前に来たあとに別のステージに変わってたり、車のライトをアップで横PANして場面転換したり、終盤の高級料理店でトイレから戻ってきたらぐるっとカメラが回り込んでバーニーと横位置で向き合うカットとか。『ボヘミアン・ラプソディ』ではどうだったっけな。
・スローモーションを多用していたけど、正直良いなと思えるところは無かった。冒頭のシーン、初めて歌詞が書かれた紙を受け取るシーン、LAのライブで飛ぶところ。どれも誇張が過ぎて引いてしまった。回り込みと合わせて使われていた気がするけど、それもあって誇張すぎると思ったのかもしれない。ロケットになっちゃうところとかもそんな感じ。正直苦笑交じりで見ていた。
・母へゲイを告白する、電話ボックスのシーン。告白まではボックス外から映して、母に「知ってた」と言われた後はボックス内から映す。電話ボックスが主人公の心の壁のような役割を担っていて、母の言葉によって壁を壊される、というよりも気づけば壁の内側に母が居た、というような演出に。その後電話ボックス(心の壁)を無造作に開くマネージャーのシーンはビジネスとしての関係でしかない、ということの強調に使われていた。
・ラストのPV的シーンは「I'm Still Standing」のPVのパロ的なやつなんだろうけど、演出の古臭さに見合ったカメラの古臭さの表現が面白かった。トイカメラとはまた少し違ったボケとか歪みを足していたような。
○その他
・主人公の目線。初めてバーニーに会ったときの目線のさまよい方が内気な性格を表現してて面白かった。好きな曲の話で意気投合した後は積極的に目線を合わせに行く感じとか。
・水の中の皮膚の色はかなり白色を強調させていた気がする。死との境目、みたいな意味合いだろうか。水の中っていう表現だけで自身の内なる世界みたいな表現になるけども、それに死の気配を漂わせていたように感じた。
『ボヘミアン・ラプソディ』のときも死に直面した主人公のセリフや表情が好きだったので、デクスター・フレッチャー監督の死の表現はちょっと注目したいかもと思ったりした。