帰ってきたムッソリーニのレビュー・感想・評価
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ムッソリーニ、にてるかな?
ヒトラーは素材になる事が多いけど、ムッソリーニはあまり出てこない気がする。イタリアの映画界ではそんなものもないのかな。ムッソリーニ、にてるのかな?
「私は嘘をついた 私は建てない 皆で建てよう!」
正に今、自分が陥ってる『下手の考え休むに似たり』であり、『貧すれば鈍する』ということなのであろう。他の評論でもあるように、今作に於ける映画“帰ってきたヒトラー”のほぼ完コピ振りは多少なりとも同意せざるを得ない部分もあったので、鑑賞後にネットで両作の差違の言及を探していたら、マライ・メントラインというドイツ女性(NHKドイツ語講座 以前出演)がネタバレないように意見が書かれていた。それが、“ファシズム“と”ナチズム“との違いが起因の、それぞれの作品のクライマックスでの観客へのメッセージらしい。実は以前ヒトラーの方も鑑賞していたのだがどうにもレビューが書けずに、そのまま下書き状態にしていたのを失念していて、改めてDVDを借りて女史の指摘をチェックしようと思ったのだが、何故だか肝心の1時間26分の部分が再生が出来ずスキップしてしまい確認出来ず終い。結局言わんとすることが不明なので、今作での印象だが、それが表題の台詞である。ムッソリーニが掲げる”ファッショ“は全体主義。一人でやるんじゃなくてみんなでやろうということ。それを鼓舞する”ドゥーチェ“は国父といった立場での認識がイタリア国民にはあるのではないだろうか、果たして違うのか、その辺りが今作品の注目点なのだが。あくまでも原作に忠実にという構成の中で、表題に気が付くことはなかった。なので、冒頭の諺なのである。ある程度、第二次世界大戦時のヨーロッパ史を認知していないと、両作の奥深さは感じ取れないと強い敗北感に苛まれる。それ程自国に根付いた強いテーマ性の作品であろう。表面的には世界中で問題になっている”移民排斥“、”グローバリズム否定“、”人種差別“等々の比較的明快なテーマを表明しているし、それ以上の”ヒダ“を紐解くにはそれなりの下調べは必要かと感じる。そしてそれをせずに今作を論ずる事は不可能だ。自分も含めてその努力を怠る事を自覚している者は、軽々しく評価すべきはないと最終的な結論に達した。なにせ袋小路に陥ったが如く、とんでもない問題意識を観客に叩き付けて終わるのだから、どうにも答えを導き出せない足りない頭では、それこそヒトラー、ムッソリーニの思う壺なんじゃないかと、負けた感に打ち拉がれる。
ちなみに今作品に於ける映像そのものの技術や効果、演出等は、“ヒトラー”以上の映画作品としてのレベルの高さが窺える。
勝負に負けた時、人はどれほど苛まれるのか、そしてそこに独裁者達の甘言が、どれほど心地よく脳内深くに浸透されてしまうのか、そしていつの時代でも、いくら痛い目にあっても人間は同じ事を繰り返す、そのやるせなさに諦観しか思いつかない無力な自分が存在する。
民衆は80年たっても、愚かなまま?
最初はもっとライトなコメディなのかと思いきや(よくある、タイムワープした人物が現代文明に驚いて四苦八苦するストーリー的な)、ブラックユーモア効きまくりの現代社会への風刺映画と感じた。
ムッソリーニが言った
「みんなスマホばかり見て、テレビをつければ“料理人ばかり(イタリアのバラエティはお料理ショーなのだろうか? 要は日本でいうところのバラエティ)”。他人をねたんでうらやんで…」
「投票はするけれど、その政治家が何をしているか誰もみもしない」
が刺さる。
そして、ムッソリーニは偽物なんかじゃなく、ホンモノなのに「バラエティ」でウケてしまって、いよいよ台頭するのか!?というところで、物語は終わる。
私たちの平和ボケ、バラエティ漬けになって、思考停止なこと、「政治?なにそれ難しそうわかんない」みたいな無責任……
それでいいの? またファシズムが台頭するよ?という警鐘と思う。
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