帰ってきたムッソリーニのレビュー・感想・評価
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ファシズムとナチズム
中盤で出てきたムッソリーニ時代を経験したユダヤ人の女性の印象的な台詞。
人々はファシズムとナチズムは違っていて、ファシズムは軽いもの、くらいに思っているかもしれないと。
ファシズムであれ適度な独裁は良いのだという空気が広がっていたのかもしれない。
どうなるか分からない怖さがあるのはカティア。
映画から約5年。イタリアで実際に極右政党から女性首相が誕生した今見たら特にそう思った。
【今作と「帰ってきたヒトラー」との違いを少し真面目に考える。】
ー 御存じの通り、今作はドイツでベストセラーにもなり、それを映画化した「帰ってきたヒトラー」に、イタリアのヒットメイカーであるルカ・ミニエーロ監督が着想を得て、映画化したモノである。
だが、今作と「帰ってきたヒトラー」では、同じシニカルコメディ―ではあるが大きな違いがある。ー
◆感想
・私が劇場で「帰ってきたヒトラー」を鑑賞した際に強烈に覚えているのは、ヒトラーに全く似ていない俳優(今作の、ムッソリーニに扮した俳優も本人とは、全く似ていない。)が、ヒトラーの恰好をして街を歩いている風景を撮ったシーンでの、年配の方々の反応であった。
物凄い嫌悪感を表情に出した年配の人々の姿。(人によっては、モザイクが掛かっていた。映画に登場する事を拒否したのである。)
一方、若者が面白がって、ヒトラーの写真を撮る風景。
「帰ってきたヒトラー」は現在、ネオナチ勢力が蔓延りつつある、ドイツを象徴的に表した映画であった。
購入したパンフレットには、ヒトラーに扮した俳優の身の危険を守るためにスタッフが苦慮した事が記されている。
・では、今作はどうか。
作品構成は、空から降って来る冒頭シーンや、犬の射殺シーンなどオリジナルとほぼ同じだ。
だが、決定的に違うのは、ムッソリーニ処刑後70年の間に政権が63回も変わり、今やヨーロッパの中でも最貧国になってしまったイタリアの人々の蘇ったムッソリーニに対する態度及び、現在のイタリア政権に対するシニカルな意見である。
・愛犬を射殺されたユダヤ系の老婆は、最初ムッソリーニの過去の所業に対し、厳しい言葉を浴びせるが最後は”貴方を赦します・・”と言ってしまっている。
・若者だけではなく、多くの現在のイタリア情勢に不満を持っている人たちの、移民問題などに対する不寛容な意見。
それを、今作では深く突っ込まずに、コメディで通してしまっている。
<お国柄の違いと、ヒトラーの極悪非道振り(ついでに言えば、三国同盟を組んだ東條英機)との違いもあるのかもしれないが、只の中途半端なコメディ映画になってしまったかなあ、と思ってしまった作品である。
劇中、ムッソリーニが屡、口にするクラレッタは、彼の愛人であったが、政治的に関わった訳ではないのに、ムッソリーニと共に銃殺刑にされ、遺体が晒された女性である・・。>
つぎは日本の番です
毎度ながら韓国や中国との関係が悪くなっている。
それとは真逆に、個人的に、とりわけ韓国の映画を誉めることが多くなっている。
後ろ髪を引っ張られている感じがある。何となく。
そんなとき、ばくぜんと、言い訳を考える。
たとえ親が犯罪者だとしても、その息子や娘は、親の犯罪と何の関係もない。
だから普通に接したい。
その国のコンテンツも息子や娘のようなものだ。
だから政情がどれほど険悪でも、かれらの映画やドラマを、ごく普通に楽しんでもいいはず──と考えたりする。
そんなことを終始考えているわけではないが、なぜ敵対視されている国の映画を誉めているんだろうかと──われながら不思議に思うこともある。
そして日本映画をけなす。
すると、たんなる映画ファンなのに、これはSNS界隈で売国奴と言われてしまう姿勢ではなかろうか──と気になる。
日本人であることを気に掛けつつ、韓国や中国のエンタメに接している──つもりではある。
誉めているのは映画であって、国のやり口を許しているわけじゃない、という気持ちはある。
なんの意味もないが。
かわいいとかっこいいで、全信頼を勝ち得ることができる年齢や人種には限界がある。
しかし優れた映画は、もっと広範囲に、好感と信頼をあつめられる。
おとなたちも韓国映画が好きだ。
いい映画は、庶民をなっとくさせることができる。
つまり、いい映画は国策になりえる外交力を持っている。
庶民の感情にかかわるなら、巡り巡って政治にも関わってくる。ふたつもばくだん落とされたのに、みんなアメリカが大好きだ。
映画は大衆のコントローラーだと思う。
パラサイトが世界にたいして、どれだけ韓国を親近たらしめたか、はかりしれない。
もし大多数の日本国民が、日本映画はつまんないから外国映画見ていればいいや──と思ってしまったら・・・自国日本も好きになれないんじゃないだろうか。
やはりいい映画をつくってもらわなければいけないと思う。
おそらくどうでもいいことじゃないと思う。
アジアは映画の中ですら鳳梧洞戦闘や軍艦島や金陵十三釵のように、少しも軟化していない。
職場の韓国人や中国人は普通の人たちだが、個人の気持ちはともかく、アジアでは国の方針と大義における国民感情は連動している。
親が犯罪者なら、子も犯罪者なのである。
ドイツ映画、帰ってきたヒットラーがヒットして、イタリアもまけじと帰ってきたムッソリーニをつくった。
二番煎じだし、低予算でさくっとつくっているが、あんがい楽しい。町並みがきれいで、ゲリラ撮影の臨場感もあった。しょうじきなところあまり似ていないが、特徴がスキンヘッドだけなので、軍服と軍帽といかつい顔さえあればだれだってベニートである。
笑いにできることはうらやましい。
ドイツにもイタリアにも、しがらみがない。
みんな笑っている。
過去のことだ。
ならば、あの時の首領をネタにしてみよう。
三国同盟にならってドイツ、イタリアときたら、次は日本の番だ。
となると日本は帰ってきた近衛文麿か、帰ってきた東條英機をつくることになる。
できるか。
できっこない。
そもそも独裁者ではなかった。近代日本で独裁を布いたひとはいない。
が、そんなものをつくったら、どうなるんだろう。
日本は、なお混み入った相対のなかにいる。
独立していないも同じかもしれない。
が、そんなばくぜんとした感慨とちがって、現実に主権を乗っ取られた香港の人々は、どれだけ恐ろしいことだろう。それを言いたかった。
戦時の軍人がよみがえって、それがコメディになる。
アジアにそんな未来があるんだろうか。
なんてがらにもないが。
面白いが、ヒトラー版より脅威を感じない?
帰ってきたヒトラーのムッソリーニ版。
ファシズムの先駆者だったはずだが、ヒトラーにお株を取られた印象。
映画の方も出演者のインパクトが弱め?
音楽はさすがイタリア!だったが。
演説やTVの演出はヒトラーのほうが、やはり様になっている。
何とも言えない高揚感があった・・・
ムッソリーニも演説は上手かったそうだが、ヒトラーより人間臭い感じ?
取材記者(映像作家)の女性関係へのムッソリーニのかかわり方(シラノ・ド・ベルジュラックよろしく、取材記者のスマホに愛の言葉を勝手に代筆)は、ヒトラーにはない個性と言え、結構笑えた。
ラストの持って行き方は、ヒトラー版のような入れ子構造はなく、リアリティがあるものだったが・・・
やや、おちゃらけ感が増しているようにも思え、「本当は怖い」感が少々薄い気もした。
フィアットのカングーもどきは、ヒトラー版のそれよりいい感じ。
リメイクなのね
帰ってきたヒトラーがとても面白かったのでどうしても比較してしまうが、まず日本人はそんなにムッソリーニに対してあまり知識がないと思う。
少なくともヒトラーのが知名度が高いのでそのあたりでは日本での上映は不利だろう。
しかし、このちょっと変わったおじさん、現代によみがえればこれは魅力的に見えてくる。
移民問題や、イタリアの現実に悲観的なムッソリーニ。
日本も同じように携帯依存、若者に覇気がない、移民問題もゆくゆくはありえる事。
イタリアの情勢には疎いので細かいことはわからないですがまあまあ楽しめました。
「私は嘘をついた 私は建てない 皆で建てよう!」
正に今、自分が陥ってる『下手の考え休むに似たり』であり、『貧すれば鈍する』ということなのであろう。他の評論でもあるように、今作に於ける映画“帰ってきたヒトラー”のほぼ完コピ振りは多少なりとも同意せざるを得ない部分もあったので、鑑賞後にネットで両作の差違の言及を探していたら、マライ・メントラインというドイツ女性(NHKドイツ語講座 以前出演)がネタバレないように意見が書かれていた。それが、“ファシズム“と”ナチズム“との違いが起因の、それぞれの作品のクライマックスでの観客へのメッセージらしい。実は以前ヒトラーの方も鑑賞していたのだがどうにもレビューが書けずに、そのまま下書き状態にしていたのを失念していて、改めてDVDを借りて女史の指摘をチェックしようと思ったのだが、何故だか肝心の1時間26分の部分が再生が出来ずスキップしてしまい確認出来ず終い。結局言わんとすることが不明なので、今作での印象だが、それが表題の台詞である。ムッソリーニが掲げる”ファッショ“は全体主義。一人でやるんじゃなくてみんなでやろうということ。それを鼓舞する”ドゥーチェ“は国父といった立場での認識がイタリア国民にはあるのではないだろうか、果たして違うのか、その辺りが今作品の注目点なのだが。あくまでも原作に忠実にという構成の中で、表題に気が付くことはなかった。なので、冒頭の諺なのである。ある程度、第二次世界大戦時のヨーロッパ史を認知していないと、両作の奥深さは感じ取れないと強い敗北感に苛まれる。それ程自国に根付いた強いテーマ性の作品であろう。表面的には世界中で問題になっている”移民排斥“、”グローバリズム否定“、”人種差別“等々の比較的明快なテーマを表明しているし、それ以上の”ヒダ“を紐解くにはそれなりの下調べは必要かと感じる。そしてそれをせずに今作を論ずる事は不可能だ。自分も含めてその努力を怠る事を自覚している者は、軽々しく評価すべきはないと最終的な結論に達した。なにせ袋小路に陥ったが如く、とんでもない問題意識を観客に叩き付けて終わるのだから、どうにも答えを導き出せない足りない頭では、それこそヒトラー、ムッソリーニの思う壺なんじゃないかと、負けた感に打ち拉がれる。
ちなみに今作品に於ける映像そのものの技術や効果、演出等は、“ヒトラー”以上の映画作品としてのレベルの高さが窺える。
勝負に負けた時、人はどれほど苛まれるのか、そしてそこに独裁者達の甘言が、どれほど心地よく脳内深くに浸透されてしまうのか、そしていつの時代でも、いくら痛い目にあっても人間は同じ事を繰り返す、そのやるせなさに諦観しか思いつかない無力な自分が存在する。
民衆は80年たっても、愚かなまま?
最初はもっとライトなコメディなのかと思いきや(よくある、タイムワープした人物が現代文明に驚いて四苦八苦するストーリー的な)、ブラックユーモア効きまくりの現代社会への風刺映画と感じた。
ムッソリーニが言った
「みんなスマホばかり見て、テレビをつければ“料理人ばかり(イタリアのバラエティはお料理ショーなのだろうか? 要は日本でいうところのバラエティ)”。他人をねたんでうらやんで…」
「投票はするけれど、その政治家が何をしているか誰もみもしない」
が刺さる。
そして、ムッソリーニは偽物なんかじゃなく、ホンモノなのに「バラエティ」でウケてしまって、いよいよ台頭するのか!?というところで、物語は終わる。
私たちの平和ボケ、バラエティ漬けになって、思考停止なこと、「政治?なにそれ難しそうわかんない」みたいな無責任……
それでいいの? またファシズムが台頭するよ?という警鐘と思う。
警鐘か賛美か
何かのリメイクかどうかが問題なのではない。
ファシズムはナチズムと違うと再評価される動きがある中、また、社会課題が山積し混迷する中、悲劇的な歴史を繰り返すなという警鐘とも言えるが、独裁的ファシズムを賛美する待望論とも言える。実に危うい作品。ブラックユーモアのブラックが真っ黒になりきっていないかも。
イタリアに疎いと笑えないかも
編集やカメラワークなど自分には合っていなかったせいか、結構きびしいものに感じた。しかもそれほどイタリアのことに精通しているわけでもなく、それゆえに数々の笑いどころを掴めていなかったような気もするし─。
笑いをメインとしている作品だということはわかるけれど、社会不安や未来への不安というのも意外と強く反映されていて、これは当初の印象とは違って楽しむだけの映画ではないなという印象。
嗚呼伊太利亜
「帰ってきたヒトラー」のリメイクだし、あれもこれもおんなじみたいなところも多々あって、金返せみたいな人は多いだろうなとは思います。
ただ、映画でも言ってるように、イタリアは、70年で60回以上内閣が変わったり、最近の極右っぷりは、ドイツ以上なので、実はこっちの方が、リアリティーあるかもしんないと感じました。
因みに、ポピュリズム政党「五つ星運動」と極右政党「同盟」の連立政権は半年程度で分裂して、五つ星運動と中道右派の政権になるので、少し極右っぷりは薄まりました。
因みに、分裂の大きな理由は、両党の政党支持率が逆転してしまったがために、同盟が、俺らの言うこと聞けよ!みたいな態度になって、結構無茶苦茶な政策を前面にだそうとしたためで、相変わらずなのです。
あと、もう一つ、今、イタリアは、あのまんまの一つの国だったように思ってる人は多いと思いますが、イタリア王国の時代も、昔の都市共和国がいくつもあったような名残や、北イタリアの一部とか、南イタリアはハプスブルク家の支配にあったことなどで、首都がいくつもあったりバラバラの国だったのを、ひとつのまとまった国のようにしたのは事実上、ムッソリーニなので、そういうことも念頭に観たら、もう少し楽しめるかなとは思います。
まあ、北イタリアの人には、依然として、南イタリアとは分国したいという人も多く、今でもバラバラはバラバラですけどね。
AGAIN
人物をヒトラーからムッソリーニに、舞台をドイツからイタリアにしてつくられた「帰ってきたヒトラー」のリメイクで、ムッソリーニが2017に突如タイムリープして現れる話。
若干の構成の違いはあるものの、新聞スタンドに始まりテレビ局の人事や編成の絡みから、犬とか当時を知る婆さんに至るまで、ほぼ「帰ってきたヒトラー」と同じ。
ブラックコメディとして映画として面白かったけど、たかだか3年前の作品のリメイクだし殆ど一緒だしねえ…。
イタリア人だったりムッソリーニに思い入れがあれば違うのかも知れないけれど、何ならヒトラーの方がインパクトあるし、別に「帰ってきたヒトラー」で良いやという感じで星-1。
チョビ髭とスキンヘッド
ん?このあらすじ『 #帰ってきたヒトラー 』にそっくりだなぁ。と思ったら…『帰ってきたヒトラー』をベースに、舞台をイタリアに置き換えた映画でした(^^;;
『帰ってきたヒトラー』は2016年のベスト3に入る程、お気に入りの映画です!
ヒトラーの無茶苦茶な演説に笑いながらも、いつしか聴き入っている自分に気づく恐ろしさ。
出世欲の為にヒトラーの人気を利用しようとする人々と、
そんな人々に利用されているようでいて、実は自分自身の目的を果たしているヒトラー。。。
いや。そもそも、目的があって帰ってきたのではなく、国への不満を募らせている人々のパワーが呼び寄せたのではないかと思えてきます。
失業と移民問題。人々がわかりやすい敵を欲しているタイミングで現れるのだとしたら…:(;゙゚'ω゚'):
ろくな対策を取ってこなかった政府としても、問題点のすり替えができて好都合だし、
戦争にでもなった日にゃ、一部の企業は大儲け。
可愛いカップルの存在が後半の鬱展開の理不尽さに拍車をかけ、NOを唱える声が消されてゆく恐ろしさも。
そして、ヒトラーも怖いけど、女も怖い。(^^;;
鑑賞後ボディーブローのようにジワジワ効いてくる映画でした。
これが“イタリア”で“ムッソリーニ”だと、どんな風になるのかしら??と、興味津々。
いかついスキンヘッドのムッソリーニさんは、ビジュアルではあまり笑えないので、ソックリ芸人いじり的な面白さは少なく、ヤバイおじさんポジでした。
血が混ざり合うのを嫌うところが強調されていたように感じましたが、日本のような島国にちょっと近い感覚なのかしら?
見比べてみるのもオススメです。
人々が徐々に戦争へと流れていく経過を見せられたような、現代社会に一石を投じる内容であり
結局、強すぎるナショナリズムは諍いしか生まない気がしました。
私なんて、すごく流されやすい性格なので、負の歴史を繰り返すことのないよう、肝に銘じないと。( ̄^ ̄)
もし日本版を作るとしたら、誰が現代に蘇るのか…
アメリカ版はわざわざ作らずとも、既に出現している気がして怖いです。σ(^_^;)
#帰ってきたムッソリーニ
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