帰ってきたムッソリーニのレビュー・感想・評価
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コンパクトなコメディ
社会問題
移民問題、政治不信、経済問題を抱えた現代のイタリアに独裁者のムッソリーニが降臨!
流れは「帰ってきたヒトラー」とおなじだけれど、ムッソリーニの方が歴史が古くお色気のシーンで差別化を狙ってるのかな!?
飼い犬をムッソリーニに射殺され怒っていたおばちゃんがムッソリーニのパフォーマンスや大衆からの圧に飲まれるように和解する終盤のシーンはこうやって独裁者たちが支持を獲得していったのかなと考えさせられた。
そして視聴率が取れればいいだろ!と利用するテレビ局の人間たちも・・・
反面教師的な作品だなと思った
ファシズムってよくわからないもんね
超社会派コメディだった「帰ってきたヒトラー」のイタリア版リメイク。驚くべきことにヒトラーがムッソリーニに変わった以外、そのストーリーラインはほとんど同じ。ちょこちょこイタリアらしさが出ることとドイツとイタリアの違いからエンディングから受ける印象が違っていることくらいしか違わない。
単純な面白さでは「帰ってきたヒトラー」の方が上かもしれないが、あちらは本当に低予算クオリティで、映画としての格という意味ではこちらに分があるかなと思う。
本当に同じなので「帰ってきたヒトラー」が身悶えするほど面白かった人以外にはオススメしない。ファシズムを研究してるよとかムッソリーニに興味あるよって人はいいか。
ファシズムを賛美しているようで、のような否定的なレビューを見たけれど、仮にファシズム賛美だとして何が問題なのだ?ファシズム自体は別に悪いことでも何でもないでしょ。
私たちは社会主義ではないが、かといって社会主義は悪なのか?
単なる国のあり方についての思想で善悪の問題ではない。ただどちらがより良いかというだけだ。
なんとなくファシズムが悪みたいな感覚なのは大戦のときにファシズムを悪にしたかった連合国側のプロパガンダだよ。
すごく単純化したファシズムの根底は結束。
コロナ禍の出来事を例にすると、みんなでマスクをつけましょうとなってつけるのはファシズム的。
よその国ではマスクを着けない自由などと言って着けない人が大勢いる。ちょっと違うけどアナーキストだね。
そういう意味で皆が同じ行動をとれる日本はすごくファシズムだと思うんだけど、それでファシズムは悪みたいに言ったら自分ら悪人になってしまう。
ファシズム=独裁ではないし、独裁=悪でもない。悪の独裁が悪なのだ。
上記を踏まえて「帰ってきたヒトラー」では、このままではナチ党を生んだときと同じになるぞとドイツ人に警告するような作品で、「帰ってきたムッソリーニ」では、もっと国や政治に関心を持てと訴えているようであった。
その辺はどちらの作品もゲリラ撮影で一般人にインタビューしているのだが、その内容からも伺える。ドイツは自身の窮状を具体的に訴えているのに対し、イタリアはふんわりぼんやり、なんなら政治に関心ないとハッキリ言ってしまっている。
移民問題に絞って言うと、「帰ってきたヒトラー」では過剰な移民の受け入れと過剰な排斥意識は強い民族主義を生むと、国と国民の両方に警告していてる。
本作では、そもそも移民についての話がほとんどなかったけれど、皆で一緒に頑張りましょうと言うだけ。
つまり無政府主義的な無関心に対する警告ってことなのかなと思った。
そんなわけで、全く同じストーリーラインでありながらイタリア人には刺さったかもしれない絶妙な落とし込みは天晴れだったでいいんじゃないの?
ドイツ人はヒトラーを選んでいるがイタリア人は彼を選んでいない。
トト・クトゥーニョ❤
ムッソリーニとヒトラーの違いは、ヒトラーは選挙で選ばれた政権に対してムッソリーニはイタリア国王に圧力をかけて政権を取ったと言う事である。スペインのフランコ独裁と同じである。
従って、ムッソリーニを支持する者以上にパルチザン勢力も多いと言う事だ。
また、宗教観はどちらもカトリック信者の家庭でそだったが、ムッソリーニが無神論者になったに対してヒトラーは古代の宗教観を持つに至るのである。つまり、ここにファシズムとナチズムの違いがある。
さて、つまり、イタリアは1946年に王政を廃止して、国王をイタリアから追放した。従って、紐付きのムッソリーニ政権を、新生イタリア共和国国民は全否定している事になる。それは、イタリアが第二次世界大戦の敗戦国でないと言う事である。
従って、ヒトラーの話とほぼ同じになる訳がないと思う。だから、評価としては。こんなもん。
追記
イタリアの経済の困窮時の若者の反応を集めたドキュメンタリー風に作っているが、イタリア経済の現況は一人あたりのGNPで日本は既に抜かれていると言う事を日本人は理解すべきだ。しかも、韓国にも抜かれた。
さて、日本は誰が帰ってくるのだろう?
ファシズムとナチズム
中盤で出てきたムッソリーニ時代を経験したユダヤ人の女性の印象的な台詞。
人々はファシズムとナチズムは違っていて、ファシズムは軽いもの、くらいに思っているかもしれないと。
ファシズムであれ適度な独裁は良いのだという空気が広がっていたのかもしれない。
どうなるか分からない怖さがあるのはカティア。
映画から約5年。イタリアで実際に極右政党から女性首相が誕生した今見たら特にそう思った。
【今作と「帰ってきたヒトラー」との違いを少し真面目に考える。】
ー 御存じの通り、今作はドイツでベストセラーにもなり、それを映画化した「帰ってきたヒトラー」に、イタリアのヒットメイカーであるルカ・ミニエーロ監督が着想を得て、映画化したモノである。
だが、今作と「帰ってきたヒトラー」では、同じシニカルコメディ―ではあるが大きな違いがある。ー
◆感想
・私が劇場で「帰ってきたヒトラー」を鑑賞した際に強烈に覚えているのは、ヒトラーに全く似ていない俳優(今作の、ムッソリーニに扮した俳優も本人とは、全く似ていない。)が、ヒトラーの恰好をして街を歩いている風景を撮ったシーンでの、年配の方々の反応であった。
物凄い嫌悪感を表情に出した年配の人々の姿。(人によっては、モザイクが掛かっていた。映画に登場する事を拒否したのである。)
一方、若者が面白がって、ヒトラーの写真を撮る風景。
「帰ってきたヒトラー」は現在、ネオナチ勢力が蔓延りつつある、ドイツを象徴的に表した映画であった。
購入したパンフレットには、ヒトラーに扮した俳優の身の危険を守るためにスタッフが苦慮した事が記されている。
・では、今作はどうか。
作品構成は、空から降って来る冒頭シーンや、犬の射殺シーンなどオリジナルとほぼ同じだ。
だが、決定的に違うのは、ムッソリーニ処刑後70年の間に政権が63回も変わり、今やヨーロッパの中でも最貧国になってしまったイタリアの人々の蘇ったムッソリーニに対する態度及び、現在のイタリア政権に対するシニカルな意見である。
・愛犬を射殺されたユダヤ系の老婆は、最初ムッソリーニの過去の所業に対し、厳しい言葉を浴びせるが最後は”貴方を赦します・・”と言ってしまっている。
・若者だけではなく、多くの現在のイタリア情勢に不満を持っている人たちの、移民問題などに対する不寛容な意見。
それを、今作では深く突っ込まずに、コメディで通してしまっている。
<お国柄の違いと、ヒトラーの極悪非道振り(ついでに言えば、三国同盟を組んだ東條英機)との違いもあるのかもしれないが、只の中途半端なコメディ映画になってしまったかなあ、と思ってしまった作品である。
劇中、ムッソリーニが屡、口にするクラレッタは、彼の愛人であったが、政治的に関わった訳ではないのに、ムッソリーニと共に銃殺刑にされ、遺体が晒された女性である・・。>
つぎは日本の番です
毎度ながら韓国や中国との関係が悪くなっている。
それとは真逆に、個人的に、とりわけ韓国の映画を誉めることが多くなっている。
後ろ髪を引っ張られている感じがある。何となく。
そんなとき、ばくぜんと、言い訳を考える。
たとえ親が犯罪者だとしても、その息子や娘は、親の犯罪と何の関係もない。
だから普通に接したい。
その国のコンテンツも息子や娘のようなものだ。
だから政情がどれほど険悪でも、かれらの映画やドラマを、ごく普通に楽しんでもいいはず──と考えたりする。
そんなことを終始考えているわけではないが、なぜ敵対視されている国の映画を誉めているんだろうかと──われながら不思議に思うこともある。
そして日本映画をけなす。
すると、たんなる映画ファンなのに、これはSNS界隈で売国奴と言われてしまう姿勢ではなかろうか──と気になる。
日本人であることを気に掛けつつ、韓国や中国のエンタメに接している──つもりではある。
誉めているのは映画であって、国のやり口を許しているわけじゃない、という気持ちはある。
なんの意味もないが。
かわいいとかっこいいで、全信頼を勝ち得ることができる年齢や人種には限界がある。
しかし優れた映画は、もっと広範囲に、好感と信頼をあつめられる。
おとなたちも韓国映画が好きだ。
いい映画は、庶民をなっとくさせることができる。
つまり、いい映画は国策になりえる外交力を持っている。
庶民の感情にかかわるなら、巡り巡って政治にも関わってくる。ふたつもばくだん落とされたのに、みんなアメリカが大好きだ。
映画は大衆のコントローラーだと思う。
パラサイトが世界にたいして、どれだけ韓国を親近たらしめたか、はかりしれない。
もし大多数の日本国民が、日本映画はつまんないから外国映画見ていればいいや──と思ってしまったら・・・自国日本も好きになれないんじゃないだろうか。
やはりいい映画をつくってもらわなければいけないと思う。
おそらくどうでもいいことじゃないと思う。
アジアは映画の中ですら鳳梧洞戦闘や軍艦島や金陵十三釵のように、少しも軟化していない。
職場の韓国人や中国人は普通の人たちだが、個人の気持ちはともかく、アジアでは国の方針と大義における国民感情は連動している。
親が犯罪者なら、子も犯罪者なのである。
ドイツ映画、帰ってきたヒットラーがヒットして、イタリアもまけじと帰ってきたムッソリーニをつくった。
二番煎じだし、低予算でさくっとつくっているが、あんがい楽しい。町並みがきれいで、ゲリラ撮影の臨場感もあった。しょうじきなところあまり似ていないが、特徴がスキンヘッドだけなので、軍服と軍帽といかつい顔さえあればだれだってベニートである。
笑いにできることはうらやましい。
ドイツにもイタリアにも、しがらみがない。
みんな笑っている。
過去のことだ。
ならば、あの時の首領をネタにしてみよう。
三国同盟にならってドイツ、イタリアときたら、次は日本の番だ。
となると日本は帰ってきた近衛文麿か、帰ってきた東條英機をつくることになる。
できるか。
できっこない。
そもそも独裁者ではなかった。近代日本で独裁を布いたひとはいない。
が、そんなものをつくったら、どうなるんだろう。
日本は、なお混み入った相対のなかにいる。
独立していないも同じかもしれない。
が、そんなばくぜんとした感慨とちがって、現実に主権を乗っ取られた香港の人々は、どれだけ恐ろしいことだろう。それを言いたかった。
戦時の軍人がよみがえって、それがコメディになる。
アジアにそんな未来があるんだろうか。
なんてがらにもないが。
面白いが、ヒトラー版より脅威を感じない?
帰ってきたヒトラーのムッソリーニ版。
ファシズムの先駆者だったはずだが、ヒトラーにお株を取られた印象。
映画の方も出演者のインパクトが弱め?
音楽はさすがイタリア!だったが。
演説やTVの演出はヒトラーのほうが、やはり様になっている。
何とも言えない高揚感があった・・・
ムッソリーニも演説は上手かったそうだが、ヒトラーより人間臭い感じ?
取材記者(映像作家)の女性関係へのムッソリーニのかかわり方(シラノ・ド・ベルジュラックよろしく、取材記者のスマホに愛の言葉を勝手に代筆)は、ヒトラーにはない個性と言え、結構笑えた。
ラストの持って行き方は、ヒトラー版のような入れ子構造はなく、リアリティがあるものだったが・・・
やや、おちゃらけ感が増しているようにも思え、「本当は怖い」感が少々薄い気もした。
フィアットのカングーもどきは、ヒトラー版のそれよりいい感じ。
リメイクなのね
「私は嘘をついた 私は建てない 皆で建てよう!」
正に今、自分が陥ってる『下手の考え休むに似たり』であり、『貧すれば鈍する』ということなのであろう。他の評論でもあるように、今作に於ける映画“帰ってきたヒトラー”のほぼ完コピ振りは多少なりとも同意せざるを得ない部分もあったので、鑑賞後にネットで両作の差違の言及を探していたら、マライ・メントラインというドイツ女性(NHKドイツ語講座 以前出演)がネタバレないように意見が書かれていた。それが、“ファシズム“と”ナチズム“との違いが起因の、それぞれの作品のクライマックスでの観客へのメッセージらしい。実は以前ヒトラーの方も鑑賞していたのだがどうにもレビューが書けずに、そのまま下書き状態にしていたのを失念していて、改めてDVDを借りて女史の指摘をチェックしようと思ったのだが、何故だか肝心の1時間26分の部分が再生が出来ずスキップしてしまい確認出来ず終い。結局言わんとすることが不明なので、今作での印象だが、それが表題の台詞である。ムッソリーニが掲げる”ファッショ“は全体主義。一人でやるんじゃなくてみんなでやろうということ。それを鼓舞する”ドゥーチェ“は国父といった立場での認識がイタリア国民にはあるのではないだろうか、果たして違うのか、その辺りが今作品の注目点なのだが。あくまでも原作に忠実にという構成の中で、表題に気が付くことはなかった。なので、冒頭の諺なのである。ある程度、第二次世界大戦時のヨーロッパ史を認知していないと、両作の奥深さは感じ取れないと強い敗北感に苛まれる。それ程自国に根付いた強いテーマ性の作品であろう。表面的には世界中で問題になっている”移民排斥“、”グローバリズム否定“、”人種差別“等々の比較的明快なテーマを表明しているし、それ以上の”ヒダ“を紐解くにはそれなりの下調べは必要かと感じる。そしてそれをせずに今作を論ずる事は不可能だ。自分も含めてその努力を怠る事を自覚している者は、軽々しく評価すべきはないと最終的な結論に達した。なにせ袋小路に陥ったが如く、とんでもない問題意識を観客に叩き付けて終わるのだから、どうにも答えを導き出せない足りない頭では、それこそヒトラー、ムッソリーニの思う壺なんじゃないかと、負けた感に打ち拉がれる。
ちなみに今作品に於ける映像そのものの技術や効果、演出等は、“ヒトラー”以上の映画作品としてのレベルの高さが窺える。
勝負に負けた時、人はどれほど苛まれるのか、そしてそこに独裁者達の甘言が、どれほど心地よく脳内深くに浸透されてしまうのか、そしていつの時代でも、いくら痛い目にあっても人間は同じ事を繰り返す、そのやるせなさに諦観しか思いつかない無力な自分が存在する。
民衆は80年たっても、愚かなまま?
最初はもっとライトなコメディなのかと思いきや(よくある、タイムワープした人物が現代文明に驚いて四苦八苦するストーリー的な)、ブラックユーモア効きまくりの現代社会への風刺映画と感じた。
ムッソリーニが言った
「みんなスマホばかり見て、テレビをつければ“料理人ばかり(イタリアのバラエティはお料理ショーなのだろうか? 要は日本でいうところのバラエティ)”。他人をねたんでうらやんで…」
「投票はするけれど、その政治家が何をしているか誰もみもしない」
が刺さる。
そして、ムッソリーニは偽物なんかじゃなく、ホンモノなのに「バラエティ」でウケてしまって、いよいよ台頭するのか!?というところで、物語は終わる。
私たちの平和ボケ、バラエティ漬けになって、思考停止なこと、「政治?なにそれ難しそうわかんない」みたいな無責任……
それでいいの? またファシズムが台頭するよ?という警鐘と思う。
警鐘か賛美か
イタリアに疎いと笑えないかも
嗚呼伊太利亜
「帰ってきたヒトラー」のリメイクだし、あれもこれもおんなじみたいなところも多々あって、金返せみたいな人は多いだろうなとは思います。
ただ、映画でも言ってるように、イタリアは、70年で60回以上内閣が変わったり、最近の極右っぷりは、ドイツ以上なので、実はこっちの方が、リアリティーあるかもしんないと感じました。
因みに、ポピュリズム政党「五つ星運動」と極右政党「同盟」の連立政権は半年程度で分裂して、五つ星運動と中道右派の政権になるので、少し極右っぷりは薄まりました。
因みに、分裂の大きな理由は、両党の政党支持率が逆転してしまったがために、同盟が、俺らの言うこと聞けよ!みたいな態度になって、結構無茶苦茶な政策を前面にだそうとしたためで、相変わらずなのです。
あと、もう一つ、今、イタリアは、あのまんまの一つの国だったように思ってる人は多いと思いますが、イタリア王国の時代も、昔の都市共和国がいくつもあったような名残や、北イタリアの一部とか、南イタリアはハプスブルク家の支配にあったことなどで、首都がいくつもあったりバラバラの国だったのを、ひとつのまとまった国のようにしたのは事実上、ムッソリーニなので、そういうことも念頭に観たら、もう少し楽しめるかなとは思います。
まあ、北イタリアの人には、依然として、南イタリアとは分国したいという人も多く、今でもバラバラはバラバラですけどね。
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