ドラゴンクエスト ユア・ストーリーのレビュー・感想・評価
全1136件中、961~980件目を表示
ものすごいドラクエ好きからの感想
ドラクエ大好きなので
公開前からとても楽しみにしてました。
PV10回以上観ましたよ。
で、公開当日、仕事終わって夕方に直行。
見終わった感想、クソ中のクソ。
ちゃんとドラクエしてたら
まだこんな感想にはならなかった。
以下、ネタバレあり。
ドラクエ5の話は長い。
わりと強引に端折っても仕方ない。
本編は2時間も無い。
だから話を端折ってるのは許せた。
それに合わせて話がちょっと変わるのも
まあ、許容範囲。
音楽が全部有り物っぽく、
すぎやまさん仕事してなさそう。
序曲使いすぎ。
ゲマ戦でエルギオスの音楽かかるし
スタッフロールはそして伝説へが流れ、
違和感半端なく、なんでやねんの一言。
パパス死ぬとこあっさりだし
マーサが死ぬとこのパパスと一緒に
天に昇るとこも無し。
ゲレゲレはパパスの剣を守っている
わけでもなくただの野良扱い。
妖精の国の妖精は気持ち悪いし。
ドラクエの妖精こんなんじゃねえから。
映像で観てみたかったシーンは全部無い。
主人公の娘がいないし
あれだけ苦戦してたジャミとゴンズは
最後の方で一撃粉砕で笑っちゃう。
呪文自体はかっこいいんだけど
唱えたときいつもの音欲しかった。
そういう細かい配慮一切無し。
敵のときすごく強いのに
仲間になったブオーン弱すぎて笑う。
ラストがマジでクソ。
思いついて入れたみたいな話してましたけど
オモチャにしたってことでしょこれ。
他でやれよ。
こんな映画生粋のファンしか来ないから。
ちゃんと再現しないとキレるよそりゃ。
鳥山明の名前が無かったのは
脚本ヤバすぎて断ったんちゃうか。
ちゃんとドラクエで終わってたら
評価3以上はつけてる。
数人誘って観に行ったが
申し訳ない気持ちで一杯になった。
僕がね。
山崎にオファーしたスクエニがクソだし、
脚本OKしたやつもクソ。
めちゃくちゃにした監督の山崎には
嫌悪感しか抱けなくなった。
まず、監督がドラクエ5やったことない。
この時点で終わってる。断れ。
つかこんなカスにやらせんな。
山崎貴の映画は二度と観ない。
コケた原因は完全にこのクソ監督のせい。
ファンに向かって謝罪して欲しい。
二度とドラクエに関わらないでくれ。
新しい映画作ってくれるのを待ってます。
勘違い
これは、勘違い監督の勘違い映画です。 他サイトはこの映画の評価は高いですが、映画関係者か?と疑う程です。 まぁ、私の中で主人公はあんなヘタレでもないし、女の子にデレデレもしない(笑) 他の方が書いていましたが、 総監督・脚本は「ドラクエV未プレイ」「RPG嫌い」とまで公言しています←これは、本当なのですか? ゾッとします。
悪くはない
『いい歳こいて、ドラクエなんて映画を見に行くのか。ガキじゃあるまいに』と思ってた。レンタル待たずに映画館に見に行くの、恥ずかしいと思ってた。それを、酷評されてるラスト10分で、ぶった切られた気分だった。あのラスボス(笑)は、他でもない、自分の中にいた。 わたしは、5は途中で放り出したクチだけど、それなりに良く纏められてて、懐かしかった。それだけでも見る価値はある。天空の花嫁が見たいなら、ゲームをやればいい。喋らない主人公が喋っている時点で、これはゲームとはまた違う作品と思ってる。
良作!
呆れて悲しくなる
内容の真意を理解出来ない批判者に言いたい。
それそれのドラクエがあるってことを
批判者はラストボスのミルドラースを自己投影された姿だと気が付いてない?
…哀しい過ぎる
サブタイトルの真意
君を生きる
仮想世界であれ確かに冒険をした
幼少期から生きた
リアルなドラクエ世界観。
全てが本作ゲームのレールの上で良いのか?
自分で創造した感動さえ忘れ去り
もし、仲間達と草原を、山を、河原を走りぬけ、飛び跳ね
襲いくる魔物との闘いを冒険を…
仮想世界ドラクエ世界
発想的にとても
面白いと思うけど?
ずっと遠い未来に我々よりずっと遠い未来には
可能になっている世界観
素晴らしい映画演出であったと思う。
過去に戻ったリュカが
幼少期の自分に語りかける&ゲレゲレが二人を見比べる、そして
みおくるシーンに涙が出そうになった。
映画のコンセプトと結末の壮大なスレ違い
私はこちらのドラクエをプレイせず鑑賞した1人です。ですのでストーリーを知らず観た者としての評価となりますが、この映画のテーマとタイトルを回収する上での製作側と私たち観客のスレ違いこそが、最大の評価の変わり目だと思います。
eスポーツなどで認められる世の中になりつつも、やはり疎まれたり理解されないことの多いゲームを、私たちの人生観や人格を形成する1つのコンテンツなのだと主張することがこの映画の最も伝えたかったことだと思います。(個人的な意見ですので異論は認めます笑)
ただ、純粋にドラクエのストーリー楽しみたい人、公式の結婚相手を知りたい人、アクションを楽しみたい人など、これら全てのゲームファンや映画ファンを最後の展開で裏切ってしまった。ファンである客はきっと、原作通りに終わったとしても「your story」の文字を見れば、コンセプトに気づけたと思います。しかし、客に考えさせる事をさせず、ストーリーを捻じ曲げることでコンセプトを簡単に伝えようとしてしまった。これこそが今の全体の評価に繋がっていると思います。
ゲームで育った世界中の数多い勇者の内の1意見としてこのレビューを見て頂けたら嬉しいです。
何はともあれ、映像と音楽は最高です。気になるのならレビューを見るより映画を観にいきましょ!!
\( ˆoˆ )/\( ˆoˆ )/\( ˆoˆ )/
"DQ5"でなく"DQ ユア・ストーリー"
かなり酷評を受けている映画ですが、タイトルが"ドラゴンクエスト5"ではなく、"ドラゴンクエスト ユア・ストーリー"であることがポイントと言えます。 ドラゴンクエスト5の内容が綺麗なCGで楽しめる!という気持ちで見に行くと、最後は残念な気持ちになってしまうかと思います。 そうではなく、ドラゴンクエスト5を題材とした"ユア・ストーリー"を見に行くのをオススメします。 CMや宣伝の時から、この"ユア・ストーリー"の部分を強調するようにしていたら、評価は変わっていたかと思います。 ドラゴンクエストシリーズを愛してやまない私たちの物語であることを踏まえて、鑑賞をして下さい。 これはこれで楽しめましたが、ドラクエ5を求めていたので、やはりモヤモヤ感は残りました。
恣意的な「作品化」-ドラクエを信じきれない弱さ
以下、ネタバレを含み、ドラクエ5の用語の使用をします。ご了承ください。
自身でドラクエ5をプレイしていたのもあり、3Dでの映画化ということで興味本位(怖いもの見たさ)で映画館に足を運んだ。公開初日ということもあり前情報もなく、映画館は同じような心持で集まったであろう往年のドラクエプレイヤーが集まっているような雰囲気だった。この段階ですでにあまり期待はしておらず、「映画館でドラクエを見る」という経験をすることが第一の目的であり、3Dで画面を動き回るキャラクターが見られればそれでよいかな、と考えていた。もとよりゲームがもとになっている映画なのでストーリーは既存のものをアレンジしたものになるであろうし、むしろ一時間半という時間にいかにして長大なストーリーを編集してその要点を組み込むかというところが見どころだと考えていた。
映画が始まってまず目に入ってくるのは、ファミコン版のドット絵のスライドショーからなる少年時代のダイジェストである。この導入の段階で、描写される対象が「ビデオゲームの世界」であることが強調されるのだが、個人的にはそのような形ではなく、「ゲームによって虚構的に作られた世界観」の内部から出発して、最初から3Dの描写でカットインするくらいでよかったのではないかと見ていた。しかし、このような「ビデオゲームであること」の強調は、後述するこの映画の構造を示す伏線であった。
少年時代は上記のダイジェストにより「スキップ」され、パパスとの旅およびパパスがゲマにやられてしまうところにつながる。子供時代スキップということ自体は、映画としての都合上仕方のないことであるのかもしれないと思いながら見ていた。パパスがゲマ一行にやられてしまうシーンから始めるということは、その後のシナリオ進行上の動機づけの強調としては一つのやり方であろう。個人的には、ビアンカとの冒険を描写してほしかったし、そこを描写しないとビアンカと結婚するということの「必然性」の要素が薄れてしまうところがある。この部分のカットは映画としての尺的な都合であろうし、この部分もまた、後述する映画の構造に起因する問題だったのである。
ゲマに敗れ奴隷となった主人公とヘンリー(マリアはいない)は肥溜めの中身を利用して死体のふりして神殿を脱出。その後マスタードラゴン扮するプサン(トロッコには乗っていない)に助けられなんだかんだでラインハットに戻り、ヘンリーと別れる(にせたいこうはたおさない)。その後サンタローズの実家の地下室でパパスの手記を見つけ(サンタローズがラインハットに壊滅させられたかは不明)、勇者としての役目を自覚し天空の剣をもつルドマンのもとへ向かう。道中でスラリンとゲレゲレをさらっと仲間にして、サラボナへ到着。サラボナではブオーンが暴れており、ルドマンはブオーンを倒した者にフローラと結婚する権利を与えるとのお触れを出している(リングは集めなくていい)…等々の展開を加速させる変更も、初見では急な展開の大味さに違和感を覚えるものの、まあ仕方ないし、映像もきれいでふつうに楽しめていた。
ドラクエ5において「ビアンカ―フローラ論争」は避けられない問題であり、映画でそれがどう処理されるのかは興味があった。この映画で主人公は、フローラに求婚するという方向で話が進められる。首尾よくフローラにプロポーズした夜、ある老婆が「本当の気持ちに気づく聖水」を主人公に渡し、それを飲んだ主人公は、「じこあんじ」によってフローラを選んでおり、本当はビアンカと結婚したいということに気づき、フローラとの結婚を解消し、ビアンカと結婚することになる。聖水を渡した老婆は主人公のビアンカへの思いを察知したフローラが変身したものであった。この展開は、賛否あろうが、ビアンカとフローラを双方立たせるという点ではよい落としどころだと思ったし、フローラを選ぼうとしてもビアンカを選んでしまう心理をよく表しているとも感じた。しかし、「じこあんじ」とゲームのセリフ枠が深層心理に表示される演出は、どこか醒めた感情を引き起こすものであり、先述したようなゲームであることの強調の必要性を疑問に感じさせる部分であった。そういう演出もありか、とその場では納得したのであったが、これも、映画の構造の伏線であった。
その後、ビアンカと主人公の間に男の子が生まれる(双子の女の子はいない)。同時にゲマ一行が襲撃、主人公とビアンカは石化、その後成長した男の子が石化を解き、なんやかんやでマスタードラゴンに乗って大神殿へ行ってゲマと戦う(イブールはいません)。ヘンリーやブオーンが助けに来たり、最終決戦的な雰囲気。主人公はマーサを殺したゲマに突撃、ジャミとゴンズを一撃で粉砕(えぇ…)、ゲマを息子と協力してやっつけるも、ゲマが魔界の門をなんか開いて、そうはさせまいと息子がそこに天空の剣を投げ込む…と、ここでも急展開ですが、映画の進行上、ああここでミルドラースを封印するか、もしくは戦って倒して終わりかな、という気持ちになり、大味だけど映像よかったからいいか、と心を締めに向かわせていたとき、急に停止する世界。現れたのはミルドラース?に組み込まれたコンピュータウイルス。なんでも、このゲームの世界を破壊するためにハッカーがたわむれに入れたもので、その意図は「大人になれ」(こんなげーむにまじになっちゃってどうするの)。
この映画の構造として、ここまで見てきた映像は、体験型ドラクエ5VRの世界であり、それを遊ぶドラクエ好きな青年(ドラクエ5をやった世代ならいい歳)の見ていた映像だったことが明かされる。消え去るドラクエ5の世界、そこでスラリンが山ちゃんの声で急にしゃべりだす。なんとスラリンはウイルスに対するワクチンだった。スラリンから出てきたロトの剣?ワクチンでウイルスをやっつける主人公。ゲームは虚構世界に遊ぶものだが、それ自体がリアルな経験の一形態であり、そうした経験の場において、ゲーム内の世界およびキャラクターもまた実在する。そうした経験は「あなた」たちひとりひとりによって生じるものであり、それに合わせてたくさんの「ストーリー」ができたんだ。という趣旨のメッセージによって、ドラクエ世界は復活、大団円でエンディング…?ということになる。
この結末に関しては、賛否、というよりも否のほうの意見が多く出るであろうことが予想されるが、実際に見た時の感想は、虚無感に近いものを感じた。まさに、RPGをやりこんでやることがなくなったとき、ああこれはゲームでしかなかったのか、という感覚、エスタークをヘルバトラーとかで数ターンで倒せるようになって、「ひとしこのみ」とかで散々遊んだあとに残る虚無。そして、いままで見てきた世界が虚構でしかなかったと悟った時の虚無。そして、楽しかった時間とか、レベル上げの作業とか、すべて終わった後の虚無感とか、そういうもののすべてがリアルなんだって、そういう感覚(こういう感覚を与えることも含めて意図されたものだと思うし、その点は成功していると思う)。
こういう構造が設定されていると知ると、前半に感じていた違和感がすべて説明されることになる。冒頭のダイジェストは「スキップ」設定だし、参加者のインタラクションで生成されるゲームシステムがシナリオを都合よく改変していたし、フローラを選ぼうというのは「じこあんじプログラム」だし(ここでゲーム内でフローラが聖水飲ませてビアンカと結婚させてるのどういうこと?ってなって???ってなる)、その他の諸々も、「ゲームだった」で済ませられる。正直このオチは納得できないところがあるが、ドラクエを映画として成り立たせる手段としては苦肉の策的に(実際にどう思ってこうしたかはわからないが)一つのやり方だとは思った。
真面目に原作ゲームの内容を踏襲することは困難だ、そこでかなりはしょった内容にしなければならないし、エッセンスだけは抽出しなければならない。おそらく、ドラクエ5で行きましょう、ということもなんらかの都合で決まっていたのだろう。パパスの「ぬわーー」とか「ビアンカ―フローラ論争」とかひっくるめて「人生を体験できるゲーム」として作られた5の理念はそもそも「your story」だった。その要素を端的に示すために、メタ的要素として映画=ゲーム画面という設定を使った。動いてるドラクエキャラを見たいという気持ちと、それを一つの映画に落とし込もうということを手軽に解消できる手段として。
しかし、こうした処理は、結果として恣意的に映画を完成させようとする強引さや短絡さのようなものを醸し出したのではなかったか。私の感想として、以下のような過程が推測された。まずは普通にドラクエのストーリーを映画の尺に収めて王道に仕上げようとしてみたものの、制作上の都合や予算の関係もあり、ぶつ切りの急展開プロットになってしまった。そこで、そうしたまとまらなさの口実として、ゲームオチを持ってくることでそれなら仕方ないか…という逃げを打ったようにどうしても思えてしまった(監督の意図としては映画化することが最優先であったであろうから、最初からオチは決まっていたのだろうが、客観的にそう見えてしまう)。
なぜ、最後にミルドラースとの決戦を描いて、普通に終わらせられなかったのか。それは、ドラクエを真面目に映像化することに、制作側がマジになれなかったからではないかと思われてならない。「勇者ヨシヒコ」に代表されるように、5はパロディにも恵まれている。いまさらベタベタな周知のストーリーをなぞって映像化することに意味があるのか?この問いに対して、心からあるとは言い切れなかったのだろう(実際、監督はドラクエの映画化に難色を示していた。もし作るとしても、「ゲームの副産物」にならず、映画として自立するものを目指しており、この姿勢自体は評価したいが)。心のどこかで「大人になれよ」と「ウイルス」がささやくのだ。そうした葛藤を吹き飛ばして、ドラクエの世界を完結させることができず、逡巡をスクリーンに映さざるをえなかった、そうした迷い、あるいは作家としてのポリシーが効果的に働かなかったがために、未消化感の残る結果につながったと私は思う。
私は、普通に、王道に、魔王を倒して凱旋する勇者一行が見たかった。動いているその姿を、フロー状態のままドット絵に重ねて心のうちにもって帰りたかった。しかし、結局は、醒めた自己言及の虚無感を再び抱くことになった。ああ、ゲームなんてしてないでその時間勉強してたら、もっと変わってたかもしれないのになあ、というゲームの存在意義を失わせる悲哀とともに(たぶんこういう思いを「ゲーム世代」のわれわれが抱くことも、この映画のメッセージには含まれているのだと思うが)。
以上に大筋の感想となるが、もう一点指摘したいことがある。それはBGMに関してである。この映画では5と6(それ以降のものもあったかな?)のBGMが使われているが、その選択が?である。なぜ6のBGMが入ってきているのか。これは何らかの意図もあるだろうが、結局は先述したメタ的要素の補完の一環であろうと私は考えている。それよりも気になったのは、ドラクエのBGMを使うというのはゲームを主題としている以上そうなのだが、映画の画面とあまりシンクロしていないように思えたのである。そもそもゲーム音源はゲームプレイの場面を想定して作られたものだ、それを映画のシーンに当てはめるように使うことは、既プレイ者には懐古的によいものではあるかもしれないが、映画のために作られた音源や、映像に合わせて特別に作られた音源などの音響効果と比べれば、どうしても「とってつけた」ような印象を受ける。私はドラクエのBGMは大好きだが、映画としての「BGM」というものはそれはそれであるように思うのである。
スクエニは今からでも公開止めるべき
山崎貴、この人が関わる映画は今後見る必要がないというのが唯一の収穫。 スクエニがなぜ公開にストップをかけなかったのか、作り直させなかったのか理解に苦しむ。 ドラクエというブランドに誇りを持っている役員や社員はいなかったのか?ドラクエ5が好きでたまらない役員や社員はいなかったのか?ドラクエと共に育ってきた人の気持ちになって考えられる人はいなかったのか? 今からでも遅くない。スクエニ社員は立ち上がってこの映画の公開を中止させるべきだ。そうすればこの映画を本気で楽しみにしてくれていた人ももう一度だけスクエニを信じてくれるだろう。映画にかかった費用や中止にかかる金なんかより大事なことがあるということを見せて欲しい。制作陣は駄作と分かっていたとしてもストップすることを選ばないだろう。止められるのはスクエニだけだ。 追記 この映画を見て怒ってる人、悲しんでいる人、もっと声をあげよう。 この映画はただつまらない映画ではない。ファンを踏みにじった映画だ。だからこそ普段レビュー書かない人までアカウントを作成してレビューを書いている。 山崎貴は子供からの根強いファンがいる作品でやってはいけないことをやったのだ。ドラえもんやちびまる子ちゃん、コナンやポケモン、ディズニーの主要作品などでこれと同じようなオチを付けたらどうなるだろうか? 公開前にストップされるであろうが、仮に公開されても世間の声が作者や版権元に届き、ファンの気持ちの大きさに気づいて、ファンやブランドを守るために公開をストップするに違いない。 ドラクエもそうなってくれることこそ踏みにじられたファンにとってのゴールであり、ユアストーリーとかいう脚本の自己陶酔全開のタイトルに唯一納得がいく落とし所なのではないか。
思い出を踏みにじられた
この映画の制作陣に少しでも悔しさを伝えたく、レビューします。
私にとってドラクエというもの、特にⅤは小学生の時に遊び尽くした思い出深いものです。
ですから、この映画の告知を目にした時、その当時の気持ちを思い出し、たとえ難い高揚感に包まれたことを覚えています。
ドラクエⅤは昔から映画化ドラマ化アニメ化できる内容と思っていて、いつの日かいずれかが実現されないかと頭の片隅で願い続けてました。
それが叶うと分かった時の嬉しさが分かるでしょうか?本当に幸せでした。
反面、一抹の不安があったことも確かです。
正直なところ、あの壮大なストーリーを2時間弱で収めるには無理があるのは理解していたので、多少のカット、改変が入ることは覚悟していました。
なので、冒頭のゲームシーンやオープニング曲までの流れは、尺詰めを実現する上のある種の工夫、捉えようによってはファンサービスも兼ねた上手い手法だな、と好意的に解釈し受け入れていました。
もちろん初見の方には理解し難く、一見さんお断りの映画となってしまい残念だなとは思いましたが、それでも当時ゲームに没頭した私からすると些細なことでした。今さら新規層の獲得を狙うわけでもなし、プレイしてから見に来いと思うほどです。
冒頭の駆け足が終わり、颯爽とスラリンやチロル(私はチロル派)が仲間になり、そのテンポにも慣れて中盤に入った頃、あの語り継がれる名イベントを迎えます。結婚イベントです。
個人的には、改変はありつつも結婚イベントに手厚く時間を割いていたことを非常に嬉しく思いました。ビアンカもフローラも本当に尊く、プロポーズのシーンではこの映画唯一涙腺が緩みました。ビアンカ派の私は心でガッツポーズしてましたよ、ええ。
それからグランバニアは犠牲になりつつも出産、石化、ストロス、勇者発見と物語の主要イベントは消化していきます。そして天空のつるぎが抜かれた時に二度目のオープニング曲が流れ、この制作陣はわかってるなと信じ切ってました。
その勢いのままマスドラと合流し、出会ってもいない妖精と過去イベントをこなす頃には、思い出補正でイベントが勝手に補完され、いい感じに映画に没入してました。
大体この頃合いからラストを想像し、主人公がゲマを倒して、ミルドラースが出て来て全滅して敗れそうなところにヘンリーやサンチョ、なぜか仲間になったブオーンが後から駆け付けて総力戦でミナデインとか撃つのかなぁと考えを巡らせてました。
そんなこんなで、ある程度予想の範囲内で物語は進み、ジャミとゴンズが瞬殺され、ゲマも朽ちます。なんかデスタムーア最終形態みたいな形で朽ちていくなぁと思いながら見てると、ミルドラースが復活し、ゲマの悲願が成就するという王道な流れに。
ですよねー、と見守っているとアルスが自慢の強肩で天空のつるぎを投げてしまいます。あれ、それないとダメじゃない?もしかしてミルドラース出ないの?確かにポッと出のラスボスだけど、エスタークはともかく、ミルドラースくらいは出さないと、、、
そう思った矢先、画面が停止したので、てっきりミルドラースが出てくる演出だなと早とちりし、そうこなくっちゃとなってました。
グラビティOFF。ん?
コリジョンOFF。あ、、、これ、、、
もうね、この時に瞬時に悟ったんですよ。これやっちゃいけないやつだって。同時にそうであってくれるなと強く願ったんです。
でも駄目でした。一番行って欲しくない流れで映画は進行してしまいます。
ここの描写は本当に辛くあらためて書きたくもありません。
わかりますか?
少し前までの文章を見ていただければわかるように、私は確かにドラクエⅤの映画を観ていたんです。多少の改変もカットも思い出補正で受け入れながら楽しく、本当に楽しく観ていました。長年思い描いた理想に近い映画を観ていたんです。
それが最後の10分で、なぜそうしたかも理解できない脚本で、簡単に別物に変えられてしまいました。
なんでこれをドラクエⅤでやったんですか?
ドラクエⅤでやる必要ありましたか?何を伝えたかったんですか?伝わりましたか?何が代償になったか理解してますか?
ドラクエⅤを題材にして、長年ファンが夢見た映画化という権利を得て、尺調整が難しい壮大なストーリーを創意工夫しながら短縮することも概ね出来ていて、それでいて最後の最後でああする理由はなんですか?
あれをやるならドラクエⅤじゃなくてもいいというレビューを見ました。そうだと思います。
魔王を出して倒してハッピーエンドにすれば完璧だったというレビューも見ました。そうだと思います。
もしあのオチをやりたいだけならオリジナル脚本でドラクエⅤを巻き込まずに勝手に作れば良かったのでは?その実力がないから根強い人気の原作を取り上げ、話題の作りのため、ファンの気持ちも考慮せず、自分のしたいことだけを押し付けるだけの本作が生まれたんでしょうが、本当に勘弁してください。
表現の自由という意見もあるでしょうが、題材としてドラクエⅤを扱うものとして、最低限の責務があるんじゃないですか?本作はドラクエⅤを私物化し、ファンがどう思うかも考えず、制作陣が悦にいるだけの最低な作品でした。
制作陣にファンはいなかったんでしょうか、何故誰もこの脚本に対して異議を唱えなかったんでしょうか。決定権ない人もいるでしょうし、ちゃんと仕事をした声優さんや音楽担当の方もいるでしょう。ですがこの結果は制作陣全体の連帯責任だと考えます。自分たちの仕事がどういう影響を与えるものかよくよくご理解いただきたい。
そう思うとラスト10分の前に容赦出来ていたことが容赦できなくなります。
特に、子どもが双子じゃないことのガッカリ感、ブオーンが仲間になることの必要性の無さは心に引っかかります。
極め付けは思い入れあるという設定の主人公が幼少期をカットするという行動。同じファンとして全く共感しませんでした。幼少期をカットするファン?それこそ未プレイ者の発想じゃないですか?
あの10分です。あの10分でありきたりな魔王討伐を描いてくれれば、本当に単純なそれだけのことが出来ていれば良かったのに。
おそらく本作の制作陣の中でストーリーに携わった人の中には本気でドラクエⅤを愛してる人はいないのでしょう。
映画化を夢見て待ち続けてきたファンとして、今回映画化の権利を持った人がそういう人達だったということ。心の底から残念でなりません。
最早レビューではなく、愚痴だということも分かってます。これは私なりの呪文です。制作陣の誰か一人にでもこの悔しさが伝わればと思います。
悲しい気分で映画館を出ました
予告のCGが出来た時からとても楽しみにしていました
まとまるのかな?どこまでやるのかな?
お嫁さんはどうするんだろう?
ゲームより多少違っても受け入れる覚悟をし映画館へ
開始からこのSFC表現はやった人じゃないとわからない笑
ダイナミックに王子さらわれたーなどゲームとの違いをも楽しんでいました
途中、おばあさんが薬を渡すあたりから あれ?ちょっと無理やりすぎない?
と、突然のお嫁さん変更。まぁやっぱりそっち選ぶんだね程度
でもふった彼女の町でプロポーズはどうかなと・・・
そこからゲームとは違う映画の世界は特に気にせず世界に浸っていました
しっかりものの娘ちゃんがいなくて子供たち二人の会話が無くて残念でした
パパスとの再会も父親に話かけ、わかった占い師だろう!?と言ってほしかった・・・
CGで時間もかかるし削られたのはしょうがないかなーと
ここまでラストにかけて映画作品でのドラゴンクエストを楽しんでいました
どんなラストに向かっていくんだろうと念願のゲマを倒し・・・でも魔界の門が・・
むすこー!とラストバトルに向かって息を呑むような展開です
ですが、ここです・・・
映画館の中が無音になり、不気味な静寂
まわりにいる人のポップコーンを取る音まで聞こえてしまうほどの
でてきたのは大魔王では無く、まったく関係ない物
それから言われる言葉、ドラクエ映画の世界の話・・・
VRのゲーム体験という話に切り替わり、私は頭がまっしろになりました
スラリンがなにかしてくれてた、リュカがロト剣もってた
少し覚えています もう終わってほしいと言う気持ちになり早く外に出たい
平和になっているドラゴンクエストの世界
ビアンカと息子が楽しそうに平和になった世界のこれからの話をしていました
リュカの顔も映っていましたが、かれはこれから現実に帰ります
エンディングでたくさんの文字、映像が流れました
とても悲しかったです 私はこんな映画を見に来たんじゃないのにって
どうしてこんな終わり方にしたのでしょうか
私はテレビゲームをプレイしている動画なども好きで見ます
お嫁さん選びはもちろん、色んな冒険のしかたをみて楽しかった気分になります
この映画では何も感情が浮かびません ただ悲しかったです
映画を作った人の中に最初から最後まで見た人たちがいるはずです
こんなことをされて映画館を笑顔で出れますか?
これを出せると言うことは、どうして悲しんでるかもわからないでしょうし
私もどうして何も残らないように感じさせてしまう作品が作れたのか不思議です
映画を見て映画館を出るとき誰かと話したくなります
この作品ではただ映画館から早く出たい逃げ出したくなりました。
この作品を公開する前に、誰一人嫌な思いをしなかったのなら
私はこの作品に関わった人は、人の心をわかっていない人たちだと思います
ずっと苦笑いだった…
ドラクエⅤはプレイ動画で見たので話は知ってます。
知ってますが……未プレイの人これ話分かったのかな?お母さんが連れてかれたシーンとか ビアンカとの旅とか パパスが死んだシーンとか あまりにもサラッと終わって「エエ!?」ってなった。
いや、まぁそこはいい……しょうがないよな、2時間弱に収めるのは難しいよな。うん、分かるよ、分かる。
いや声優……上手い人は上手いですが、ゲマ以外の主要人物が尽く棒読みチックで「これ、本物の声優さんが声当ててたら最高に惹き込まれるのになぁ……」という思いでいっぱいだった……。声優がうまい?どこが?“俳優”としてじゃなくて“声優”として評価してくれ。
いやもう最早そこもいいんだよ……豪華声優陣と名を打ちたかったんだよな……うん、分からないけど分かるよ、しゃあないしゃあない。
ゲマを倒すところまでは普通に見入っちゃったし、主人公お調子者だな!?でもちゃんと闘って偉いぞ!息子もビアンカも凄い!そしてヘンリー!ブオーンお前まで!!
これでハッピーエンドだな!!!!!よっしゃ!!!息子受け止めたってくれ!!!!!ってめちゃくちゃいい感じに惹き込まれてたのに、
なんだあのオチ…………。
世界が止まった時点で冷や汗が出てきて、「やめろ頼む……このオチだけはやめてくれ……」って願いも虚しく クソ茶番の始まりよぉ!
予告であんだけ「ドラクエ!映画!胸アツ戦闘!」って感じで呼び込んだくせに、その呼び込んだファンに対して「大人になれ?」……いや、は?
ラスボス倒したー!やったー!あとは倒したあとのエンディングだ!って時に、突然親に「いつまでゲームしてんの!」って電源切られるみたいな…… 。なんならあと一撃で倒せる!って時に切られたみたいな……。
ドラクエの映画化を見に来たドラクエファンに対して見せるオチがこれ?伏線回収?タイトル回収?いや、知らんがな……。
ユアストーリー を回収したいにしても、あのタイミングで、ああいう演出をする必要は完全になかったですよね。ベタに、クリアした後に満足感溢れるテレビ前の青年が出てくる、とかでいいじゃん……この演出だったらなるほど!と心地よく膝を叩ける。
いやそもそも、多くの人が仰ってるように、ドラクエでやらなくていいじゃん。何が “オチを思いついたのでオファーを受けた”だよ。ドラクエでやるべきがどうかは考えなくても分かるし、やりたいなら自分で1からRPGの世界を作り上げてそれやってくれよ。
アルキメデスの大戦がとても面白かったので(まぁ菅田将暉の演技を目的に見に行ったので)少し期待してたのですが、これはハズレだったようです……。
他にも、メインテーマ擦りすぎ!とか、現実押し付けたくせにラストに現実世界の描写ないんかい!とか、あれ?双子じゃなかったか?とか、ゲレゲレとマスタードラゴンとスライムは最高に可愛かったなとか!!色々あるけど!
オチが微妙な映画は沢山見たけど、こんなに驚きを通り越して苦笑いになった映画は初めてでした……。
賛の意見は否定しないし 心の底から楽しめた強いハートが羨ましい限りだけど、頼むから「否定する奴らはこの意味が理解できなかったんだなフン」と言わないでほしい……。十分理解した上で、そういう意見も辛いんや……。特に、ゲームが生きがいになってる人には、とても酷なオチだよ……。
(あと、リュカの使用クレジット入れてあげてね……)
近年稀に見る駄作
初めて映画のレビューを書きます。
と、いうのも誰かに愚痴を言いたくてという気持ちの発散場所を探してたからというのが理由です。
小学生の頃何度も繰り返し遊んだ名作ドラゴンクエストV。
この名作ゲームが原作となったドラゴンクエストを見ることが出来るというのを心から楽しみにしていました。
100分という時間の都合上カットせざるをえない場面だったり登場人物が少なくなることは覚悟していました。
映画が始まり、スーファミのドット絵で冒頭のダイジェストが語られる。
この表現にはグッと来るものがありました。
CGで描かれ始めるのはヘンリー王子と会うちょっと前から。
そこから、原作と超大筋の流れは合わせるもののストーリーはもうめちゃくちゃです。
まぁでも映画だし脚色するのもありかなと思って見てましたし、なんだかんだ楽しんでました。
一気に冷めさせてくれたのは、ラストでゲマを倒しミルドラースが復活するという場面。
ここで、ミルドラースではなくこのゲームシステムに入り込んだウイルスが登場。
頭の中は???????です。
なんと、この世界は主人公がVRでプレイしているゲームの世界だったのです。
なにこれ?
私はドラゴンクエストを見に行きました。
ダイの大冒険や、ロトの紋章のようにドラゴンクエストの世界の物語で完結してほしかった。
これはさすがにタイトルにドラゴンクエストという名前を使わないで欲しい。
詐欺にも等しい映画。
おそらく、映画料金1900円を初めて高いと感じ後悔した映画です。
僕はドラクエⅢまでしかやったことがないので、天空の花嫁のルートは知...
僕はドラクエⅢまでしかやったことがないので、天空の花嫁のルートは知りませんが、お話としては面白かったです。 アニメ映画として見に来たか、ゲームプレイヤーとして見に来たかで評価が分かるかもしれませんが、僕は十分に楽しめました。 コンプリートした人だけが感じるあのジーンとくる感動っぽいところもあったし、満足です。
観賞後にどこまで寛容でいられて、良いところを見つけられるかが重要
サブタイトルのユア・ストーリーと付けた意味は?というのが疑問でしたが、観賞後に一応納得。
昭和のアニメを劇場版にしたときの感じに似ています。テレビ放送時と違って哲学的とか監督の想いを込めすぎたりと言う意味で…
ただ時間の制約は有りながらもドラクエVの雰囲気が感じられたのと、音楽や声優された方々が上手で各キャラと合っていて良かったのと、ビアンカが可愛かったので星三つ。
終盤のアレは、さすがに一瞬思考停止しました(笑
最後のオチで全て台無し(星5→星0)
序盤~中盤までは、シーンの簡略化もありましたが、キャラクターデザイン、戦闘シーン、映像も綺麗ですし、素晴らしい映画だなと思いました。ただ、ゲマ撃破後の最後の夢オチがあるまでは。
どうして最後にいらんことするんですかねぇ。。最後のミルドラースの代わりに出てきたウイルス?が出るまでなら、間違いなく星5つだったのですが。
結論としては、ゲマ撃破後、ミルドラースの代わりに最後に変なウイルスを名乗るよくわからない敵(ドラゴンボールの敵キャラみたいなの)が出てきて、「この世界(これまでの物語や色んなエピソードがあったキャラクター含め全部)は全てVRゲームとして組み込まれたプログラムである。いい加減ゲームなんてやめて大人になれ!」と言って、ビアンカやアルス(主人公とビアンカの息子)含めてみんな消滅させられます。これまでのエピソードはなんだったの?登場したキャラクターとの愛や友情、物語ってなんだったの?って感じです。最終的に、実は仲間のスライムがウイルスバスターだったので、アンチウィルスソフト(スライム)の力を借りて、ウイルスを駆除して終わり、というもの。
はっきりいって、全てのドラクエファンを冒涜し、馬鹿にしている。ドラクエ5という名作に完全に泥を塗った。普通に作れば面白くできあがるし、最後の最後間では面白くできあがってたのに、どうして最後で余計なことするかなぁ。映画監督ってのは自分の独自の発想、ひねりを入れたい!というクセのある人間が本当に多いんだなと思いました。王道で原作通りにやればそれこそ名作で終わってたのに。山崎貴は本当にクソ。映画を見た人にひとりひとり土下座して回ってもいいレベル。
ドラクエ5が小さい時から本当に好きだったがゆえに、頭のおかしい映画監督にめちゃくちゃにされて、本当に悔しく残念な思い。これまでの思い入れの詰まったキャラクターや物語が、「ただのプログラム」と言われて消されていく様子に、感動とは逆の意味で涙を流しそうになった。
この映画に関わった人間は、映画を観る側の人の気持ちに立ったことがあるのかな?(あるなら、間違いなくこんなゲスなオチにはしないはず。)単に、映画を「オリジナルやと工夫なくてつまらんから、カリスマ映画監督の私の機転を活かして、ちょっとスパイス入れたろか~」と、作る側視点でしか考えてないように思えた。
結果、山崎貴のクソみたいな自己満足(監督本人は、前衛的・斬新的・天才的なオチと思い込んでいる模様)によって、他の製作関係者の職人技・努力の結晶(映像・音楽等)や、この映画、ドラゴンクエストシリーズを心から楽しみにしていたファンの人達の気持ちをグチャグチャにされた。
長々書きましたが、この映画をあのオチに持って行こうと促した人間は全員首つって死んでほしい。大好きだったドラクエ5の物語、パパス・ビアンカ・フローラをはじめとした魅力的な思い入れのあるキャラクターに泥を塗られ、滅茶苦茶にされたのが本当に悲しいです。正直この映画はかなりトラウマでした。ドラゴンクエスト(特に5)が大好きだったので、山崎貴の自己満足にグチャグチャにされた精神的ショックと怒りに言葉も出ません。間違いなく、過去何十年日本で公開されてきた数多の映画の中でも、ダントツで、史上最低最悪の映画であると断言できます。
何がユアストーリーだ
何がユアストーリーだ、俺のストーリーではあの後魔界に乗り込んでミルドラースを倒してるわ、バカにするのもいい加減にしろ。 ところで、大人になれとか言われても、昨今、映画館なんぞに2000円近くの金も時間も出してこれを見にこれる余裕がある時点で、もうわりと立派な大人じゃねーのかな?
ラスト15分がね。。
ドラクエ1~全てリアルタイムでプレイしてきたゲーム好きのアラフィフです。
壮大なVのストーリーを短時間の映画に省略する為には、双子の妹が出て来なかったりビアンカのリボンのくだりが省略されているのは、やむを得ないだろうと思ってました。
それよりもすぎやまこういちさんの音楽や綺麗な映像を充分に楽しんでいました。
ラスト15分前までは。
ゲマを倒した後の、「実はVRでした~」という実に安っぽいオチ。
「それがYour Storyです」?
タイトルを上手く回収しました、とでも言いたいのか。
意外性があった、と書かれてる方々もおられますが。。
意外性??
いわゆる「夢オチ」と同類で、最近よく見るありきたりな終わり方だなーと思いましたけど。
ドラクエの壮大なストーリーをオリジナル脚本で台無しにされた気分で、後味の悪い作品でした。
怒りのレビューが全て消えたorz
公開初日に観て怒りが収まらず怒りのレビューを3時間くらいかけて2000文字くらい書いてたんだけど山崎作品をコピペしようとして画面一旦閉じたら全部消えたorz もういいや とりあえずこれだけ言おう 山崎監督 1から勉強し直せ というかアニメ、ゲーム作品には二度と係わるな ルパンは絶対に観ん! というかお前の作品は絶対に観ん! 歴史に名を残したクソ監督
成功したとは到底言えない終盤の展開
ドラゴンクエストV 天空の花嫁は、1992年に発売されたスーパーファミコン用ロールプレイングゲーム(RPG)であった。私は1986年発売の1作目からのファンで、すっかり成人してからこのゲームを始めた世代である。特にこの5作目は、3世代に亘る親子の物語を柱にした画期的な名作であった。個人的に第一子が生まれた翌年のことであったため、その物語構成には強く引き込まれるものがあった。 映画で最初に気になったのは、モンスターのデザインが原作に忠実なのに、人間のキャラクターのデザインが鳥山明のものと非常にかけ離れていることで、ビアンカもフローラもそれほど可愛いとは思えないことであった。何故あのようなキャラデザにしてしまったのか、真意が計りかねた。また、本編中で登場するのがフローラの方が先になっていたりして、やや強引にフローラ推しになっているところも気になった。 この映画は、ゲームの大筋を変えることなく、昔からのファンの気持ちに寄り添った作りになっていると感じられて、話の終盤までは楽しんで見ることができた。もっとも、子供時代の話が昔のゲーム画面で語られるなど、物足りない部分も散見された。特に子供時代のレヌール城の話は、ゲームをやっていない者には全く説明不足で、これでは後の展開に支障を来すのではと危ぶまれた。 その不安は的中したと思うが、もっと物凄い展開が待っていたので、比重がかなり軽いものになってしまった。この映画の終盤の展開には、非常に驚かされた。あたかも、ホラー映画を見に行ったら、ラスボスが突然「化け物なんて現実には存在しない」と言い出したような違和感を感じた。これは見る者への裏切りとしか思えない展開で、制作側としては、ゲームのストーリーをなぞるだけでは面白くないだろうと考えての新機軸なのだろうが、これによってこの映画の価値が上がったとは到底思えない。 鈴木光司が「リング」と「らせん」の後に発表した「ループ」において、それまでの世界観をぶち壊しにするような展開にして、シリーズ全体を無価値なものにしてしまったような、はたまたトマス・ハリスが「ハンニバル」においてレクター博士とスターリング捜査官との関係を台無しにしてしまったような、取り返しのつかない「やっちまった感」を、この映画で見せられるとは全く予想もしないことであった。 ミルドラースが語ったあの言葉は、成人してからゲームを始めた私などを真っ向から否定する言葉であり、制作側としては主人公の反論を導くための誘導のつもりだったのだろうが、観客の虎の尾を踏んでしまっただけのような気がする。この映画を低く評価する意見の大半は、終盤の「やっちまった」展開と、ミルドラースのあの言葉に反発している意見が大半であるのを見れば、到底褒められた演出でなかったことは明白であろう。そもそも、ゲーマーたちにとって一番怖いのはウィルスなどではなく、「いつまでもゲームばかりして!」と強制的に電源を切ったり、ゲーム機を踏み潰すといった、高嶋ちさ子のような無理解な母親の方だろう。 褒めるべきところも多々あった。ゲマのデザインを、私が個人的にもっとも嫌っている人物と瓜二つに作ってくれたことや、ミルドラースの声優を知的な井浦新に演じさせたことや、劇中で使用した音楽を「V」に限定せず、「Ⅲ」や「VI」からも採用したことなどである。特にエンディングの音楽は、「Ⅲ」の「そして伝説へ」しかあり得ないという思いを汲んでくれたところには感謝したい。また、ゲームでは台詞で語られただけだった伝説の勇者が天空の剣を抜くシーンは、非常に感動的だった。 それだけに、観客の気持ちに水を差すどころか、観客の頭の上から水をかけるようなあの終盤の展開は、残念でならなかった。BD や DVD を出すなら、ディレクターズカット版ならぬオーディエンスカット版として、ゲマが倒されて全てが終わるというバージョンを収録してほしい! (映像5+脚本1+役者3+音楽5+演出2)×4= 64 点
全1136件中、961~980件目を表示