「宮崎駿監督へのオマージュと飛ぶ少女」ある船頭の話 琥珀さんの映画レビュー(感想・評価)
宮崎駿監督へのオマージュと飛ぶ少女
ひょっとしてオダギリジョーさんはものすごく宮崎駿監督とその作品を愛しているのではないか。
①もののけ姫へのオマージュ?
お祭りの少年たちの登場の仕方が『こだま』(首というか顔というか、とにかくクルクル回ってカタカタ鳴ってた、あれです)にしか見えませんでした。
〝自然〟と向き合う人間のあり方についての探求。自然から命を貰い世代を繋いでいる人間が、結果的に自然の中の命を奪っていることについて無頓着過ぎるのではないか。そのようなテーマ性がどことなく重なって見えました。
②ピュアな少女、飛ぶ少女
宮崎駿監督作品には、必ず出てきます。紅の豚の飛行機修理工場の孫娘フィオだってジーナとの対比では〝女〟ではなく〝少女〟に属します。
ピュアな少女を前にすると、男はなぜか、いい年食った冴えない中年男であっても、自分がどう見えるのか気になってしまい、時として、遠い思春期に置き忘れてきたはずの自意識に目覚めてしまう。
船頭だって今まで散々、利用客との会話で自分を見つめ直すキッカケはあったはずなのに、少女との出会いで急に自意識センサーの感度が高くなっていたわけです。
そして、宮崎駿監督作品の少女は良く飛ぶのです。
ナウシカ(メーヴェ‼️)、シータ(翔ぶというより浮かぶですが)、キキ(魔法使いですから当然、箒)メイとサツキ(トトロと一緒に飛んでますよね)、ポニョ(波の上を飛ぶように走ってました)、千尋(言うまでもなくハクと)。
この作品の少女が川の中で舞っている姿も〝飛翔〟を表していると思いました。少女が飛翔する姿はそれを見るものに「いつまでもその笑顔のまま飛んでいて欲しい」「自分はそれを見守り続けたい」という気持ちを起こさせます。
ひとつとても気になったのは(私の見間違いでなければ)ピュアな少年の心を持っていたはずの源三が、あのような〝汚れた大人〟になってしまったきっかけのひとつとして、少女の初潮の場面に立ち会っていたことを描いたことです。大人になることの戸惑いを少女自身が感じることを描くのなら理解できるのですが、なんとなく釈然としないものが残りました。
『魔女の宅急便』で12歳のキキが、自意識(恋愛感情)に目覚めた途端、それまで自然体で飛べていた箒に乗れなくなる展開があったので、その辺のことを何か形を変えて表現しているようにも考えたのですが、うまく結びつきません。
ぱやおリスペクト論、大変興味深く拝読しました。さすが、洞察力の高さに感服致します。
初潮の件は、鑑賞していて気付きませんでした。足に血が走っているのは観たのですが、他の箇所にも血が付いていたと思っていたので怪我だったのかなぁと。
私的には、虹朗演じる村人の変わり様は船頭の”嘘”がきっかけかと感じるのです。それまであれほど変化に嫌悪感を抱いていた若者が、大人の嘘を知ったことで、その嘘を許せなかった所謂”中二病”的自意識肥大が拗らせてしまい、逆に本来持っていた器用な才能を、金儲けに利用することで出世したのだろうと。そして豊かになった男が、持たざる老人よりも自分に靡く筈だと思い上がった、よくある道徳本にある話がベースかなと。
前半、あれだけ丁寧に描いていた展開を、後半端折った詰め方にしてしまった事で、唐突感が否めないのは非常に勿体ないと思った次第です。
それとも、ニュースで報じられた日本人の読解力の低下に、私もご多分に漏れずその仲間なのかも知れませんね(苦笑
失礼しました。