ジョーカーのレビュー・感想・評価
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苦しみをかき消すための笑い声が胸を締めつける
評価が分かれていたからどうかと思ったが、心配する必要はなかった。傑作中の傑作と言っていい。
アーサーは最初から最後まで狂ってるとかいうレビューもあったが、間違ってる。
本当に狂ったのはラスト。血でメイクをした場面から。そこまでは、この狂った世の中で、何とか正気を保つために、心と体が狂うことを求めている状態だ。
その繊細な心理描写を可能にしたホアキンフェニックスは本当に素晴らしかった。あんなにいい役者だったんだなと感嘆した。
話はジョーカーの誕生秘話な訳だが、これでもかというくらい現実社会とリンクする。
格差が拡大しスラム化した街、それを肯定する大企業、倫理観の欠片もない少年たち、非正規を足切りするブラック企業、里父と実母のネグレクト。
アメリカだけじゃない。ここ近年、日本で起きた事件の背景とまるで変わらない。これはゴッサムの話ではなく、すぐそばの話なわけだ。
この映画をつまらないと思う人は、現実の社会問題を直視できていないからだろう。自分とは違う他人事、自分はこうはならない、その人たちの状況や気持ちを理解しようともしない。その能力に欠けているからだ。
これがあの天才ジョーカーの話なのか、というレビューもある。そう思うのは、そもそもダークナイトのジョーカーの理解が浅いからだろう。
あの作品でジョーカーは、正義に対する悪のアイコンとして描かれる。だから「You complete me」という台詞になる。
あくまでジョーカーは悪の思想家であり、ある種の狂気で、社会に矛盾を突きつける役割である。だから、彼はあくまでアイコンであり、ジョーカーの狂気に触れて、計画化し、実行するのはジョーカーの同志、マフィアたちだ。だからジョーカーは犯罪者として天才なのではない。自分が見てきて、受けてきた社会の苦痛を世の中に見せつけているに過ぎない。そこに彼の孤高さと苦しさがある。
今作で、マレーは、社会の状況によって、ジョーカーが現れたと語る。
その喜劇的な狂気の発想で、これから様々な社会の矛盾を社会に突きつけ続けるだろう。
そして、もはや現実社会の中で、多かれ少なかれ、ジョーカーたちは姿を現し始めているのだ。
グロテスクな孤独
バットマン見たことないですが、評判の高さにつられて見てきました。
ラストでお面ピエロに両親殺された男の子が、のちのバットマンなんですよね?多分。そこはピンときましたよ。やるね、あたし。ブルースくん?だったかな。
アーサーがジョーカーになった境目はおそらく母(養母)を殺した瞬間かなぁと。
アーサーは愛されたかったんだと思います。母に、父に、誰かに。
愛されたくて、できることは頑張った。少なくとも母には。
なのに、実は養母で、ネグレクトされ虐待されていて、そのせいでアーサーにも重い精神疾患がある(とあたしは解釈した)。必死で愛される未来を夢見て生きてきたのに。事実を知ったときには、絶望しか残ってなかった。こんな悲しい話ある?捻れて捻れて悪のカリスマになっちゃったとして、責められる?
ジョーカーになって、マレーの番組に向かう途中、階段を踊りながら降りるシーンがありますが、最高にカッコ良かったです。ニューヨークにある階段らしいですが、行ってみたいなー。あんなに足上がらんけど、ボーダーの靴下履いてポーズ取りたくなりました。
関連作との繋がりとか、キャラの矛盾点とかは、ぜーんぜんわかりません。独立した1つの映画としてみると、孤独な男の顛末が、グロテスクだけどシャープな印象で描かれていて。見応えがありました。
ホアキンね、ウディアレンの映画とかではなかなかにメタボなボディだったのに、かなり絞ってて、しかも筋肉つけずに痩せてるから、背骨のボコボコとかめちゃ目立っていて、造形だけで悲しげな男を表現してまして、凄いなぁと思いました。
笑いが止まらない病気って、辛すぎるよね…
ミーハー発揮して見に行ってよかったです。
何も知らず
CMや映画通の先輩の勧めで何も知識なく観に行きました!
あんなにも人が殺されると全く知らなかったので最初理解するのに一苦労でした。バッドマンを復習してから観たほうがいいですね…
難しかった
アメリカの文化も
アメコミについても
全く知識なく観てしまったためか、
そもそも理解力が乏しいせいか、
ここまで絶賛されてる理由が分からなかった。
けど、アメコミ映画のジョーカーがどんな人物なのか
興味は湧いた。
主演の人の演技はものすごく上手。
表情もそうだけど、
走り方をはじめとした体の動かし方が
すごくリアルだった。
ケースワーカーとの相談の場面で、
「僕の話なんて聞いていない」から始まる
人生や生活に対する不満や嘆きや悲しみ、
バスで子供をあやしたときに
子供の母親に煙たがられて笑い出す場面、
どこにも行き場がない誰にも認めてもらえない
痛みが描き方にも演じ方にもよく表れていて感嘆。
“I hope my death makes
more cents(sense) than my life.”
このフレーズはかなりくるものがあって、
泣きそうになった。
それが一転、
電車内から始まる一連の殺人があまりに突発的で
急に置いてきぼりにされた感じ。
どんなに辛くてもしんどくても
それはないわ…となってしまい、
ちょっとついていけなくなった。
1つ1つどれにも経緯と理由があって
無差別ではないし制裁的なものなのだけど
うーん、、
そのやり方しかなかったのか…だし、
過去も現実も確かにひどい
どこにも助けを求められない劣悪すぎる状況だけど
だからと言ってその殺人は許されないじゃん…て。
パーツパーツから物事を繋ぎ合わせて
しっかり理解していくところや、
垣間見える思考が
地頭のいい賢い人なのに
なんか殺人に至る心情部分の描写が
匙投げされてるように見えて、
ただただ短絡的にカッとなってヤっちゃう
頭の悪いやばい人みたいなのが
もやっとした。
後半はかなり暴力的なシーンが多くて
これは紛れもなくR指定。
心の荒れや社会の乱れを
とりあえず過激な映像で
さくっと表現してるように見えて、
そのあたりもっと丁寧に描かれていたら…
と思うと、もったいなかったな…という感想に。
<memo>
脳障害により、急に笑い出す疾患は実在する。
▶︎情動調節障害(Pseudobulbar Affect:PBA)
この疾患は、感情を司る脳の領域に障がいがあり、
突然激しく泣いたり笑ったりしてしまううえ、
自分ではコントロールできない。
頭部外傷後遺症(TBI)、多発性硬化症(MS)、
筋萎縮性側索硬化症(ALS)、パーキンソン病、
脳卒中やアルツハイマー型認知症に併発する。
ピエロこわい
バッドマンシリーズ見てないんですが、ジョーカーというキャラクターが気になったので、鑑賞しました。どうしようもない世界で、誰も救われなくて、自分を自覚なしに壊さないと生きていけなかったのが、ジョーカーというキャラクターだったんだなと思いました。
ジョーカーになって、なれて、彼は救われたのかもしれないなぁと思ってしまうほど、つらかったー
何も信じられるものがないという状態が、どんどん信じてるものが壊れていくのが、すごい繊細に描かれていて、ほんとにつらかったー
信じてるものが何かを普段意識することはないけど、いろいろ考えさせられてしまった。
とりあえず、ゴッサムシティ怖いし。
ピエロがもう道化には見えない。(やっぱり泣いているように見える
とりあえず、バッドマンシリーズ見ます。
無敵の人
まさに日本で言う「無敵の人(貧しくて家族や恋人もいない失うものがない人)」であるアーサー。
完全に狂った男ではなく、笑ってしまう病気に苦しむ様、道化として病院の子供を喜ばせる仕事をしていたり、身のこなしが美しかったり、繊細な目をしていて、悪人に思えないのが悲しい。
この映画をみて「怖い」「狂っている」という感想しかない人もいるだろう。そうとしか思えない人がいる反面、どうしようもなく、自己投影する人もいるのが環境や性質の分断だ。
個人的には彼の動画をテレビで流して笑い者にしたテレビの人気司会者がウザかった。地下鉄で女性に絡んで、アーサーに撃たれる男たちも見覚えがある。あの人を馬鹿にしてる感じはものすごくリアル。あんな人々で巷は溢れているのだ。
自分に優しくしてくれた小男を撃たなかったのにはホッとした。
荒んだ世の中では誰でもジョーカーになるのは紙一重だ。
怯えた表情、笑い声の涙目、狂った暴力性、まさに怪演。
展開に現実味がない。演技、演出はすごい。ある解釈のおかげで救われたストーリー。
演技、演出がすごく、飽きずに観ることができた。
ホアキン・フェニックスの笑う演技や体づくりにはある種の戦慄を覚えるほどだった。
それだけに、
「自衛のためにと同僚から銃を渡される」
「衝動的な殺人を犯したのに捕まらない」
「バーの舞台で披露したネタがきっかけでテレビ出演することになる」
など、現実的でない展開が続くためどうしてもストーリーに没入できなかったのが残念。
アーサーが解雇されるときその連絡をなぜか公衆電話で受けていたり、上半身裸で冷蔵庫に入って自殺を図ったアーサーがその最中に掛かってきた電話になぜか上着を着て応対していたりと、「なんでそうなった?」と描写の雑さを感じるところも多かった。
主人公は金がないのにいつもタバコを吸っているという点も、タバコが登場するたびに「なぜタバコを買えているのだろう?」という疑問が頭をよぎり物語に集中できなかった。
精神疾患の薬を7種類も処方されていたのに、福祉プログラムの削減で処方を受けられなくなったことによる行動の変化も描かれていないのも、「薬のエピソード、必要だった?」と後から首を捻ることとなった。
端々に雑さが見られ十分に作品を楽しむことができなかった。
たぶん私の考えすぎに因るところが多いのだろうが・・・。
結末については、あるサイトで「アーサーは架空の人物で、アーサーの物語は全てジョーカーが考え出した『ジョーク』である」という説を目にした。
この説では「本物のジョーカー」が登場するのはラストの病院内のシーンのみとなり、トッド・フィリップスやホアキン・フェニックスへの諸々のインタビューの内容とも整合する。
そう仮定すると現実味のないストーリー展開にも説明がつく。
私の中ではこの説が一番しっくり来ている。
アーサーがテレビ出演時に放った主張は、なんと言うか「普通」でジョーカーらしくないと感じた。
精神疾患と貧困で苦しんだ男が犯罪の自己正当化のために語った、ありきたりな犯罪動機だったためだ。
「アーサー = ジョーカー」として、この犯罪動機がジョーカーの根源だったならば、敢えて「バットマンのジョーカー」として描く必要がない。ありきたりでどこにでもあるクライム映画になってしまう。
しかし、全てがジョークだったのであれば、「ジョーカーの頭の中を描いた作品」という見方ができ、ジョーカーは依然として正体不明のままとなるが、彼の闇の深さや魅力は増すのではないかと考えている。
何よりも彼の本名が明らかになったりしていて、ジョーカーが「手に届く位置」にいる存在に格落ちするのが嫌だったというのが本心だ。
そのため「アーサー ≠ ジョーカー」の説を信じたい。
この説を採用すると、なぜジョーカーがウェイン夫妻の死に方を知っていたかが謎になる。
そこは、トーマス・ウェインに間接的に復讐を果たしていたというところも含めて『ネタ』の一部なのだろうということで。(雑解釈)
上記の説を知って私自身は救われたが、映画を見終わった直後の感想としては「★2」だったので、採点はそのまま。
監督は、時が経ったらこの物語の真相に関する「答え」を提示するとインタビューで公表している。
それがいかなる内容でも「なぜ?」が付き纏う出来の作品のような気はするが、その答え次第では私の評価を覆す必要があるかもしれない。
ジョーカーらしさが微塵もない駄作
ジョーカーのバックストーリーは、仮にどれほど見事に描かれていたとしても見ることに抵抗がある。
ジョーカーのもつ「底知れない」悪意が背景を伴うことで限定されてしまう可能性があるからだ。
でも、映画化されてしまったら見ないわけにはいかない。そんなジレンマを抱えながら映画館に足を運んだ。
しかし結論から言うと、全くの杞憂だった。正直ほっとした。
これはジョーカーでも何でもない。有象無象の駄作映画だった。
わかりやすくダメなポイントを2つ挙げるならば、1つはアーサーに降りかかる不幸が軽すぎること。
看板強盗を追いかけたら裏路地でリンチされた、電車で酔っ払いにからまれた、自分の母親が妄想狂だった、憧れのコメディアンに晒し物にされたなど、どの不幸エピソードもとるに足らないくだらないことばかり。ウシジマくんの債務者のほうがよっぽどひどい目にあっている。
2つめはアーサーの犯行が衝動的すぎること。電車でからんできた酔っ払いを銃殺、警察の聞き込みにあった元同僚を撲殺、ウェイン邸でブルースに掴みかかるなど、全く知性を感じさせない行動ばかり。ジョーカーの魅力である狂気や狡猾さの片鱗が見られない。最後のTV番組でも怒りに任せて撃ち殺しただけで、心底つまらなかった。
この2つのポイントはジョーカーを描くのであれば、クリアしていて当たり前のポイントである。それすらできていない本作は全くもって論外というほかない。
ジョーカーのバックストーリーを描こうと思ったら、凄惨な不幸と狂気にくわえて、さらに100歩ほど踏み込む必要があるだろう。
ドットフィリップスには、もう一生このような身の程知らずなテーマには挑戦しないでもらいたい。
すべてを煙に巻くようでいて…
完結に、もっとも印象に残ったシーンだけ。
追突事故にあった護送車から彼を引きずり出しアーサーを悪のカリスマとして担ぎ上げ、バットマンの父親でありアーサーの母の想像妊娠の相手だったトーマス・ウェインを殺害した人物のシーン描写の丁寧さとリアリズムがなんとも不気味。
アーサーも彼の母親も、隣人の妄想恋人も、仕事仲間もボスも、カウンセラーだって悪くない人物だ(場合によって敵対する可能性はあるにしろ)。もちろんトーマス・ウェイン(バットマンの父親でアーサーの母の想像妊娠の相手)もマレー・フランクリン(アーサー憧れのコメディアン)だってもちろんそうだ。
アーサー(≒ジョーカー)を担ぎ上げた存在(匿名の今でいうインフルエンサーだろうか)を我々は意識して冷静な決定を各々がくだすべきだと感じた。
久々に時間を忘れて入り込んだ。
映画としてはおもしろい。入り込んだ。
表情や仕草で善人から悪にかわって行く様子が
わかる。切なさ、不条理、ときはなたれた感覚、
精神疾患的な表情や目の動き等演技が素晴らしい。
内容もえっ、そうなのか!の裏切感もありいい。
切なくて残酷な部分もあるが映画的には素晴らしい
と思う。ただ、不快等を思う方もいて評価が
分かれるかも、、、、
哀しみのジョーカー
画面から流れてくるのはとにかく哀しみと悔しさ。
上手くやれない。
上手く伝わらない。
上手く伝えられない。
上手く受け取れない。
周りも助けられる余力がない。
とにかく何もかも上手くいかない。
どこまでが真実なのだろう?
どこからが妄想なのだろう?
ジョーカーの存在が真実だとして、この先ただ持ち上げられ「混沌の象徴」として市民に使われていくのだとすれば、こんなに哀しい事はない。
ある意味『ダークナイト』の時とは対照的なゴッサム市民
ソフィーとの愛も母との絆も全て幻想だったと知ってしまったアーサー。
もう何も失うものが無く、死すら恐くなくなった。そういう状況に陥った人間は、『どうせなら、自分にひどいことをしてきた奴らに報復してやろう』という思考に走ってしまう可能性がある。
アーサーは、
自らを虐待した母を殺し、
自身をハメて仕事を失わせた元ピエロ仲間を殺した。
最後に残るのはあと一人、テレビでアーサーを笑い者にしたマレー・フランクリンだ。
観客である我々には、アーサーと周囲の笑いのツボのズレを散々見せつけられてきた。
アーサー自身もそれを重々自覚している。
そこでアーサーは気づく。
『みんな僕を病気だっていう、けどこれが僕なんだ。僕の人生は悲劇だと思ってたけど、コメディだったんだ。もう自分を偽るのはやめだ。』
そう、これまでアーサーは病気で笑ってきたと思ってた。けど違った、あれはアーサーの主観的に、面白くてしょうがなかったから笑ってたんだとわかった。
『みんな善悪の基準を主観で決めるのと同じように何が面白いかの基準も主観で決めてる。同じことさ、僕だってそうする。』
そのセリフにも表れてるんじゃないか。
最後のシーン、マレーのショーで『僕が証券マン3人を殺した、奴らがクソだったから。』と暴露したのは
アーサーにとっては渾身のジョーク(殺人した、というのは前提の/これさえも妄想なのかもしれないが笑)だった。
だがマレーは言う、『笑えない、オチは?
お前は自分を憐れんで殺人を正当化しているだけだ。』とアーサーの主観的ジョークを真っ向から否定した挙句、アーサーをこれまで二度も笑いものにした。
なぜ自分の主観的ジョークだけが認められず笑いものにされなければならないのか、とアーサーは憤激し、マレーに引き金を引く。
この映画が犯罪を助長すると主張している人がいるが、その意見は少々的外れではないだろうか。もしこの映画を見て『僕(私)も犯罪をしよう』と思った人は映画と自分をもう一度見直すべきだ。この映画は、『誰だってジョーカーなってしまう可能性を持っている』、『ジョーカーが生まれてしまうとどうなるのか』、『またそんなジョーカーは一体何が作り出すのか』を私達に警告した映画である。『思いやりの欠如』が招き得る結末を私達に突きつけたのだ。決して『みんなジョーカーになれ!』とは言っていない。
マレーの言う『お前は自分を憐れんで殺人を正当化している』というのはド正論だ。社会の道徳的に見て、何も間違っていない。たとえどれだけクソ社会(弱者切り捨て・全体主義)やクソ人間(利益追求マシン化・言葉が形骸化/カウンセラーの女性の仕事からそれがよく伺える。彼女は思いやりの気持ちよりも、機械のように、アーサーにカウンセリングの名目で毎週同じ質問を繰り返す。)から酷い仕打ちを受けたとしても、皆我慢して"黙っていい子"にしてる。そうやってひっそりと死んでいく。そういう人生も当たり前になっている現代で、アーサーに共感した人が大勢いる。つまりアーサーと境遇を共にする人間が実際多く存在する。アーサーは思いやりに欠けた出来事を何度も経験し、何もかもうまくいかなかった結末として、ジョーカーという狂気の存在(死すら恐れないためどんな犯罪行為も犯しかねない)へと徐々に覚醒していったのだが、これは、そのアーサーと境遇を同じにする者達の誰にでも起こり得ることなんだ、と我々は気づかねばならない。この思いやりに欠けたクソ人間とクソ社会が姿を変えず存在し続ければ、ジョーカーのような存在が現実世界にも現れ得るのだと。
資本主義の負の側面を嫌という程見せつけられる。人と人・人と社会・社会と社会を繋ぐのは金(利益)だけではないはず。我々人間には"言葉"があり、そして感情表現の一つとして"笑う"ことができる。思いやりのこもった"生きた言葉"をかけ、"笑い合う"ことでも人と人は繋がりを持てるはずなのだ。
この映画は素晴らしかった。笑えるシーンなんてほとんどなく、ただただた目を見開き、苦しい現実に直面し続ける。目を背けたくもなったし逃げ出したくもなった。それゆえ序盤"酷い一日"を経験しトボトボ登った階段を、"自分らしいコメディ"としてここまでの悲劇全てを受け入れ覚醒したアーサーがthe hey songをバックに軽快なステップで駆け下りるシーンには思わず笑みを浮かべてしまったものだ。私的に、この映画は『ダークナイト (08)』を観て以来の衝撃だったかもしれない。『ダークナイト』において、ゴッサムを救ったのはバットマンではなく、他でもないゴッサム市民だった。彼らにはまだ良心が残されていたのだ。そして本作『JOKER』においてゴッサムを地獄に変えたのも、皮肉なことに、ジョーカー(アーサー)ではなく、"苦しみ"や"怒り"が長い年月をかけて蓄積されたゴッサム市民自身だった。この意味で『ダークナイト』と本作は対照的だったと感じている。
だが一つだけ違和感を感じたのは、アーサーがジョーカーとしてマレーのショーに出た後、発言が力強く、ある種説得力のあるものに変わった所だ。これが少し急すぎた気がした。もちろんジョーカーという人物は、賢く抜け目ない頭脳派のヴィランなので正解なのだが、ここまでのどこか頼りない冴えないアーサーを観ていたからか、微妙な違和感を覚えてしまった。だがこれも、自らの悲劇の人生を喜劇として受け入れることに成功した事で"病気の笑い"と"本物の笑い"が統一され、発作として苦しむことがなくなったことでアーサーは自らの意見を正確に伝えることが可能になった、ということなのかもしれない。
悲劇と喜劇
悲劇に満ちた映画だった。
そんな悲壮感が漂う作中で、ジョーカーが「人生は喜劇だ。」
というシーンがある。あれはまさに、物事を主観的に見るか、客観的に見るかで違うということ。それも、見る側が善人か悪人、正気か狂気かでも違う。そこがこの映画のテーマだと思う。最初に不良に襲われるシーン、電車の中で証券マンのシーンも立場・感性を変えて見ると悲劇でしかないが、不良側(狂気的な視点)で見た場合は喜劇でしかないということだであろう。
自身の悲劇に満ちた人生を、喜劇と言ってしまうほどに壊れていくホアキンのジョーカー。
ホアキンの演技力、画の見せ方、狂気に溢れる、或は溢れ始めていく細やかな演出全てがバットマンに繋がっていくのだと思うとグッとくるとこがありました。
あと、観ていて印象に残ったジョーカーのダンス。頭の中に初代、ジャックニコルソンがラストでヒロインと踊ってるシーンを思い出していました。何か繋がるところがあったような感じがしました。
憐れまれるジョーカーは必要か?やっと呑み込んだので追記
世の中平等とか綺麗事ばかり言ったって、そんなのは嘘ですよ。
世の中は等しく不平等ですよ。
そんな中でみんなもがいて生きているんですよ。
職場の背の小さい同僚さんは善良だったでしょ。
病んでる人がみんな犯罪おかすわけじゃないでしょ。
ジョーカーの境遇は不幸だけど、そういう境遇の人は他にもいるよ。
ジョーカーが堕ちていくのは、自分を憐れんでるからでしょ。
加えて自己顕示欲が強いから。
その自己愛が、狂気だよ。
もっと胸張って悪役になって~!
(自己肯定感満載の狂ったジョーカーが好き)
最後の群衆も、偶像としてのジョーカーを持て囃していただけで、真の理解者ではないことを、ジョーカーが理解していなさそうなところが本当に憐れだなぁと思いました。満たされるのは自己顕示欲だけ。孤独だ。
――――――――――――
追記
私は割りと素直にキャラクターを見る方だと思っていたし、涙腺も弱めなのに、どうしてジョーカーには反発心(反発力だと思う)を持ってしまうのか。
モヤモヤして、棘が刺さったままで、ふとしたときに思い返していた。
そして結局、これは同族嫌悪というか、嫉妬に近い感情なのかもしれないと思った。
それでたぶん、こうして他人から反発される人間性こそがジョーカーとしてある意味正しい形(まさに悪役)なのでは?とも思えるようになった。
私はジョーカーには悪の哲学や、強大なパワーや、他者を必要としない強靭な心を求めていた。
この映画のジョーカーはただの可哀想なおじさんで、理想と現実の違いに落胆した。
でもこの理想と現実のギャップという構造は、主人公がヒーローのときでも同じなのだ。
主人公がヒーローのときは、親近感が沸いて、親しみが持てて好印象だった。
ジョーカーは親近感が沸いて、同時に嫌悪感を持った。
親近感が沸いた可哀想なおじさんは、この映画で苦しみから解放されて自由を手にした。
ジョーカーは血と暴力でラインを越えたけど、ラインを越えられない人間にとっては(だって犯罪)、絶対使えない技を使って抜け駆けされたみたいで嫉妬する話しだった。
でもたぶんジョーカーなら、どうして絶対使えないと決めつけるのか?と私の固定観念を嘲笑いそうだ。
そう、この話しは不思議な誘惑を感じさせる。でも私は、ラインを越えたジョーカーが決して幸せそうではないことを知っているし、私の固定観念上、ジョーカーにはNOと言わざるを得ない。
だからこの映画は、私のちょっとの正義感と、醜い嫉妬を呼び起こした、すごい映画っぽい。好きじゃないけど。
続編あるかな!???(11/3)
必要な社会風刺
決してこの人だけがJOKERになったわけではない。
共通意識が薄れ、共有意識が増えた昨今、共有されないものは淘汰されてしまう現代のLocal Societyが生み出した産物と言わざるを得ないJOKER。
彼も愛情があり、決してなりたくてなったわけではない。
病気のことをわかっていたのだから。
しかし、結果としてアーサーをJOKERに成り上がらせたのは他でもない幸せに暮らせていると思っている人類だ。ホモ・サピエンスという概念を自分の辞書から消し去ったかのように、また彼は不幸だったのだ、というかのように積み重なる負のスパイラル。
結果としてJOKERになった。だが、どうだろう。
彼を賞賛し、仲間意識をあげるものが続々と出てくるではないだろうか。
そんな世の中、JOKERもバットマンも紙一重だと、そう感じた作品である。
見て後悔した。
とても楽しみにしてました。
始まるまでは…全然感情移入できない。
高評価な理由がわからない。
なんだこれは。
精神的におかしなやつの話を延々とされるのはツライ。しかも、無理矢理なご都合主義でたまたま銃を貰って、たまたま駅のホームに人がいなくて、たまたま殺人が貧困層に英雄行為と称えられて、たまたまそのタイミングで市の予算が削減されて、たまたま披露した芸がテレビに取り上げられて、たまたまそれでテレビ出演を依頼されて、たまたまその時に母親が倒れて、たまたま逮捕後に救出されて。
前評判なんてクソだと思った。
この男があのjoker?彼女すら架空だし、架空の妄想がやばすぎて犯行計画立てられないだろ。
高評価の方本当にそう思ってますか?
バッドマンの敵役だからってフィルターかかってるでしょ。
評価2でも高過ぎると思うわ。
見て損した。いや、クソつまらないという話題を得られたからその分だけましかな。
アメリカではピエロは独特の市民権を得てるけど、日本ではただの仮装。
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