ジョーカーのレビュー・感想・評価
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遂に本気を出したDC!!
全編ホアキンを観ているだけの映画ですが、撮り方やBGMも良く、雰囲気抜群でかなり集中でき、久しぶりに「え、もう終わり?」と思えた映画でした。序盤で路地裏で蹴りを入れるシーンで、後ろに電車が通ってとても良い画が撮れたと思います。主人公は知識や教養を重んじる人間ではなく、またかなり時間を持て余している印象なので、あまり共感はできませんでした。浴室のシーンはヤバすぎてカットした(エロではない)そうですが、ホアキンはOKで自分が演じたジョーカーは9割カットされたジャレッドは全く納得がいかないと思います。起承転結の結が無いと思いますが、これまでのDCユニバースやエンドゲームよりかなり良かったです。ディズニーと延々と張り合うのは愚かだと気づいて良かった(上から目線ですみません)です。世間の爪弾き者に決起を促す映画ですが、健康保険や年金も廃止されるであろう日米FTA締結時も、ラグビーや「桜を見る会」の話題に踊らされた日本人では、来年オリンビックの裏で更に何をやられようと、決して暴動は起きないでしょう。
5回鑑賞した
まずはじめに、
この映画は人を選ぶ。
なぜ評価されているのかわからないという
声も多く聞こえてくる。
私の周りの友人でも評価は真っ二つだ。
きっとこの映画が謎を残す終わり方をするからだと思うが、、、
ここからはあくまでわたしの感想と
私の考察です。
まずホアキンフェニックスが化け物。
ヒースレジャー扮するジョーカーの鬼の評価の高さは
誰もが知っている。
あのジョーカーがある以上、今回演じるのはかなりのプレッシャーだったと思うのだが、
あの笑い方や、痩せ細った奇怪な身体つき。
怒りや悲しみの静かだが底深い重厚な表現。
日本人にあんな演技できる人いないと思う。。。
同時期に日本のジョーカーとか言って
楽園の綾野剛が完全に乗っかり情報で話題となってたが、アホかと思ったほどホアキンの演技はすごかった。
考察というか、疑問というか
意図を探りたくなるストーリーなので
私の考えをネットや他の方のレビュー等も
参考に書き殴ると
妄想癖の精神病のペニー
養子だが同じ症状を持つアーサー
これは物心ついてから共に愛を持って
育んできた家族なんだよという事を表現してるのかな?
10:11
劇中時計が全て同じ時間を指している。
全てアーサーの妄想説なのか
11時11分はスピリチュアルな世界において物事のスタートを意味したり、思考が現実化することを示す宇宙からのサインなどと言われてるそう。
また、11時11分は左右対称の数字であり、物語の二重性を象徴しているとも言える。
現実と妄想が対照的になっている暗示?
銃の装填数
地下鉄でのシーン装填数より弾が多い。
やはり妄想の世界?
ピエロの仮面を被った人が犯人。
と言われているが、アーサーはピエロのメイクをしている。
全て妄想なのか、一部が妄想なのか。
それも考えると難しい。
ペニーの写真の裏の素敵な笑顔だ TM
トーマスウェインとペニーの関係を闇に葬る為にアーサーを捨てて養子として取り直したんじゃないか?
等色々と考えさせられる部分は多い。
個人的には
アーカム病院での出生の事実を確認した時の
アーサーの笑いには泣かされた。
あんな悲しく苦しそうに笑う姿、
純粋に気の毒というか哀れというか。
アーサー頑張れ!悪頑張れという構図になってしまうのも仕方ない。
作り手がうまい。
タクシードライバーやキングオブコメディへの
オマージュに関しては、割とまんまやないか!
ってシーンが多い。
ここに批判が集まらないのは、作り手の愛を感じるからなのか。
そして音楽も最高のセンス。
クリームが流れた時は、ちょっと
笑ってしまう程映像に合っていて
ゴッサムが炎に包まれながら嬉しそうに微笑むアーサーをニヤニヤしながら見守ってしまった。
あと何と言っても、
フランクシナトラのザッツライフ。
何度流れるの!ってほど流れて、
あのイントロが耳に焼き付いた。
またチャップリンのセリフをもじった名言。
人生は悲劇だと思っていたが、喜劇だ。
この文字通り、最後は右へ左へ逃げ回る
喜劇の様な終わり方。
ザッツライフにのせて、、、
理解できないさ。
ーーザッツライフ投入!!ーー
ここもう癖になる。
カウンセラー、同じ人って言うけど
あれ同じかな??
そこがいつも疑問に思ってる。
拉致があかないので、
この辺で。
私はこの映画をお勧めはできないが、
個人的に大満足で大好きな映画。
早くも1月にBlu-ray発売なので、
6度目の鑑賞も近いでしょう
精神病になりそう
R15指定だったのでグロい要素があるのか?と思っていたがほぼなく安心して見られた。
子供がみたらサイコパスになりそうだったのでR15はそういうことかと思いました。
ジョーカーが笑ってしまう病気だと知っても尚私はジョーカーへの不信感が隠せずやばいなって思ったのでこういう私みたいな人間がジョーカーをこういうふうにさせるのかと罪悪感を覚えました。
母親を殺すシーンでは枕で窒息死させていて銃を使わないあたりケジメや覚悟を感じました
コメディアンが死ぬほどつまらない。
どこがウケるのか、、
確かに分かれる作品
全編通して救いようがない話だからねぇ。
ただここからあのジョーカーになる想像ができないって人はちょっと想像力が足りないかな…とも思う。
ジョーカーって悪のヒーローではなくて悪のカリスマなので…。
なーーんもなくなって、空っぽになって壊れていった人が時代に求められてカリスマになる。十二分にあり得ると思いました。
ヒーローじゃなくてカリスマ、コレこそジョーカーって思いました。
後半の階段を降りてくシーン…
大事ですね。
SMILEの意味
笑顔で始まり、笑顔で終わる。
でもその意味は正反対なものになる。
映画のお手本のような見事な構成。
ある意味ヒーロー映画のような、自身のアイデンティティを確立するようなお話だ。
何が凄いか一言でなかなか言葉に出来ないけれど、何より音楽が凄かった。常に不穏で何か起こりそうで、暴力的な痛々しい感じ。
それでいて目が離せない強さがある。
監督が影響を受けたという70年代の映画も見てみたいと思った。
悪=ダメ?
悪と呼ばれる人も意味をもち殺しをしている。
一時的な恨みの感情であっても、相手にムカついたから殺した。
どうしてその感情が巻き起こったか?
それを解決しないと殺しは続いていくと感じた。
仕事をクビになって精神を病んだピエロは自分がバカにされたりした相手を次々に殺していく。
彼は養子。
その母親から暴力も受けていた。
母親は市長と禁断の愛を育んだ。
善と悪、真実と嘘。その曖昧なものの上で成り立つヒーロー論
この映画は彼が様々な境遇の中で「悪」に染まったという話を描くものではなく、「正義」とは何かを描いた話。倫理的に「善」とされている行為だけが正義ではなく、例えば人々を喜ばせることが正義であれば、彼はその役目を全うし、この世に存在している意味を成したことになる。「正義」なんてものは、所詮は利己的な思考性に基づくものであり、その証拠に視点を変えるだけで、「善悪」なんて概念は簡単に入れ替わる。
そして現実世界では「真実」と「嘘」も同様。所詮は人それぞれの視点で、都合よく捻じ曲げることだってできる。何が真実で何が嘘なのか、そんなことを当事者はおろか、視聴者の我々に判断できるわけもない。それくらい曖昧なもので一限的に「正義」を語るんじゃない。。。という近年のアメコミヒーローブームへの風刺メッセージにも思えた。
彼自身の正義(=彼が成し得たいこと)は、映画の序盤と終盤で変わったのだろうか?実は何も変わっていない。自分の社会的立ち位置をまざまざと認識し、物事の捉え方がほんの少し変わった、そして目的に向かうための行動を変えた。
ジョーカーがスクリーン越しに問いかけているようだ。
敵を倒して、人々を喜ばせる。『これの何が悪い?バットマンだって同じだろ?』と。
そして、後のバットマンとジョーカーの因縁を匂わせる描写。
「正義」だなんて言ってるけど、『結局、みんなキッカケは個人的な動機なんだろ。俺と同じだろ』と。
『なぜバットマンは「ヒーロー」と呼ばれ、俺は「ヴィラン」と呼ばれるんだ?』と。
バットマンに救われる人間もいれば、ジョーカーに救われる人間もいる。バットマンを生んだのはジョーカーであり、ジョーカーを生んだのはバットマンということを改めて理解するとともに、世の中でよく使われる「必要悪」という言葉も改めて考えさせられる。
ただ、この映画を見てジョーカーという「存在」をわかった気になるのは少し違う気もする。多分彼の言う通り、本当の意味では「理解できないさ」ということなのかもしれない。
名作かつ音楽(音響)も秀逸
映画を観た人の意見が2分されているようですが、忘れてならないのはこの映画がバットマンというコミックスに登場するジョーカーの話であるという点。彼がいかにジョーカーになったのか?がドキュメンタリー仕立てで描かれ、進行して行きますが、架空の人物の物語であり、決して現実の話ではないのです。 とは言え「映画の中の話」では済まないというか、いつでも現実に起こり得るリアルさが充満しています。現実として捉えたら単純にかわいそうな狂人、でもアメコミ映画の1キャラクターとして捉えたら、まさに悪のヒーロー誕生の物語。どちらと捉えるか?が評価の分かれ目でしょうか。
さておき、ジョーカーと言えば当初冷酷でサイコパスな性格の設定キャラクターでしたが、50~70年代は残虐さを抑えたいたずらキャラに、70年代以降は再びダークなキャラクター性に戻っています。そういった意味で、バットマンにおけるジョーカーの設定は曖昧な部分があり、ある意味いろんなタイプのジョーカーが生まれても不思議の無いところですが、本作では薬品の影響で完全にイかれてジョーカーになったという基本設定すらなく、善良な男が社会の被害者としてジョーカーに生まれ変わっていく様が描かれています。またジョーカーにとっての犯罪はジョークであり、それに常にレスポンスをしてくれるバットマンのことを最高の観客、最高のツッコミ役、最高の遊び相手と捉えていますが、そのような関係性に結び付く要素も皆無なため、ほぼこれまでのジョーカー像を刷新しています。
犯罪をジョークやある種のアートのように行う悪党=ジョーカーではなく、社会に見放された人間がやむ無く法を犯して行く様を、非常にリアルに、社会の被害者として描いています。ジョーカーは超人的な能力を持たないので、極悪になるためにたがが外れる理由が必要ですが、そういう意味ではこの設定も個人的には納得。
やっていることはもろ犯罪ですが、最後には「自由になれて良かったね」と思って観ている自分がいました。ただし本作のジョーカーがバットマンと戦う姿は想像できません。
バットマン・シリーズから離れ、1本の単体映画として観た場合、配役、演技、演出、映像、どれをとっても最高の出来です。
中でもHildur Guðnadóttir(ヒドゥル・グドナドッティル)の音楽(と音効)が最高に素晴らしかったです。「この曲を聴くとあのシーンを思い出す」というようなキャッチーさはありませんが、物語のシーンの内容と演技、映像と混然一体となって、胸にダイレクトに訴えかけてくるような音響演出がとにかく秀逸。
最近は何でもかんでも某シンセサイザーの音で埋め尽くされがちなハリウッド映画にあって、さすがはチェリスト!と唸るまさに珠玉のサントラでした(← あくまでも映画の演出としての音楽という意味で、音楽だけを聴いて楽しめるかというと、暗過ぎ・ヘビー過ぎで疲れ果ててしまうでしょうが)。
それにしてもトッド・フィリップス監督はコメディ畑の人だと思っていましたが、いやぁ凄い監督さんですね。
この映画の解釈は幾通りも考えられ、夢落ちだと考えている人もいらっしゃいますが、個人的には、ラスト・シーンがすべての事の始まりであり、アーサーの妄想含め、全てが現実に起きたJoker誕生へと繋がるストーリー(と言っても映画の中の)なのだと思いました。
※ 余談ですが、私は70年代をNYで過ごしました。当時のNYはまさにこの映画に描かれているように、貧困がもたらす犯罪が横行している危険な街でした。沢山の良い思い出がありますが、沢山の悲しい出来事にも遭遇しました。
安全で豊かであるはずの日本でも、子どもの貧困、下流老人、貧困女子などの言葉を聞く機会が増えていますが、社会弱者に対するケアや意識を変えて行かないと、日本でもジョーカーのような人が出てくるかも知れませんね。
社会の悪意が「ジョーカー」を生む
ジョーカーを観て、真っ先に思い浮かんだのは数ヶ月前に観た【存在のない子どもたち】と「結愛ちゃん虐待死事件」。前者は「ぼくを愛して育てられないのなら、産んだ責任をとってもらう」と両親を訴える子どもの話で、後者は記憶に新しい連れ子を虐待死させた凄惨な事件。
根底に共通するのは児童虐待。上のルポを読むまで知らなかったが、雄大被告が暴力と異常なしつけに走った遠因は、子ども時代に受けた暴力が根底にあった。頭蓋骨が陥没するまで父親に殴られたことがあるという。
ジョーカーことアーサーも同じように子供時代に虐待を受け、それがそもそもの不幸の連鎖の原因にある。
この映画は、独りの人間をいくらでも助けられる瞬間があったにも関わらず、それをしなかったたくさんの悪意が、ジョーカーを生み出してしまったことを描いている。
ジョーカーことアーサーは、脳に受けたダメージにより突然笑い出してしまうという疾患を抱えており、多少奇行じみた行動をとるものの、至って普通の情動を持つ人間だった。それを他人や同僚、職場の雇い主たちの心無い悪意が蝕んでいく。
そして何より父かもしれないと心の拠り所にした人物(バットマンの父親)や憧れの人に、邪険にされ晒し者にされた瞬間、彼の「他人にいたわりや優しさを求める心」は崩壊するのである。
緊張したり悲しんだり苦しいときに限って笑い出してしまうことが、彼の悲惨さをより強調する。鑑賞後はどうしたってアーサーに同情してしまう。
もともと人間社会は平等などではない。持たざる者と持つ者は生まれたときから決まっている。努力ではいかんともしがたい格差がそこには横たわる。持たざる者が少しおこぼれをもらおうとしても、持つ者はそれを阻む。ほとんどの者が「持たざる者」である社会で、「この話は私のことだ」、もしくは「私はジョーカーになりえる」と感じた人も少なくないのでは無いか。
であれば、その平等ではない社会をぶっ壊す権利はあるのではないか?というジョーカーの主張に、どう反論すればいいのだろう。彼の言う「人は自分の判断基準で生きるべきだ」という考えが蔓延した社会は、所謂無法地帯である。
しかし法というものは、それが無いと人間社会が成り立たないから皆で守っているだけであって、必要があれば変化していくものである。
であれば、「生まれたときから他人によって決められた法を、なぜ自分が守らなければならないのか? 社会が、『自分を無視し、不必要で消えていい存在だ』と追い詰めるのであれば、自分がそれに反抗して何が悪いのか」とジョーカーに問われれば、答えに窮する。
「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに「自分(または自分の大切な者)が殺されたら困るから」という答え意外に、実際何があるだろうか。
そこで立ち返らなければならないのは、アーサーは元々は「ハグして欲しい」という小さな願いを持った不器用な人間だったということ。
現実の殺人の動機がニュースで報じられると、「こんなことで」と言われることがよくある。でもそのたった数行の裏に、何年も積み重なった恨みや一言で言い表せない人生があったことを考えなければならない。先天的に人を殺したくてたまらないという衝動を抱えて生まれる訳ではなく、人とつながり、優しくされたいと欲する心の方が先にあるのだから。
他愛ない笑顔や挨拶、ちょっとした労りで誰かの心を一瞬でも救えるのなら、それで救える悲劇もあるのではないか――。
ダークナイトのノーランの世界を踏襲したとことん重い世界観ではあるが、ヒース・レジャーのジョーカーとはまた違う生々しさがあった。
ただの殺人映画
閉鎖病棟を観た後だったので、どうしても精神を病んだ人間が殺人するという似たようなストーリーに比較してしまった。出来は閉鎖病棟よりはマシ。でもただの殺人映画。やっぱりどんなに俳優さんが頑張っても精神を病んだ人の眼は真似できない。
また殺人に至るまでの人生や環境にみんな思いを馳せて感動するんでしょうけど、殺人は殺人であって、身勝手そのものであって、実際の世の中にはもっと苦労している人はたくさんいるし、この程度でダークサイドに堕ちるのかとガッカリした…。だから星は0.5。
それにしても映画会社は精神障害者をなんだと思っているのか。社会も社会で、いざ現実社会だと精神障害者だからといって殺人は許されない!極刑に!などと声高に叫ぶくせに、映画だと精神障害者が殺人しても共感したり、感動したりするんだね。いい加減なもんだ…。
どんな境遇であろうと殺人はやってはいけないことと、エンドロールで良いから映画会社には言ってほしかったです。例えフィクションであってもね。美化して終わりだなんて、現実社会との対比も含めて、観ていて胸糞が悪くなる映画でした。
さっぶ~
自分とは全くマッチングしない(波風を立たせない表現)映画でした。
かわいそうな境遇のおっちゃんが同僚のおっちゃんから銃を貰うことから始まり色々不幸も重なり闇落ちして人を何人も殺してしまう映画です。
まあそれで終わってりゃそういうお話ですってことでいいのですが(いいのか?)
ジョーカーはあなたの中にもいる…てか、あなただったのかもしれない…こんなかわいそうな事があったんやから暴力に走ってしまったのは仕方がなかったのだ…(マジ顔)
みたいな公式の全体的なノリが寒いな~と思ってしまいました。主語でかくすな!サラッと暴力肯定すな!暴力はアカン!
あと「悲しいのに笑ってしまう」っていう設定が気に入ったのか何回も出てきてもーええ!その設定好きなん分かったから!と思ってしまいました。
いつ面白くなるのかな?と思ってたら画面にThe end の文字が出てきました。
同行者がデニーロのそっくりさんやと思ってたようで笑えました(こんなおもんない映画に御本人が出てるとは思わなかったらしい)。
思春期闇落ち時代に見たらジョーカーは俺だ…(ほの暗い微笑)みたいな感じにハマれたのかな
観た後なんとも辛気くさい気持ちになったので景気付けに美味しいご飯を食べて帰りました。
正直微妙かなぁ
映画単体としてみれば、
確かに面白い社会派の映画だ…
けどジョーカーとして見ると正直微妙
自分もダークナイトで予習しただけだったけど、
ダークナイトと繋がらない…
ダークナイトでは、犯罪歴のない(捕まったことのない)ケチなコソ泥が
バットマンのビックリするような正義に照らし出されて表舞台に…って説明だったはずなのに
精神異常者が病んで人殺しちゃいましたみたいな話になってた
挙句オチがこの話自体夢オチかもねみたいにお茶を濁して、ダークナイトと繋がらなくてもしょうがないよねと言わんばかりの終わり
面白い社会派映画作ったから見てほしい!
じゃあ、ジョーカーの名を借りて人集めてみよう!
…みたいに邪推してしまった
もやもやもや
非常にもやもやが残る作品でした。
精神障害を持つ大道芸人が世間の目だとか他人の声だとかに苦しんでいつしか犯罪を犯してしまう…話。
演出も俳優さんたちの演技も素晴らしく、その点だけで言うなら星5でした。ただ、バットマンを知っていて、ジョーカーも知っていて、バットマンの敵としてのジョーカーを求めて観ると消化不良を起こすような気がします。私はそうでした。
作中好きなシーンは沢山あります。でも(あくまで主観なのですが)それはストーリーではなく演出だと思うのです。ストーリー自体は主人公がジョーカーである必要があるのだろうか?という思いが拭えませんでした。
これがジョーカーでなかったのなら、ただの大道芸人であったなら、私はこの映画をただ素晴らしいと評価していたと思います。
ジョーカーになる以前のアーサーやジョーカーとして名乗りを上げてすぐのジョーカーが、バットマンの強大なヴィランとして無差別テロを起こすようになるのがどうも想像しづらいのです。将来の姿を想像するとそこまでなるかな?という気持ちになってしまいます。
正直なところ、ジョーカーの過去はどこかでみたような話でした。経験したことがない人間が知った口を、という話ですが、わざわざ主人公がジョーカーである必要は?と…。
ジョーカーはあなたのすぐそばにいるかもしれない、そんな恐怖を駆り立てるような作品なのかもしれません。ホラー映画と同じようなものなのでしょうか。あなたの後ろにも貞子が…、というような?残念ながら私は映画を束の間の現実逃避として観るタイプなので、そういった感覚も解りませんでした。
もし現実にジョーカーが存在して、その過去を描くドキュメンタリーのような作品でした。
私自身人生経験もゼロに近い若造ですし、学も有るとは言い難いのでこういった感想ですが、この映画は自分の目で耳で心で考えるのが一番かと思います。映画館でお金を出して観てほしいとは言いません。でも一度は何かで観てほしい作品です。
乱文失礼いたしました。少しでも参考になれば幸いです。
最後に何故か清々しく
ジョーカーはバットマンの悪役という程度の情報で、評判の良い本作を鑑賞しました。
ホアキンフェニックスの演技にやられました。殺人は、悪い事なのに、感情移入しまくり、気付いたらアーサーを応援していました。地下鉄のヤッピー達がホント嫌味で、そんな奴ら撃っちゃえ!と←オイオイ。
アーサーが闇落ちするのは、哀しいはずなのに、最後には何故か凄いカタルシス。
観賞直後は良かった、んだが
そのあとに「パラサイト」や「屋根裏の殺人鬼 フリッツ・ホンカ」等を見たら、めちゃくちゃ上品な作品に思えてしまった。
ジョーカーとして覚醒した後、世間は彼をヒーローかのように担ぎ上げて拍手喝采、だが
「パラサイト」「屋根裏の〜」はそれに比べてどうだ。
特に「屋根裏の〜」は事実に基いた話であり
こんなにも救いがないなんて。
現実はもっとつらい。
上記2作品に比べると、「ジョーカー」は前向きで希望の持てる作品にすら感じてくる。
単純にテンポが悪い
大体のシーンが無駄な尺が多く、30分ぐらい短くできると思われる。
始めの笑い病の所もなげぇなぁ。とその段階から見に来た事を後悔し始める
作中で全ての原因となった、会社の同僚が何故銃をあげたかと、銃を保育園?に持って行ったかが不明、会社の責任者も何故持っていったんだ?と聞いて、いえピエロとしての仕事道具と答えていたが、いらんでしょ、と責任者に言われクビになる。まったくその通りだと思った。
銃でむかつくやつを殺しまくる所は爽快、血で口紅するぐらいかなぁ、見所は。
全てのシーンが主人公の妄想の可能性があるが、どうなのかは明かされず、
脚本執筆時に意図していた“真実”をいずれ明かすという監督、いずれなので、いつかは不明、解釈は視聴者におまかせします。
うーん、倍速でレンタルで良いと思います。
謎がいっぱい。
バットマンの宿敵、ジョーカーの過去を描く。
なによりも驚きなのは、あの「ハングオーバー」のトッド・フィリップスが本作を手がけていることだ。そのことにずっと気をとられていた。
アーサー(ホアキン・フェニックス)がジョーカーになってしまう過程が緻密に描かれている。
コメディアンになりたかったアーサー。ピエロの扮装をしてサンドイッチマンの仕事をこなす。
カウンセリングを受けながら。
・・・・・
すべてがアーサーの妄想だとする説がある。
同じマンションの彼女の件りは妄想だとはっきり示されるが、ことによるとマレー・フランクリン(ロバート・デ・ニーロ)もアーサーの創作かもしれない・・・。
ホアキン・フェニックスの怪演と謎が散りばめられている脚本で、リピーターが続出しそうな感じ。日本での大ヒットは必然か。
DCコミックスの映画化で、オスカー戦線に登場できるか、楽しみなところである。
思ったより全然良かった
あまり期待していなかったが、友人に誘われたので映画館で鑑賞。
観終わった後の満足感は十分あって、映画館向きの作品だった。
段々と一人の男が狂っていく様を描いているのだが、構成としてはそこまで複雑ではなく、しかし一つ一つのシーンで目が離せないような魅せ方があった。
カメラの構造的には寄りで背景がボケボケというようなショットが多く、通常であったら疲れてしまいそうなところだが、むしろ「最初から最後まで緊張感持って見ろよ!」っと挑発されているような気がして、世界にのめり込むことができた。
特に良かったと思うところは、狂った男「ジョーカー」の話ではあるのだが、もちろん最初は(ちょっと変わっているが)普通の男で、それがなぜ狂っていくかの過程が突飛なものではなかったというところ。
銃を取得する所は日本では現実離れしているが、その他のジョーカーがジョーカーなりうる要因たちはどれも共感することが出来るようなもので、その一つ一つが私達の日常の中に潜んでいると思うと恐ろしくなった。いつ、なんの言葉が他者を傷つけるか分からない。しかしそれを防ぐことが出来るのも人との関わりで、寄り添い話を聞いてくれる人(味方)が周りにいることが大切だと思った。
映画として素晴らしい
映画として、演出、脚本、演技、ストーリー全てが素晴らしい出来でした。
個人的には賛否両論というより、映画としてのクオリティが高いから多くの人に見られていると思っています。
今回の場合、なんでもありのスーパーマンが世界を救う、現実では経験しづらい遠い夢物語よりも、ふとした瞬間に障害で「笑ってしまう」主人公が、なんとかできることをやってみたのに、全然うまく行かない。誰も救えないし、誰も嘲笑わせることもできない。そうしたストーリー設定がガッツリ、多くの人にぶっ刺さったのではないかと思います。もちろん、脚本、映画撮影手法、演技力もそれまでの王道映画よりもクオリティが高かったのは言うまでもありません。
普通になりたい、普通に生きていたい
そうした葛藤が描かれているところは共感を呼んだ部分でもあったのではないでしょうか。
彼が唯一殺さなかった「君だけが僕に優しかった」といっていた友人のように、多くの多様性に寛容であればジョーカーにならなかった「ストーリー」も存在したのかなど想像が膨らむ魅力的なシーンが沢山散りばめられていたように思います。
一方で、観覧者に危険な行動を扇動するようにも捉えられなくはない部分も存在するとは思います。しかし、よく考察を重ねると、全てがエンターテイメントとして出来が良いことにも気づくのではないでしょうか。
どちらかというと全国公開より一部のシアター向けのような印象もあり、そうした会場で見ていればさらに何か本当に味わうべきものがあったようにも感じました。
全399件中、81~100件目を表示