ジョーカーのレビュー・感想・評価
全387件中、21~40件目を表示
誰もがジョーカーなのだ。
バットマンシリーズは見てこなかったため、
ジャック・ニコルソン、ヒース・レジャー演じる歴代ジョーカーを観て「予習」した上で鑑賞。
舞台はゴッサムシティで幼少の頃のブルース・ウェインも登場するのだが、
アメコミ要素をあえて削ぎ落とし、「ジョーカー」と化してしまった男の悲哀と狂気を描いたヒューマンドラマであると感じた。
どこからどこまでが主人公の妄想だったのか?
一体正しい時系列はどうだったのか?
こんなのは「ジョーカー」ではない!
・・・などと議論や物議が醸し出される作品ではあるが、私はとくにそこまでの興味はない。
観る人によっては
幼稚だとか
傑作だとか
単純に怖いとか
評価は分かれるのだろうけど、
私はそのどちらでもない。
闇堕ちしていく主人公が自分の起こした行動により世間にある種ムーブメントを起こし、社会が崩壊していくこの作品は
不満を抱え、不遇に喘ぐ者たちほど魅了されるのではないだろうか?
そんなディストピアに病的に心惹かれるのだ。
物語終盤、車窓から暴徒により社会が壊されていく様をワクワクしながら眺めるあの「ジョーカー」のように。
無敵の人
この作品内において、序盤はジョーカーは自身も障害を持ちながらも、老いた母親の世話をして、一つを笑顔にさせたいという気持ちでコメディアンを目指す心優しい青年として描かれていた。
しかし、理不尽な理由で仕事先を首になり、父親には見放され、徐々に精神を蝕まれていく。
そして、地下鉄内でのサラリーマン3人を射殺したことで決定的に壊れてしまったのだ。
↑このようなストーリー展開のため、映画の空気は終始重く、救いがない。そのため、気分が落ち込んでしまったり、人によっては不快感を覚える作品であると思う。
しかし、フォアキンフェニックスの狂気の演技はとても見応えがあり、現代の社会にも通じる内容であると思うので、まだ観ていない人には是非視聴してほしい。
疲れてる時や落ち込んでいる時にはオススメしないが(笑)
哀れなアーサー
くっそ重い作品
観てて晴れやかにならないし
虐待ゆえに頭のネジが外れてしまった
哀れな男の人生
ただ、最後まで目が離せない。
馬鹿にされて怒ってるのか
怒ってるフリをしてるのか
たまに見せる目は何を映しているのか
母に裏切られ、母を殺した手は
何を掴むんだろう
ジョーカーに祭り上げられて
彼は満たされたのかな
身体の肉付が序盤と終盤では違ってて
同じ人だと思えなかった。
そこも組み込まれているのなら…
彼は確かに狂人ジョーカーなんだろうな〜
何が真実で何が妄想なのか
病みそうだったけど
ホアキンの演技は抜群
笑い方、歩き方、表情のひとつひとつ
すごく魅力された!
ロバートデニーロは流石の存在感♡
悪役もヒーローも表裏一体
不遇な生い立ちと、幼い頃の虐待ネグレクトによって精神病を患ったアーサー。下層級の不幸で気弱な精神病疾患者が残された救いは“笑い”なんだ。
愛する“道化師”の仕事さえも奪われたら、それこそ死ねというのか!!
これだけ多くのマイナスと不幸が重なり“ジョーカー”が生まれてしまったのだ。
一方でアーサーは年老いた母の面倒を献身的に見る優しいところがあったりもする。
誰だって悪役になりたくてなったわけではない、“ならざるを得なかった”という背景があるんだと本作を通して気付かされる。
生きていると、自分より幸せそうな境遇の人や才能を持つ人に対して嫉妬するし、嫌なこと不幸が続くと投げやりな気持ちになってしまうことが誰にでもあるのではないだろうか。
だから本作は多くの人から共感を得ているのかも。分かるよ、ジョーカーの気持ち。
笑いと怒り、悲しみ
正義と悪
現実と妄想
この世のものは全て表裏一体
ジョーカーだってある人たちにとってはヒーローなんだ!
どこからが現実か、アーサーの妄想なのかという線引きが難しいのが本作の特徴だが、鑑賞者に判断を委ねているのだろう。最後の民衆の逆襲は現実であってほしい。
思ってたんと違う
公開当時から映画予告や観た人の感想を聞いてずっと観たくてうずうずしていたものの、怖くて観れていなかった作品。
期待値が上がりまくっていただけに、少し拍子抜けしました。
心優しい青年が追い詰められて追い詰められて失意に伏すというのを想像していたんだけど、なんというか…んー。悲惨だとは思うけど、卑屈すぎじゃない?って思ってしまった。まあ結局全てが妄想だったという見方もできるし、色々な解釈の仕方ができるストーリー展開が面白い部分だと思うんだけど。可哀想な境遇の俺!狂ってる俺!以上!っていう大発表されて、あ、ハイ…って言うしかないっていう気持ち。
衝撃の名作
年に数本、衝撃を受ける映画に出逢う。
ジョーカーはその最たるものと言って良い。
"衝撃"だ。
退屈な映画が数多ある中でこの作品は凄まじいインパクトを残してくれた。
トリガーを引かれるが最後、みるみる悪に犯されていく一人の男の人生。共感したくないが、この時代に生きている人間として共感できる箇所が多くある。人は誰しもジョーカーになり得るということ。
全体的に救いのない映画だが、終盤は気づけばアーサーを応援していた。こうしてジョーカーが量産されていく。
社会の光と影
平田さんの声とホアキン・フェニックスさんの演技力が素晴らしいのは勿論なので置いておいて、バットマンシリーズを見たことが無い為ジョーカーを見るのは初見でしたが見終わった後、彼についてもっと知りたいと思った。
ただのサイコパスなんじゃなくて、彼を作ったのはこの世界なんだと思わされた。
一生懸命生きているだけなのにどこまでも救われない。
何処までが彼の妄想であり、ジョークなのか観客としては分からないのがまた良い。
美しさの中に見え隠れする狂気がこの映画を際立たせていて、映像の美しさとBGMが最高に合っている。
ただのサイコホラーだと人を殺しすぎて現実味がなく興ざめだが、映画の4分の3程彼の生活や辛さを知っているからこそ、ただの殺人鬼ではない魅力に気がついた。
見処は所々出てくる彼の笑えないブラックジョーク。
日本ではブラックジョークに慣れていない為、本作の大物司会者のジョークも笑えないと思う。個人的には大物司会者は嫌いなタイプなのでスカッとした。
奇人と呼ばれる人は彼等は彼等なりに色々考えていて、葛藤や苦悩もあるんだなと思った。社会の影に取り残された孤独感。
話の進みが遅いのと、急なサイコシーンは苦手な人がいるかもしれない。
ジョーカーの堂々としたメイク姿が正直、格好いいと思った。
妄想がどこから
あいつなんで拳銃なんてあげたんだろう。一番あげたらやばいやつやん!!
親子関係は、なんとか良好なのかと思ってたら…。
元同僚が家にきたところは、びっくりしすぎて震えた。躊躇なく(๑•﹏•)でした。
同じビルのあの女性の部分は、妄想。人を殺してるのはリアルってことでいいのかな。
これがバッドマンに繋がるのか?とりあえず最近のバッドマンシリーズ見てみようと思う。
自分は今どちら側か
何種類も薬も飲み、診察に行き、カウンセリングを受けます。会社では上司や周りの理不尽な言動にニヤニヤして受け答えし、1人になったら壁を蹴っています。
冒頭、私の日常が再現されているようで怖くなりました。見るのをやめようかと思いましたが、止められませんでした。
何かきっかけさえあれば誰でもジョーカーになり得ると思います。
私も人生の途中まで自分はマレーやウェインだと思っていました。
今はウェインだと思ってる人も明日になればジョーカーになるし、逆もあり得ます。
昨日まで普通に暮らしていた住人達がジョーカーの仮面を付け暴動を起こし、平気で暴力を奮っていたのも同じです。
そう思うと人生は喜劇なのだと思わされます。
誰もがジョーカーになるかもしれない
ジョーカーがどのようにして生まれたか描かれている。経済的格差や親からの虐待、周りの人々の無関心さ、冷淡さの1つ1つがジョーカーを作り上げていく。誰もがジョーカーになる可能性はある。ただ、少数ではあるが自分を気遣ってくれる人の存在に気付ければ違った道もあったのかもしれない。完璧な人間はおらず、全てが善または悪と言うことはない。
最後の暴動の時のほうが、いきいきしている。 賛同を得て大勢に認めら...
最後の暴動の時のほうが、いきいきしている。
賛同を得て大勢に認められた。
自分の存在意義を感じてる。
ちゃんと笑えてる。
悲しみと憎しみを抱えて、
なるべくしてなったジョーカー。
ダンスが上手でした。
感想と考察
アーサーの病気(後に虐待による後遺症と判明)である発作的な笑いは、人々との断絶を生んだ。彼が唯一目の前で発作を起こす描写のなかった彼の母親こそ彼の居場所であるように思われるが、実は彼女こそが彼を本当の意味で孤独にさせていた張本人である。彼女はアーサーをハッピーと呼び、「あなたの幸せな笑顔が人々を楽しませる」と言うが、彼の人生に幸せだったことなどなく、彼の笑いは周囲を気味悪がせているだけだった。彼女の望んだ「ハッピー」を演じ続けるためには、彼は蓄積された苦しみと怒りを7種類もの精神薬を使って抑圧し続けなければいけなかった。母親が愛していたのは、アーサーではなく「ハッピー」であった。つまり彼は本当のところ、家の外にも内にも、カウンセラーも含めて理解者などおらず、誰も彼をありのままに受け入れてくれるどころか、認識してくれる人すらいなかった。だから彼は、「僕は人生で自分がずっと存在しているのかわかっていない。」と言ったのだ。そのような現実に耐えられなくなった彼は、同じ階に住むエレベーターで相乗りしたシングルマザー(ソフィー)を、自分を愛して受け入れてくれる幻覚として見るようになる。
仲間の策略も加わり、派遣先で銃を落として職場をクビになった彼は、電車で絡まれた3人のエリートサラリーマンを撃ち殺してしまう。今までであれば子供から痣だらけになるまで蹴られても反撃しなかった彼が、銃を撃ったのはなぜだろうか。
その少し前に彼は劇場でコメディアンになるための勉強をしている。周囲と笑いのタイミングがズレていることに気づき、笑うタイミングを修正するシーンがあった。家に帰りメモのまとめやネタの創作をしながら、「精神病を患うことで最悪なのは、普通であるように振る舞うことを周囲が期待していることだ。」と書いている。自分の笑いの発作を理由に3人から暴行を受けたのは、その現実が改めて突きつけらた形だ。
加えて、自宅で誤って(?)銃を撃ったことでその威力を目の当たりにしたこと、幻覚を必要とするまでに精神に限界がきていたこと、母親に「お金のことは心配ない」と言った直後に、最悪の就職難の状況で職場をクビになったこと。そして3人が自分とは対局の立場にいるエリートサラリーマンであることも要因だっただろうか。
殺害後に駅から逃走し、彼は駆け込んだトイレで即座に落ち着きを取り戻し、舞を踊る。抑圧された怒りと苦しみを、初めて他者に暴力として開放したことで、湧き出る感情を抑えきれずに芸術として表現したのだった。
自分を抑圧する原因となった母親に吹き込まれた虚構の崩壊と悲しい真実、そして息子の代わりに愛されることまで夢見ていた、目標であり敬愛するマーレからの否定、幻覚の発覚。さらに警察の捜査も迫り、これまでの自己を破壊するような出来事の連続に対応するように、いわば生まれ変わった自分を認め、助けてくれる、街中で増加するピエロのマスク。ジョーカーを生み出すには十分な環境が揃っていた。
殺人者からヒーローへ、抑圧から開放へ、排除から受容へ、悲劇から喜劇へ、この映画は様々な価値が一人の人間の体験によってリアルに転換されていく。
この映画が人々の心を打つのは、私達が社会から受容される為に一定の人格を期待され、感情を押し殺し、自分を理解されず、自分であることを許されない、ということを二極化した経済格差の中で日々否応なく体験しているからではないだろうか。そしてその抑圧された苦しみと怒りの開放が、燃え盛るゴッサムの中、悪のかたちで肯定されるのだ。過度な残酷さや性表現もないのに、年齢制限がつけられる理由である。
今回の感想では、あえてラストシーンの考察は含めなかった。それが正しければ映画を丸ごと動かす大きな装置であるが、そうであるが故に、物語の重要性を低下させてしまうように思えたからだ。
これは地獄から生還する幸せの物語だ
暗い、重い、悲惨すぎる… 映画「ジョーカー」の感想によく出てくる言葉です。
まあ確かに。映画全編を覆うトーンから、そう感じるのはむべなるかなです。しかし私にはこの映画、絶望の底から自由と解放を勝ち取る、一人の男の覚醒を描いたドラマに映りました。ですから、悪の道への“転落”ではなく“昇華”の物語であり、ならばこそ主人公は次の境地に到ったのだと思います。
「人生は悲劇だと思ってた。だが今わかった、僕の人生は喜劇だ」
劇中、何が現実で何が妄想か判然としない手法で物語が進みます。しかし、彼がアーカム州立病院で自身の出生の真実を知るあたりから、しだいに“虚構”から“リアル”な存在に固まってきたように感じます。
ザジー・ビーツ演じるシングルマザー、ソフィーが殺されたのか何もなかったのか議論があるようですが、追及は不毛です。映画監督が意図的に示さない選択をしたということ。つまりどちらでも自由に想像してくれということです。(私は“殺られた”と思いました。)
デ・ニーロ演じるマレー・フランクリンをLIVEで殺害するシーン、及び深夜のゴッサムシティーでパトカーのボンネットの上に立ち上がり暴徒たちを見下ろすクライマックスは、映画のたたみかけとしては文句なしのな展開でした。絵が美しい。内容は暗く、凄惨ですが、美しい映像の連続でした。
ラストは精神病院です。彼は面談で例によって笑い出し、それを問い質す精神分析官に「ジョークを思いついた。でも君には理解出来ない」と言います。その笑いは、もう完全に精神疾患のそれではなく、確信的な笑いです。かつての彼は、顔は笑っていても心の中は苦しみに満ちていました。しかし今は心の底から笑っています。ものすごブラックに。もうすっかり「アーサー」ではなく「ジョーカー」です。
そして唐突に血の足跡を残しながら逃亡するラストシーンへつながります。 その走り方に暗さはありません。ユーモラスですらあります。この展開こそがジョークの中身だったのでしょうか。精神分析官は何の罪もないのに殺られちゃったんですかね。殺っちゃう対象は無差別の危険なヴィランになってます。
この映画を観て暗鬱になる人が多いようですが、私は楽しめました。主人公に共感も同情もしませんでしたが、カタルシスを味わうことはできました。同時に切なさも。これはジョーカーの辿りついた、極めて異質の“幸せ映画”です。
これからの正義の話をしよう(喜劇と悲劇は抱き合わせ)
最初にネタバレしておく。
だから、まだ未視聴の人は、この先を読むのは鑑賞後にして欲しい。
最大のネタバレは、おそらく「この作品はDCバットマンのジョーカーとは関係がない」
という事だ。(監督自身が仄めかしているから本当だろう)
もちろん、そういう作品には見えないように作ってある。
いかにも「バットマンの名ヴィランであるジョーカーが、いかにして生まれたのか?その誕生秘話である」と「見せかける」ように構成されている。
だからすっかりそうだと信じて、そのまま鑑賞を終える人も多いのではなかろうか?
「woke」或いは「stay woke」と言えば「社会的に重要な事実や問題(とりわけ人種間の差別や平等に関するもの)を意識していたり、積極的に気にかけたりしている状態」を指す。
それは非常に価値ある事だと思うし、私自身そうありたいと思う。
しかし「woke culture」などの表現で使われる場合には少々ニュアンスが異ってくる。「本質を逸脱した過剰な正義感」として揶揄する意味合いが強まると感じる。
過剰過ぎる「言葉狩り」や古い時代の名作に対して「差別に抵触する不適切な描写」を理由に改変したり絶版としたりする事もその一つだし、昨今の「コロナ自粛警察」も「過剰な正義感」の悪しき発露だろう。
行き過ぎた正義は「人間誰しもが持つ弱さや愚かさ」への寛容さを奪ってしまう。「意見や見解の多様性」も失われ、実現不可能な理想的正義に縛られて、結局は他者を傷つける。
本作は「喜劇」という文化を抑圧&衰退させかねない「過剰な正義感」に対するフィリップス監督のアンチテーゼだ。
「コメディ映画を作り、それをひっくり返す」
「世界が正義と妄信するものをひっくり返す」
「喜劇に見えるものの視点をひっくり返す手法で悲劇を創作する」
この重要な任務を完遂してくれそうなキャラクターとして、ジョーカーに白羽の矢を立てたってわけだ。
「もしもDCのバットマンとジョーカーが実在すると仮定し、彼らのユニバースを「現実のノンフィクション」だ」とするならば、本作は「ジョーカーの事実に着想を得た、事実ベースのフィクション作品」だと捉えるのがわかりやすい。(少しもわかりやすくないか?(苦笑))
だから、オープニングにDCのロゴはない。エンドロールの全クレジットが終わってようやく申し訳程度に出るだけだ。
キャラクターは借りたが、本作のベースになっているのはアメコミではない。
ヴィクトル・ユーゴー原作の1928年サイレント映画「笑ふ男」が参照作品だ。
また「フレンチ・コネクション(71年)」「狼よさらば(74年)」「タクシードライバー(76年)」「キング・オブ・コメディ(82年)」のエッセンスを盛り込んでいる事は監督が明言している。
アーサーは言う。
「自分の人生は悲劇だと思っていた。 でも、今わかった。喜劇だってね」
これはチャップリンの言葉を踏まえてだろう。
劇中で流れる「モダンタイムス」は、マジョリティが正常でマイノリティが異常だとする価値観をひっくり返す。
「ジョーカー」も「正義と悪」「正常と異常」の価値観をひっくり返す事に、監督の情熱は傾注されているように思われる。
困ったのは、作品の一体どこからどこまでが「妄想」であるのか、監督が種明かししてくれない事だ。
50%という事はない。60%?80%?90%?
いや、もしかしたら99%すら「妄想」なのかもしれないのだ!
監督は「最後にアーカム州立病院の部屋で見せる、あのシーンだけが、彼が純粋に笑っている唯一の場面」だと述べている。
また、ロバート・デニーロ演じるマレーはアーサーに「オチはなんだ?」と何度も詰め寄る。つまり喜劇として作られているはずの「ジョーカー」という本作も「オチ」があるのだ、と仄めかしていると推測出来る。
この映画には「妄想シーン」である事を示唆する仕掛けが散りばめられている。
例えば
「作中の時計は常に11:11だ」
「利き手が変わる」
「機関が変わっても担当カウンセラーが同じ」
「地下鉄での発砲可能数が多すぎる」
などは明らかにハッキリとおかしい。
また、非常に気にかかるのが
「作中『アーサー』から『ジョーカー』に移る時、髪が『黒』から『緑』になるが、ラストシーンの人物は『髪は黒。凶行はジョーカー的』という矛盾を孕む点だ。
監督の言う通り「ラストシーンだけが本当の笑い」だというのならば、私達観客が「アーサーの現実」だと信じ込まされていたすべてのシーンすら「本当の主人公の妄想」という見方も可能なのだ!
(「アーサーの妄想オチ」とはまったく意味合いが違う!この映画の非常に秀逸な点の1つだろう)
しかも「ジョーカーとなったあとのアーサーである」と仮定可能な余地まで残されている・・・。まったくもう!
観客に「この映画はバットマンのヴィラン、ジョーカーの誕生秘話ですよ〜」と心の底から信じ込ませ、それが限りなく「真実」であるかのように演出しながら、実は「すべて虚構」であるという演出も随所に散りばめている。
喜劇をひっくり返し、悲劇をひっくり返し、真実と虚構、現実と妄想をひっくり返す。
なるほど、喜劇役者は「騙されている観客」の方であり、笑っているのはアーサーでもジョーカーでも無い「真の主人公」だという事か。
「コメディ作って文句言われるなら、コメディひっくり返して悲劇にすれば問題ないんだろう?(気付かれないようにそれもひっくり返して喜劇に仕上げてやるけどね)」って辺りが本音かな?
フィリップス監督、良かったね。随分と
「釣れた」ね?
世界中から発信されるレビューを読んで、監督はどんな笑いを浮かべているのだろう?
「正義への妄信」「真実だと思うものへの妄信」を問題提起する代わりに、随分と手の込んだブラックコメディに仕立てたものじゃないか。
嫌いではないが、私達は更に建設的に「これからの正義の話」でもしてみようではないか。
平凡な男の話
演技、音楽、演出。全てが上質で、掛け値なしに芸術的であったと思います。
ただ、説明文にあるような、悪のカリスマを期待して観に行くと肩透かしを受けるかなと。
だって平凡な男の話なんですよ。平凡な男に不幸な境遇が積み重なり遂に爆発。彼にとってそれが殺人だっただけで、例えばそれがやけ食いやテレビゲーム、その他の趣味だったら、世にありふれた良くある話じゃないですか。わざわざ映画で観る程ではないかと。
また、彼の起こした事件が妄想か現実か分からないような演出が評価されているようですが、所謂夢オチに近しいものを感じ、乗り切れません。
予備知識無しで観るには些か物足りない映画と感じました。
ジャンルの垣根を取り払いに来ている
ジョーカーの名前を借りたドラマ映画。
DCコミックスにも関わらず、過去のスコセッシ作品「タクシードライバー」を思わせるカットが多い。古き良き映画を踏襲しようとしている。
なのに最も映画らしく見えるのは、ジョーカーのオリジナル。厳しい世の中を耐えて生きてきたアーサーが、一線を越えてしまった後の階段でのダンスシーン。
多くのストレスや葛藤から解き放たれて、一段一段降りていく。バイオレンスなのに美しい。
これがヒットした背景はジョーカーのカリスマ性以外に、昨今の社会情勢が関係しているのだとすれば、アメリカは相当病んでいる、と思った。
恥ずかしくも真面目に取り組む序盤、独特な笑い声、序盤から終盤にかけてのダンスが意味する内容の変化、激ヤセなどなど、ホアキン・フェニックスの演技力が目立った。
ものすごい感情
架空の舞台ではあるが、
追い込まれ、這い上がれない人に、
生じてしまう感情。
もちろん理解はできないが、
やや同情してしまう面もあり、
アメリカの闇を強調して表現しているのか、
と感じた。
どこまで現実で、どこまで妄想なのか…
デニーロまであっさりやっちゃうとは恐れ入った
遅ればせながらスターチャンネルで鑑賞
彼の妄想?
ラスト、パトカーで護送される途中に暴徒化したピエロたちに救出され、彼が悪のヒーローに祭り上げられる。「ジョーカー」誕生の秘話である。そしてピエロの一人がウェイン夫婦を射殺し、息子のブルース・ウェイン(後にバットマンとなる)だけが生き残る。
ところがその後、突然に精神病棟に収監されたアーサーとカウンセラーのシーンとなる。今までの事は妄想だったということ?直前のシーンとこのシーンに至るまでの説明が全くないので、色々な解釈ができてしまう。
<私見:妄想説>
悪のヒーローに祭り上げられた後に、結局警察につかまって精神病棟に収監されたと考えることもできる。
ただ悪のヒーローに祭り上げられて、「ジョーカー」誕生と言うところで終わった方が、映画的には良いと思うので、わざわざ精神病棟の部分をラストに挿入する必然性はなかったはず。また、直前までは髪の毛が緑色だったのに、精神病棟のシーンでは急に黒に変わっていたのも不自然だ。なので、やはり妄想であるということだったと思う。
そう考えると、どこから妄想だったのか?どこからと言うよりも、部分的に妄想であったと言うことも考えられる。例えば同じアパートの黒人の女性と付き合っていたことが妄想だったことが一番わかりやすい。ただ、それ以外の部分についてはいまいちはっきりしない。
結局最初から妄想で、現実はラストの精神病棟だけだったのではないだろうか。そう考えると、カウンセラーを殺して精神病棟を逃げ出し、妄想の「アーサー」から現実のあのお馴染みの「ジョーカー」になっていったのであろう。
つまり「ジョーカー」の最初の殺人が、この黒人のカウンセラーになる。今までの殺人(妄想の中で)は、すべて彼が憎しみを持った相手であったのに対して、このカウンセラーは特に憎しみはなかったはずである。 それなのに、殺してしまったと言うところが「ジョーカー」らしくないか。また、このカウンセラーの殺人のみ、殺人シーンがないのである。この2点で、現実の殺人と妄想での殺人を線引きをしていたのではないか。
<タクシー・ドライバーへのオマージュ>
所々にタクシー・ドライバーへのオマージュを感じる。そもそも主人公のセリフ回しが、タクシー・ドライバーのトラヴィス(ロバート・デニーロ)に似ているし、ロバート・デニーロ自身も出演している。
同じアパートに住む黒人の女性が、ピストルに似せた指で頭を撃つ仕草をして、主人公も真似をするシーンがあるが、タクシー・ドライバーにも同様のシーンがあった。
<印象に残った曲:send in the clowns>
もちろん 「ホワイト・ルーム」やチャップリンの「スマイル」(モダン・タイムスで使われた曲)も良かったが、この曲が特に気にいっている。clownはピエロのことで、最初の3人組が殺される前に、3人組の1人がこの曲を歌いながらピエロのメーキャップのアーサーに暴行加えようとした。そしてこの曲はもう一度、エンドロールでシナトラが歌った曲が流れる。
<印象に残ったセリフ>
(アーサーのジョーク)
I just hope my death makes more sense(cents) than my life .
私の死が私の人生より意味のあることを望む。
(私の死が私の一生より稼げることを望む)
<その他>
ジョーカー役のホアキン・フェニックスは、あのリバー・フェニックスの弟だったということを最近知った。
この作品がヒットした背景が重要
言わずと知れたバットマンの悪役「ジョーカー」 。
このジョーカーの誕生譚。
監督はトッド・フィリップス、主演はホアキン・フェニックス。
以前、同じくジョーカーが主役の映画「ダークナイト」を観たことがあった。
作品公開後に夭折してしまったヒース・レジャー演じるジョーカーも素晴らしい演技だったけど、今回のホアキン・フェニックス演じるジョーカーは、それに負けず劣らず素晴らしい。
特に、あの笑い方はなかなかマネできない。
引き笑いのような声は、笑っているようにも泣いているようにも聞こえる。
まさに怪演。
この映画が評価高いのも納得である。
さて、ストーリーについてだが、話としては結構単純。
先天的に笑い病とも言える病気に悩まされる主人公のアーサー・フレック(ジョーカー)が、売れないコメディアンを続けながらも慎ましく生きていたところ、様々な不幸が重なり、闇に落ちていく。
この不幸がまた1つ1つ重い。
最初に不良に襲われるのも気の毒としか言えないし、電車内で銃を使って3人を射殺するのもある意味正当防衛とも言える。しかし、殺人を犯してから、徐々に不幸度が上がっていく。出生の秘密を知り、さらに恋人だと思ってた人との関係性が実は妄想だとわかり、さらに自分の舞台がTVで流れ晒しものになってしまう。
最初、アーサーは社会(法)の枠に何とか納まろうともがいていた。
しかし、一度殺人を犯してから、徐々に狂気が増していく。そして、最後は社会の外へ飛び出し、心が解放されてジョーカーとなる。ジョーカーとなった後に、階段で踊っている姿はまさに解き放たれた姿そのもの。
そして、ラストへつながる。
前作のダークナイトでも感じたが、バットマンシリーズの登場人物は、アベンジャーズのような特殊能力を持ったヒーローではない。バットマンも結構普通の人間だし、ジョーカーも今作品で最後に車の事故でかなりダメージ受けてた。
おそらく、この設定が良いのだろう。
空飛んだり、敵をなぎ倒すようなヒーローものだと、ここまで悪役に共感はできない。1人のちっぽけな人間が、普通の人が感じる苦悩を通じて悪に染まっていくからこそ、その悪の姿に共鳴する。
そして、舞台となるゴッサムシティは、現在の「格差問題」を象徴している。
アメリカはそれほど詳しくないが、舞台は1970年代のニューヨークのサウスブロンクスあたりがゴッサムシティのモデルではないだろうか?
当時は相当な貧困街で、犯罪も多発していた超危険地域だったらしい。
映画を観てる人は、裕福な人が没落して、悪という形にしろ貧しい人が台頭していく姿にカタルシスを覚える。現在のアメリカ・・いや、日本含めて全世界でヒットするわけだ。それくらい全世界で格差が広がっている。私も、最初はいたたまれなくて観てるの辛かったけど、途中からだんだんとジョーカーに同調するようになったもんな。。。
それに、ジョーカー=「悪」と簡単な図式に落とし込むのは正しくない。
私はバットマンシリーズはダークナイト以外は観ていないので、鑑賞中は全く気付かず映画観終わった後で知ったのだが、最後暴徒に殺されるトーマス・ウェインの息子であるブルース・ウェインが、後のバットマンらしい。
最後のシーンでこの息子がやけにクローズアップされてたので「何でだろ?」と思ってたけど、なるほど、そういう理由だったのか。
ただ、このブルース・ウェインは、明らかにバットマン=「善」という描き方をされていない。これは「ダークナイト」に繋がる伏線なのだろうか?
つまり、この「ジョーカー」は「ダークナイト」と一緒に観て完結する作品なのだろう。
いずれにせよ、久々に良いハリウッド映画を観た。
我々の社会を維持するためには、ジョーカーは「悪」である必要がある。
しかし、そんな「建前」が通用しないほど、世の中に不満が溜まってきている。
その1つの現象が、この映画「ジョーカー」のヒットに隠されている。
単純な「善悪」の話ではなく、不幸で狂気的な男の誕生秘話ってだけでもない。評価が高いのは、ホアキン・フェニックスの怪演だけが理由ではないはずだ。
その背景をしっかり読み解くべきだ。
一回見れば良いかなぁ
バットマン自体、実写映画は観たことが無く、昔のアニメで観た程度なので、ジョーカーがバットマンシリーズの悪役という事しか知らずの視聴。その方が先入観無くて良いかなと思ったけど、どうも後付け設定の様で。
ジョーカーは精神に障害。被害妄想と幻覚を繰り返す。生い立ち自体は可哀想ではあるんだけど、全然感情移入は出来ない。
世間的には評価は高いらしいけど・・・・。ジョーカーに拘らず、一人の名も無き異常者の物語として、作った方が良かったんじゃないかなぁ。
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