ジョーカーのレビュー・感想・評価
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悪いのは監督か、ホアキンか、JOKERか。
ポップでもクールでもないジョーカーがここに誕生した。
ノーランのバットマンでジョーカーを認知した私には、この作品をどう評価すべきか分からない。
まず、ジョーカーを美化しすぎである。病気だし、障害のある貧困層が必ずしもああやって屈折していくわけではないだろう。どんなに酷い境遇だって強く生きることができたはず。それなのに、その境遇を理由に、社会の悪になるのも仕方ない、社会が悪いんだという描き方をされても、こちらとしてはふざけるなである。ああいうやつを持ち上げる市民がいるのも世相なのだろうか。
また、本来のジョーカーのキャラとはかけ離れた(ようにみえる)キャラクターにも納得がいかない。何事も俯瞰していて計算高く、それでいて下品ではない私の知っているジョーカーのカリスマ性が全くもって現れないのだ。一人で銃をもって芝居するのは、タクシードライバーのトラヴィス?自ら髪を染めたりするのも気に食わない。
ティムバートンの描いたジョーカーはアメコミからそのまま出てきたようなポップさが魅力だった。クリストファー・ノーランの描いたジョーカーは悪と善の間で我々を翻弄する生き様が魅力だった。今回のジョーカーの魅力はなんだろう。弱いものには優しいところ?強いものには理不尽に食って掛かるところ?彼が守ったのはしょせん自分のプライドだけのように見える。結局は自分が弱いものと認められるのが嫌で、必要以上に自分を強くみせ、自分の妄想を実現させる勇気はなく、自分の立場を危うくする邪魔者はぶち殺す、そんな身勝手な人間でしかない。そんな自分にもあるレベルの感情を持たぬのがジョーカーだ。私の理解の範疇を超えたところで悪に仕えるのが、ジョーカーだ。
この映画で最も要らなかったシーンは、同じ階に住むアフリカ系女性との日々が嘘だったと発覚するシーン。回想シーンで彼女の姿が消されている映像が流れるがあれは本当にいらなかった。あのシーンが無くても十分にわかるようにできていたし、急に現実に戻された感覚と、さあここで驚きなさい、と言われている感覚に陥った。
この先、ジョーカーと同じ障害や虐待、病気や貧困に苦しむ人々が彼と同じ生き方を見つけないように願うばかりだ。
追記:
最近ホアキンがルーニーマーラちゃんと婚約して嫉妬していたのは事実です。そのため映画が始まった途端から彼に嫌悪感を抱いていたのも事実です。さらに彼の汚さが露出する度に幻滅し、ルーニーマーラちゃんを思い出してしまったのも事実です。不純な鑑賞をしてしまい不本意であります。
しかしホアキンのダンスと表情は圧巻でありました。歩き方から笑い方まで非常に研究されているなと。ピエロになった姿なんて本当にホアキンなのか分からないくらいです。
さらに追記:
随分とこの作品を責める書き方をしたが、つまるところ私は非常に傷ついた。
アーサーがジョーカーになっていく過程で、私は仲間がダークサイドに墜ちてしまうその瞬間をみた気がした。仲間が傷付けられ、社会の隅に追いやられ、ついには居場所をなくし、そんな仲間をみたくなかった。鑑賞中はずっと、彼が何かしでかすまいかと心配でならなかった。何もするなとずっと願っていた。耐えろ耐えろ耐えろと。さらに、笑うすべ、生きるすべとして悪を発見してしまった彼に絶望した。勝てなかったと思った。笑いの力は社会を変えられないし、彼を救えなかった。その事実が示されたとき私はむしろ、この映画に反抗的になっていた。
さらに備忘録:
社会のマイノリティであることよりも苦しいのは、こんな社会でも肯定して生きていかなきゃいけないこと。受け入れて生きていくこと。そこまで描ききれていないと思う。
キリングジョークを読んで:
ジョーカーの本質を知りたくて、キリングジョーク完全版(アランムーア著)を読んでみた。なるほど、わかったことがある。
おそらく、ジョーカーの孤独やら悲劇やらを語るのに、バットマンは欠かせないのでは?正には負が、喜びには悲しみが、正義には悪がなければ、その存在さえも際立たないのでは?というか、在るからこそその間で人は揺れて、学んでゆくわけだと思ったりする。だから、ジョーカー単品でのゴールというのは、本来なくてこの映画はそこ自体が不正解というか、映画単独で成り立っていないように思えてしまうんだよなあ。もうどうすればいいかわからんくらいの悪への対処って、もはや社会には出来ないと思う。今回のジョーカーだって、社会には救えなかったし、救いの場がなかったし。だから、バットマンという絶対的正義がいて、そんなバットマンをも苦しめる悪だから、ジョーカーはこの世界で輝くのではないかとおもうんです。
ジョーカーの狂気があなたを引きずり込む。
非常にクオリティの高い映画だった。
どのレビューを見ても評価は高く、それに値するだけのものであったと思う。
(実際私も高評価をつけた。)
それだけに、このレビューは慎重に進めなければならない。
まず最初に、「バットマン」に対する私の姿勢を示しておくと、
好きだけどそんなに詳しくはない。
これが正直なところです。
もちろん1990年頃のティム・バートン監督バットマンは何度も見たし、いわゆるトリロジーと呼ばれる3部作も大好き。けれど、コミックとかテレビドラマバージョンにはノータッチなので、元がどうとか言う話をされると
あ、そうなんだ。
ということになる。笑
最も好きなバッドマン映画は多くの人がそうであるように、クリストファー・ノーラン監督の「ダークナイト」で、ヒース・レジャーのジョーカーが一番魅力的だと思う。つまり、ごくごく一般的かつ"にわか"らしい立場にいる。このレビューを見て、「にわか分かってねぇわ」と感じるか「ジョーカーをそう受け取ってる人もいるのか」と寛大に捉えて頂けるかは、皆さんに委ねたい。
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ジョーカーの誕生を描くのは非常に難しい作業だったはず。なぜなら、過去に映像化されたキャラクター像が決して統一されていないから。
そもそもジョーカーの正体からして設定が違うし、細かいところを言えば口の傷の有無、肌の白さの原因、あの狂気的な性格でさえ母親が関係しているとか恋人がそうさせたとか、今作が公開される前からファンの間では度々憶測と議論を呼んでいた。
この映画を観る事でその辺りの一つの回答が得られると期待したファンも少なくないだろう。結果から言えば、どんな回答も得られなかった。
いや、映画の中で答えは示されている。しかし、映画観賞後も「こうだ!」とは不思議と言い切れないのである。
一番分かりやすい例が、あの狂気的な性格だ。
あれに母親の存在が絡んでいた事は映画を見れば明らかなのだが、逆に、
「じゃあ彼は母親の影響であぁなったんだね」
と、誰かに尋ねられた場合、きっと多くの人が
「まぁ、それも一つの理由ではあると思うけど、、、」
位にしか返せないのではないだろうか。
映画では度々、キャラクターと出来事とが非常に簡潔に結び付けられる。
この出来事があったからこのキャラはこういう価値観を持った、とか。
この怒りはあの出来事があったから。
あの一件でこの人は恋をした。
この行動はあの時の行動が伏線なんだ。
といった具合に。
ところが現実に置き換えて考えてみると、感情とか価値観、行動はあらゆる要素が互いに作用しあって生まれるし育まれるものだと思う。
トッド監督もこの点にはかなり気を遣ったようで、「JOKER」ではその部分が見事なまでに表現されていた。だから明確な答えは得られず「それも一つの理由ではある」という言い方しかできないのだろう。
"ジョーカーの狂気は彼が元々持っていたもの"
この描き方が本当に素晴らしく、何かがあって狂気が生まれたのではなく、障害(それすらジョークだったのかもしれないが)の裏に隠れた生来の狂気に素直になっていく。122分を通じて描かれたのはそこで、程度はあれど誰もが共感(或いは同情)できるし、危険だが感化されるのは自然なことに感じる。見事な脚本だ。
「ダークナイト」の一幕で
"別に俺は計算高くない。行き当たりばったりだ。そっちのが楽しいだろう?"
そんな事を言っていたジョーカーがふと浮かんだ。
気になったところといえば
・ジョーカーとブルースの変な年齢のギャップ
・ジョーカーというキャラクター像の微妙なズレ
・オマージュの多さ
2人の年齢は詳しく明かされていなかったはずだが、今作では少なく見積もっても17.8の年齢差があるように見える。これまでの作品でそこまで年が離れている印象は受けなかったので、微妙に違和感があった。
ジョーカーは"悪のカリスマ"とよく形容されるが、今作生まれたジョーカーは最終的に"悪の親玉"にはなれても"カリスマ"ではなかったように感じる。
別に悪事に対してスマートではないし、なんだったら最後の一幕も"のし上がった"というより"担ぎ上げられた"という方がしっくりくる。車上で喝采を浴びる彼が、担がれたまま調子に乗って悪事を働けばすぐに失墜し、死を見ることになるだろうなという予感が働く。
カリスマとは程遠いキャラクター像だ。
また、拳銃を多用してたのも気になった。
彼と言えばナイフや爆弾、毒薬というイメージがある。ところが今作では拳銃の力に魅入られ、フランクリンを殺すのにも拳銃を使用したし、手で銃を作って自らの頭に突きつけるシーンも繰り返された。何より、彼の初めての殺しが拳銃によるものなのもキャラクターとして微妙に思う。
映画冒頭、拳銃を持たないアーサーが悪ガキ相手に袋叩きにされる場面があるが、ここで彼は抵抗しない。
しかし、電車内でエリートに絡まれた時には拳銃を携帯していたので彼らを射殺する。
この2つのシーンの拳銃の有無は逆だった方が、よりジョーカーらしいのではないかと思う。
序盤の、精神がまだ安定してる時には拳銃を持っていようと抵抗せず
中盤、狂気に飲み込まれ始めると拳銃を持っていなくても素手で反撃し、相手を殴り殺すか刺し殺す。
という場面の比較をした方が、彼のキャラクター像を想像しやすい。
こういう今までのジョーカー像との微妙なズレが目につくシーンが多々あった。
しかし、こここそが、例の、"回答を得られなかったのに評価が高い理由"だとも言えるだろう。つまり、続きを予感させる。笑
映画が製作されるかどうかは全くの別問題として、自らの狂気に浸り悪に染まったアーサーがジョーカーに目覚めたのが今作なら、ジョーカーが真にカリスマとなる物語がこの後にあっても不思議ではない。
その道のりの中に今回あやふやになった解答が潜んでいる気がしてならないのは確かだ。
最後に、オマージュの多さについて。
今作のメガホンをとったトッド・フィリップス監督は、コメディ映画の製作に秀でた人物で、スリラー・クライムサスペンスの気分がある作品を手掛けるのは今回が初となる。
それ故、製作するにあたり、彼自身、1970〜80年代のあらゆる作品を参考にしたと語っている。
先述した、手を拳銃の形にして自らの頭に突きつけるシーンや電車内での射殺のシーン、様々な場面でのカメラワーク、フランクリンの番組セットにピエロメイクの意味の持たせ方などはスコセッシ監督の「タクシードライバー」「キングオブコメディ」を間違いなく意識してるし、音楽では喜劇王チャップリンとアーサーとをクロスオーバーさせるように「スマイル」が流れる。時代の空気感の演出も70〜80年代の映画の影響を色濃く感じた。
往年の名作をオマージュする事は決して悪いことではないし、それが粋だなと思うシーンも多々あった。
しかし、今作では量の意味であまりにやり過ぎたというか、監督の「こういう仕事は初めてだけど、俺はこんなに作品を知ってるぜ」とでも言うような、「コメディ以外にも作れるの?」という民衆の疑問に対する言い訳というか、それを言わせないための先回りというか。そういう気概を感じてしまって、終盤にオマージュが出てくるともはや少し興醒めだった。
ホアキンの素晴らしい演技と、台詞がない方がむしろキャラクターを表現しうる肉体。
観客の内なる狂気をも刺激する脚本。
これらがなければ、"どのシーンもなんか見たことある"という下らなさと退屈さを纏ってしまっただろう。
素晴らしい演技をする俳優達と素晴らしい脚本家が畑違いの監督の元に集まった。
強い言い方をすればそういう後味の悪さが残る映画でもあった。
ピエロが石段を下りながら踊るシーンはアート!
DCコミックス「バットマン」に登場する悪のカリスマ、ジョーカーが誕生するまでの姿を描いた作品。第76回2019年ベネチア国際映画祭で最優秀作、金獅子賞を受賞。公開早々、主演のホアキン デニックスが今年のアカデミー賞男優最優秀賞に選考されること確実と予想されている。
激しい暴力シーンのために15歳以上でなければ見られない。映画の内容が2012年にコロラド州オーロラで、「バットマン リターン」上映中に乱射事件が起き12人の死亡者を出したことを思い起こす、として、上映拒否する映画館が出現したり、クリスチャン団体が映画の公開に反対するなどの社会現象が起きている。
ストーリーは
1950年代と思われるニューヨーク、というか、1980年代ゴッサムシテイー。
アーサーは、コメデイアンになることにあこがれて、いまは大道芸人としてエージェントに雇われている。身体障害のある母親を介護しながら、しょぼいアパートで暮らしている。子供の時から母親に、いつも笑顔でいなさいと言い聞かされてきたとおりに笑顔でいて、人を笑わせて喜ばせたいと思ってきた。しかし感情が高まると、笑い出してそれを止めることができなくなるという人格障害を伴った精神病を病んでいて、人間関係をうまく継続できない。またそのため薬を飲まなければならないが、生活が苦しく、薬代の捻出に苦労している。家に帰れば母親のために食事を作り、入浴させ、一緒にテレビを見ることが唯一の娯楽だ。二人ともコメデイアンだったマレー フランクリンのショーを楽しみにしてる。アーサーは以前、マレーに会って励ましてもらったことがあって、それが自慢でならない。
ピエロに扮して宣伝マンの仕事をしていた時に、悪ガキに絡まれてひどい目にあったことから、アーサーは、職場の同僚から護身用の銃を借りる。しかし小児病棟でピエロ訪問のショーで、うかつにもアーサーは持っていた銃を子供たちの前で落としてしまい、それを理由に職場を解雇される。気落ちしたまま地下鉄に乗って帰宅途中、3人の男達が酔って向かい側の座席に座っている女性をからかい始めた。それを見ていたアーサーは高まる緊張を抑えられず笑いだす。笑われて怒った男達は、他に電車の乗客が居ないことを良い事に、アーサーに殴る蹴るの激しい攻撃をかけてきた。アーサーはぶん殴られて足蹴にされされて、怒りを抑えきれず遂に3人を銃で撃ち殺して逃げ帰る。翌日のニュースによると、3人の男達はウェイン財閥のエリート証券マンだった。社長でゴッサムシテイー一番の実力者トーマス ウェインは、自分の会社の将来を約束されていた社員が殺されたことで怒って、記者会見で犯人を一刻も早く捉えることに協力するよう市民に呼び掛けた。
家に帰るとアーサーの母親がトーマス ウェインに手紙を書いていた。母親はトーマス ウェインの恋人だったことがある。アーサーの父親はトーマス ウェインだと信じている。アーサーは、ウェインの会社に忍び込み、ウェインに会って、母親の名前を言うとウェインは、「その女は精神病だ。」と言って相手にしない。ウェインの屋敷にまで行って、庭で遊んでいたトーマスの息子、ブルースに塀越しに話しかけるが、執事のアルフレッドに見つかって追い返される。
警察が訪ねて来て、母親のペニーが発作を起こして病院に担ぎ込まれる。アーサーは病院で、病歴室に行って母親のファイルを盗み出す。そこには母親がアルコール中毒で精神病を患い、同じような中毒者の男と暮らしていたが、孤児を養子にした。しかし養父が養子のアーサーに暴力を奮っていたために、頭の傷から子供も精神病を発病したという経過が書かれていた。今まで母親に言われた通りに何時も笑顔でいて、人を喜ばせようと努力してきたアーサーだったが、母親と自分は血がつながっていなかった。トーマス ウェインも父親ではなくて、自分は孤児だったという事実を突きつけられて、衝撃を受ける。
アーサーは自分が立っていた足場を失った。もう歯止めが効かない。母親を殺し、心配して訪ねて来てくれた昔の同僚を惨殺し、マレー フランクリンのライブショーに出かける。テレビカメラの前で、3人の証券マンを、ジョークで殺したと告白し、マレー フランクリンを撃ち殺す。アーサーは逮捕されるが警察による護送中、アーサーのテレビ生中継にインスパイヤされた暴徒によって救出される。ピエロのお面をかぶった暴徒たちで街は略奪、殺人、強盗の無法地帯となり混乱を極めていた。街は火の海で警察は手も足も出ない。アーサーは転覆した車の上に立ち、英雄として狂喜乱舞いする。というお話。
ジョーカーが恵まれない酒と暴力の中で育てられた孤児で、精神を患い不毛な環境から逃れられずにいたために暴力で、はねかえさざるを得なかった、というジョーカーのバックグラウンドを描いている。本来だったら母親思いの心の優しい青年が、母親の望むようにいつも笑顔を絶やさず人に笑いを届けようと望んで生きて来た。孤独な時に、ベッドを共にする女性も同じアパートに住んでいる。そんなどこにでも居そうな青年が、自分が孤児だったと分かっただけで、壊れてしまうことをに理解する人も、出来ない人も居るだろう。
アーサーは子供の時の頭部外傷がもとで人格障害を持つ精神病患者になって、興奮すると笑いの発作が出てしまい自力ではそれを止められない。面白いから笑うのではなくて、笑いは彼にとっては発作であって、横隔膜のケイレンにすぎない。緊張するとてんかん発作を起こすてんかん患者と同様に発作をコントロールすることができない。だから人間関係をスムーズに続けるのは難しいし、定職について長く勤めることが困難で低所得のため薬代にも事欠く。年を取り精神障害と身体障害を持つ母親とアーサーとの生活では共倒れ必須だ。社会福祉の貧しい社会では生きていけない。
映画の最後のシーン。狂喜、乱舞い、放火。略奪、警察署襲撃、殺人といった混乱の一夜のあと、逮捕されたアーサーは警察病院で精神科の医師に向かって「いま新しいジョークを思いついた。」けれど「あなたにはわかってもらえない。」と言う。その次のシーンは、血を吸った靴の足跡を残しながら部屋を去るアーサーの後ろ姿で映画が終わる。もう彼にとって人殺しはコメデイアンとしてのジョークでしかなくなってしまったのだ。
一人殺せば殺人犯、沢山殺せば英雄、全部殺せば神様だ、と映画の中で言わせたのはチャーリーチャップリンだが、アーサーは英雄をめざして一直線に走っている。
当時のブロードウェイの様子が出てくる。劇場や映画館にが集まる人々は、賑やかで華やかだ。チャップリンの映画が上映されていて、着飾った夫婦や正装した年配者で会場は上品な笑いに満ちている。チャップリンの「モダンタイムス」の画面に彼が作曲した「スマイル」ジミー デユランが「笑っていよう。今はつらくても明るい明日が必ず来る」と歌っている。
どうしてもこの映画を観ていて、クリストファーノーランの「バットマン」と比べてしまう。
クルストファ―ノ―ランの3部作は、「バットマン ビギンズ」2005、「ダークナイト」2008、「ダークナイトライジング」2012の3本を言う。クリスチャン ベールがバットマン、ブルースウェインを演じ、執事アルフレッドをマイケル ケインが演じた。ヒース レジャーのジョーカーが素晴らしかった。製作費用の莫大さ、撮影のために世界中を舞台にし、スケールの大きさも出演俳優陣の豪華さも他のどの映画にも勝てない贅沢な映画だった。
3作目の「ダークナイト ライジング」プレミア上映中、米国コロラド州オーロラの映画館で、24歳の男が銃を乱射して映画を観ていた12人の観客が死亡、負傷者58人を数えた。殺人者はガスマスク、防弾チョッキにヘルメットをかぶり、拳銃2丁、ライフル、ショットガンで武装し、催涙ガスを2本投げガスが立ち込める中を逃げ惑う観客を殺しまくった。コロラド大学、神経科学科選考の博士課程の学院生だったジェームス イーガンホームズの単独犯でいまは終身刑に服している。映画の暴力シーンが犯行を助長したのではないかと言われ、それが今回の映画「ジョーカー」の上演に反対するクリスチャン団体や自治体の声になっている。しかし映画の上演に反対するヒマがあったら、シリアやアフガニスタンでやっている本当の戦闘のほうを止めるのが先じゃないか。
ホアキン フェニックスは、テイーンのアイドルで人気絶頂時にヘロインで亡くなったリバー フェニックスの弟だ。リバーが生きていたら二人とも40歳代の立派な役者兄弟だったことだろう。ホアキンはジョーカーを演じるために体重を20キロ落としたそうだ。彼の背中やあばらの浮きで体が痛ましい。おかしくないのに笑う発作が起きた時の苦しそうな笑い顔も恐ろしい。街の石段を下りながらピエロの化粧をして踊りまくるシーンは素晴らしい、それだけでアートシーンになっている。ちゃんとリズムに乗っていないところなど、ホアキン フェニックスの役者の才能を感じる。ヒースの身も心も引きずり込まれるようなジョーカーとちがって、ホアキンのジョーカーは淡々としていて、悲しい哀しい笑いが死を予告している。彼の胸の苦しみを、弦楽器おもにチェロを使って延々と不協和音が奏でている。
1%の富裕層が99%の庶民の富を奪い独占しているこの世界で、「新しいジョークを思いついた。あなたがたには理解できないだろうけど。」と言ったあとで、血を吸った靴で歩き回るジョーカーたちで、街が溢れかえる。そんなことが明日起きても驚かない。
「ジョーカー」は1950年代の話ではなく、1980年代の話でもなく、今のいまの話だ。
ダークナイトの前日譚と思ってはいけない
タイトルからして、ダークナイトのジョーカー誕生物語だと思って鑑賞した方々は違和感あったみたいですね。
ダークナイトやティムバートン版(原作は知りません)のキャラ設定とはイメージ違います。
バットマンことブルースウエインの父親も酷い描かれ様ですよ。もっと人格者だったんでは?
でもイイんではないかと。
スターウォーズみたいなシリーズものじゃないんだから。
映画単体としては、不幸な境遇な男がカリスマ犯罪者になるまでを丁寧に重厚に描いていて(精神病ってのは賛否ありそうですけど)、かなり疲れます。
むしろアメコミの一悪役(ヴィランっていうの?)の誕生譚って設定が無ければ、全く救いの無い話だったんじゃないかな〜って。
貧富の格差が進んだ荒んだ街に、悪のカリスマ誕生!
バットマン、犯罪者を捕まえる前に、正すべきは社会の根本なんじゃないのって感想でした。
誰の心にもあること。
心優しき青年、アーサーは苦しい暮らしをおくっている。そんな中に若者にボコボコにされたり、会社からは解雇され、馬鹿にされ、蔑まれ、様々な出来事が彼を次第に追い詰めていく。
この映画の根幹にあるのは、富裕層の貧困層に対する思いにある。バットマンシリーズを通し、ウェイン(ブルース)に感情移入していたが、今作でのウェイン(トーマス)はあまり良いとはいえない。
それに加え、家族問題もクローズアップ。信じたくない現実が重なり、アーサーは「ジョーカー」となってしまう。
しかし、これは誰にでも起こりうる話なのではないだろうか。そういった現実性がある所もこの映画の素晴らしい点である。
バットマンのオリジンでもある
ラストのジョーカーの行動が引き金になり、トーマスとマーサが殺されブルースは親をなくす、
ジョーカーのオリジンであると共にバットマンのオリジンストーリーでもあり宿敵のジョーカーと既に会っていようとは…
全てが負の積み重ねになった男って感じ
ダークグリーンの髪にワインレッドのスーツっていうセンスがいい
タクシーの中のピエロ見てる時目があってる気がしてドキってした
この映画を見て学んだことは
人に思いやりを持つことが大事だけど
思いやれたいならたとえ心が病んでいても素直になるべきだということ
主人公は被害者ぶりすぎていてダメだなーと思った
自分だけでは自分が救えなくなるほど周りが見えなくにる前に自分と似たような集団の一人になれればよかったのにね
丁寧に描かれた絶望
この映画を観ていて、初めて鬼束ちひろの月光を聞いた時を思い出した。
あの頃はこの世界に誰も味方がいない気がして(実際まわりにはいなかったのだけど)、毎日がとてもつらかった。そんな時に月光を聞いて、そういう風に思う人は自分だけじゃないと知り、それだけで少し心が軽くなったのを覚えている。
アーサーにとってのそれはピエロの仮面を被ることだった。自分の起こした事件を支持し、熱狂する人々の輪に入り、自分が一人ではないことを確かめることだった。
そうでもなければ生きていられない。仕事をクビにされる、仲間からは馬鹿にされる、社会保障は打ち切られる、母親はうそつきだった、恋人は妄想だった、そして心の底から憧れた人は自分の才能のなさを嘲った…。
ひとつひとつ削ぐように消失していくアーサーの生きがい、生きる意味。才能にも恵まれず、それどころか人並みに生きることすら難しい。ただひとつ世界から望まれたのが、ピエロの仮面を被って恵まれたやつらを殺すことだった。復讐心と自尊心、その両方が一度に満たされる凶行だった。
正気を捨てた方が心地よい。失うものなど何もない。ジョーカーとなったアーサーがうらやましい。自分には支持者もいないし正気を保って得られる幸せもある。振り切れた先にあるものを一度でも観てみたかった。
観客はハーレイ・クィーン
ジョーカーのオリジンは、その時々によって違う。
なぜなら、ジョーカーは正体不明なので、本人から供述を取るしかないが、その供述すら言う度に異なり、何が真実かわからないから。
今回の話も真実なのか、病院で「思いついたジョーク」なのか。
こうしてインテリでハイソでお上品な美人精神科医ハーリーン・フランシス・クインゼルがハーレイ・クィーンになったように、観客はジョーカーに同調し共感する。
もっとも、足跡の血を見ると、最後のカウンセラーはジョーカーの好みじゃなかったらしい。
もっとドロドロしているのかと思っていたので、案外観やすかったです。...
もっとドロドロしているのかと思っていたので、案外観やすかったです。
結局この映画は、「アーサーの頭の中で起きていた妄想を観ていた。」という解釈でいいんですかね?
ホアキンの怪演は想定外、作品の質は想定内。
ホアキン・フェニックス。今は亡きリバーフェニックスの実弟。兄が亡くなった時に、落ち込むホアキンに映画関係者から渡されたビデオが「レイジングブル」。そう、主人公アーサーが憧れるマレー役、ロバート・デニーロ主演の不世出の作品である。このエピソードを聞いてしまったら、映画ファンとしてこの邂逅を逃す訳にはいきません。
で、観賞した訳ですが、結論から申し上げますと、やや期待はずれの印象を持ちました。ホアキンはもちろん、
怪演してます。が、悪の化身であるJOKERとしてはハズれている気がしました。すみません、、。
1番違和感を持った箇所ですが、衝動的に3人の証券マンを殺してしまうところです。私たちはJOKERに凶暴性とそれと同じくらい知的な部分(カリスマ性)を求めています。やや短絡的ではないだろうか?と思ってしまいました。
マレーを殺すことにより、JOKERはカリスマになったわけですが、やはりそこに至るまでの心理描写がやや大雑把に思えました。クリストファー・ノーランやスタンリー・キューブリックなどと比べると、脚本に深みが足りないと感じました。ダークナイトのJOKER役、ヒース・レジャーはやっぱり最高であることも改めて認識しました。
いずれにせよ、ホアキンの演技は劇場でみないと損しますよ!狂気のひとこと。
デニーロもさすがの演技でした!で2名の俳優と音楽が良かったので、及第点。
最後に光が見えた
その時代を生きていないからどれだけ低所得者の不満な溜まってるのがわからないので、社会の情勢を抜きにアーサーがジョーカーに変わる過程を見た。
幼い時代の虐待、母の虚言、関心のないカウンセラー、嘘つきの同僚、冷たく暴力的な見知らぬ乗客…結果的に性格的にも生理的にも健全と言えない主人公には暖かいものは何一つなかった。
ずっと「この人の限界はいつくるだろ」と思いながら見てた。
これ以上の殺戮と混乱を避けるたまに、ネタ通りマリーショーの時は自殺したほしかったのに、暴徒たちに助け出されて踊り出すアーサーには警察から銃弾打たれないかと心配してた。矛盾しまくってる。
でも結末に「あなたにはわからない」とアーサーが行った時は長いトンネルの先に光が見えた感じだった。
この人は自分から解き放たれた。
ただそれはいいことかはわからないけど。
少し不満なところ。
非常に巧みに作りこまれた映画で概ね絶賛されている皆さんと同じ感想なのですが、気になって頭から離れなかったことがあります。それは、(彼がジョーカーであるとした場合)ジョーカーに感情移入できてしまうということに対する違和感です。こんな環境でこんな育ち方をしたらこうなってしまっても仕方ない、なんて気になったり。
ところでブルースウェイン少年が庭の遊具からポールをくるっと廻って降りたのはTV版へのオマージュ?
衝撃でした
気にはなっていましたが、観に行こうとまでは思っていませんでした。しかし鑑賞した近所の先輩から「絶対観たほうがいいよ!」と言われ、ダークナイトを予習してから観に行く事に。
自分にはアーサーほどではないにしろ、似たような境遇に立たされた事があるので、気持ちは理解出来ました。
加えてこんな困窮状態が何年も続いた挙句、社会からは無関心、打ちのめされた自分に寄り添ってくれる人はいないとなればキッカケさえあれば誰でも人の道を踏み外す可能性はあると思います。
アーサーが可哀想でもうやめたってくれ、とか思いながら観てました。
しかし、アーサーが初めて殺人を犯し、自らの中で何かが切れたとき、ジョーカーとして生きはじめて行く過程でアーサーが変わっていく様は心が震えたと同時にホアキンの演技に凄みを感じました。
ジョーカーと化した時はただただカッコ良かった…。
ダークナイトのジョーカーもヒースの怪演で唯一無二の存在感を放ってますが、今回のジョーカーも映画史に残る悪のカリスマ性があると思ってます。
なんというか、上手く表現出来ないですが、衝撃的な作品で素晴らしい作品であることは間違いないと思うので一度は観た方がいいと思います。
観に行って良かった!
反面教師になった映画
精神疾患があって社会に適応できなくて、理不尽な目にあって、社会や世間を憎んでても、ああはなりたくないと思いました。
コメディアンなんて才能と運が必要な職を目指してるのに、努力が全然足りてないし、自分の個性が周りに受け入れられないことなんて、当たり前じゃないかと思って、全然同情できなかったです。
証券マン殺してピエロを英雄視していた貧困層も、デモを起こしたり、街を暴れて破壊している暇があったら、貧困から抜け出して、上手く立ち回れるには、どうすればいいのかよく考えればいいのに、と思ってしまいました。
(学校は嫌い。僕はコメディアンになる)ってのは、いいけど努力が全く足りていないので、とても反面教師になる映画でした。
共感性羞恥の方に見てほしい
タイトル通りです。
私は共感性羞恥があるので、映画内で主人公が恥をかいたりするとなぜか恥ずかしくなり目を瞑ってしまいます。
結構な数の映画を映画館で観てますが、この映画は特に酷いです。鬱映画です。救いがないです。
ただ主人公が吹っ切れてからは爽快感があり、目を開けて見ていられました。
予習をまったくせずに鑑賞したので、ネタバレサイトを見て行ったら違っていたのかもしれません。
前半では追いかけて、後半では追いかけられる。
どこまでが妄想で、どこまでが現実なのか。
黒人の女性のシーンは途中見ていて違和感があっても、予想もしない展開でした。
逆にコメディー番組は本当に呼ばれたのか疑って見ていました。
最後の赤い足跡。
あれは何を意味するんでしょうか。
最後に出てきた方って、最初に出てきた臨床心理士の方ですよね。
すべてアーサーの妄想で、実際には起きてない出来事だったんでしょうか。
赤い足跡は臨床心理士の女性を殺害した血痕?
色々考えましたが、私はすべて実際に起きた出来事だと思います。
喜怒哀楽の楽のカリスマになりたかったアーサー。だけどジョーカーのカリスマ性は怒の部分で発揮されます。
とにかく映画館で観て、このネタバレ感想の意味を理解して頂きたいです。
そして自分自身の人生に潤いを与えようと共感して下さると嬉しいです。
シネマではないような気がした
観ていて、最初はアーサーが不憫で不幸な立場に置かれている可哀想な人間に思える。
しかし、最終的にはアーサーに感情移入してしまう自分が怖く思えた。
アメリカ全土の抱えるタイムリーな不安要素を問題提起した映画だった。観る人を選ぶ映画だと思う。
エンターテイメント不幸
ジョーカーは、ジョーカーという人間ができあがるまでの話だとは聞いていた。
でも本当にただそれだけのような気がした。少し物足りないので☆3つ。
辛い幼少期の過去、精神的な病を抱えて、せっかく手にした仕事もクビ、家ではお母さんの介護。
序盤のどこに怒りをぶつけていいのかわからない状況のオンパレードは湊かなえの作品を見たときと似ている。
でもかわいそうな人間が狂った殺人鬼になったわけではない、ということがようやく終盤のコメディ番組にゲストとして出演するシーンで伝わってくる。
しっかりと施したメイクと衣装で番組に出て『ジョーカー』と名乗る彼は、いつしかノーメイクで舞台に立ったときのように笑いの発作はもうおきない。
軽やかなステップで道化に徹するところはどこか堂々としている。
アーサーが生きやすいように生きてみたら、行き着いた先がジョーカーだった。
喜劇も悲劇も主観、ならもっとポジティブにとらえられたらよかったのに、それができないのがジョーカーなのだろう。
そして、その彼のもつ妙な信念、徹底された狂気に私たちは惹き付けられてしまう。
ストーリーよりも、ゴッサムシティの街並みやアーサーの近所にあるらしい長い階段など、ひとつひとつのシーンがお洒落に作られていてそこだけはずっと楽しめた。
ホアキンの演技もherの時と同一人物とは思えない、凄みを感じた。
でもこれがそんなに賞賛されるような作品なのか、よくわからない。
救われない街の救われない男の物語
ダークナイトが現れる前のゴッサムシティ。社会の底辺にいるアーサーには何の希望も無い。
そもそも精神的な病で社会から阻害され、
信じていた母親にも裏切られ、
ウェインにも邪険にされ、
シングルマザーとの恋愛など妄想に過ぎず、
あこがれていた有名コメディアンにも利用される。
そんな絶望的な日々をホアキン・フェニックスがガリガリな体で演じていく。
いつも日本のドラマで感じていた美男美女による難病もの、障がい者ものにありがちな違和感を感じさせない何かが彼のなかから静かに溢れている。
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