ジョーカーのレビュー・感想・評価
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もちろんフィクション
だけどノンフィクションのような、こんな事あるだろうなぁと思わせてしまうくらいの追いつめ方、何とも切ない。この後バットマンと敵対することになるのだけど、彼の味方は一般市民、バットマンこそ倒すべき象徴になりそれこそがゴッサムシティの世界観なのかと、後のバットマンシリーズに全てがつながるベースとなる作品。
世界は危うくて悲しくて、でも強くて美しい。
まずは、ホアキンフェニックスがかっこいい。ミーハーです。
暗くて汚い場所ばかりですが、役者さんたちのオーラがすごくて、美しくかっこよく見えちゃうので、ホラー嫌いな私でも最後まで見られました。衣装もみんな素敵。
何が善で、何が悪か。悲劇か喜劇か。結局全ては主観なんだなーとジョーカーの言った通り納得してしまいました。
時代の設定が数十年前なので、病院やテレビ局のセキュリティの薄さには目をつぶるとします。
ちっともファンタジーとは思えず、同じような世界は日本にもあると思います。
弱者は気付かれることも手を差し伸べられることもないのか。
でも結局人を救うのは人であるとも感じます。
小さな道化師仲間を殺さずにいてくれたことにアーサーが人間であるという証を感じました。衝動だけで動いているのではないんです。
でも実のお母さんを手にかける彼の気持ちは理解が難しかったです。
あんなに優しい彼が。心が壊れてしまったのでしょうか。
とにかく観客の私は悲しかったです。
アーサーは被害者でしかない。
優しい人は最後は報われて幸せに、なんて世界はないんですよね…。
不幸の押し売り
不幸でどんどん歪んでいくわけですが恋人も出来たり優しい人も数人ですがいるのにそこまでと思えました。
幸せやわかってくれる人が少しでもあるなら耐えたほうが人として後悔がないだろうああなってはいかんと(当たり前ですね笑)考えた映画です。
今はヒーロー系の映画を感情移入を狙ってシリアスな展開にしたがりますがシリアスにしすぎて外れた映画ですね
レンタルに並んでも善悪のつかない子供には見せない方がいいでしょう
ジョーカー🃏は身近にある。
どこからどこまで。。。
アーサーのジョークと現実が絶妙に交差しててどこからが現実でどこまでが妄想なのか分からなかった。それとも全てが思いついたというジョークなのか。。
私はバットマンがすきじゃない。あの混沌としたゴッサムシティもジョーカーもバットマンもなんだか気味悪くてなんでか好きになれない。
でも、このジョーカーは予告を見たときから絶対観たいと思ってた。実際、ちょっと思ってたのと違ったけど上手くは言えないけど色々芸が細かいなぁと思った。
いちばん気になったのは、冒頭でアーサーは何を憂いて涙を流したんだろうってシーン。
何回か観ないと分からないかもなぁ。。
ホアキン・フェニックスの美しい瞳が、恐ろしくて、やりきれない。
コメディアンから殺人鬼への転職活動
※DCはデップーのみ、バットマンシリーズ初
ジョーカーはなんかやべえやつという認識で観賞
まずパッと見た時の感想として
ホアキンの肉体と踊りに釘付けだった。
やたら動きが最高でタバコ吸う姿がかっこよかった。
物語的には
こういう世界になりそうで怖いなあって思ったことと、
アーサーはずっとコメディアンになりたかったけど殺人鬼の方が天職でイキイキしはじめたから
人は突き抜けるとまじやべえな
転職に成功してるな
って感想でした。
その後
音楽も画面も物語ももっと調べたくなったので
パンフレットと解説も聞きました。
↓見て聞いたのち
最後のシーンの違和感が
あ、そういうことだったのかああ
と驚愕。
こんなのジョーカーじゃない!ってなってる人は
キャラクターでみてるのであって
この映画のジョーカーの見方は
ジョーカーという根本の混沌とした部分を
現代社会、監督とホアキンのジョーカー的部分のフィルターを通してできたものなんだなと
自分はそんな感じで着地しました。
何も知識入れずに見ていた時、このジョーカーのやってることに痛快してしまった自分の心にはジョーカーがいるんだなと…監督のあれにまんまとハメられた気持ちです。
これからダークナイト見ようと思いました。
あと、
2つほどキスシーンがでてきたけど
2つともいろんな意味でめっちゃよかった。
最初のはくそかっこよすぎだろとなり、
二つめはおばさん、やな奴に唇奪われて最悪だろうな
と。ちょっとした自分の中のベストシーン
悲しすぎる
アーサーとしての物語ならまだ納得
ホアキンの独壇場
凡作
抑圧からの解放
上映回によっては満席続きでようやく。
Jokerは、なるべくしてなったという感じでした。ありとあらゆる不幸を詰め込んだような境遇。もう笑うしかない、でも笑いたくて笑っている訳ではない。こんなに悲しく苦しい笑い声を普段耳にすることはありません。これだけ不遇の人生なら仕方ないのではないかと哀れむし、同情的な描き方にも取れます。ArthurからJokerへの変身は、不運の連続で八方塞がりとなった一個人に、持たざる者達の鬱憤の爆発という社会現象が究極の抜け道を与えたように思えました。
皮肉にも母親からHappyと呼ばれていたArthur。人を笑わせたいけど、笑われるのは許せないし、笑いのツボはかなり少数派。人を喜ばせたいというのは本心だったのでしょうが、それ以上に強いのは承認欲求でした。
Arthurの人格よりも驚いたのはGotham Cityの民度の低さです。Arthurの行く先々で起こる攻撃と拒絶と無視の繰り返し(確かに人相悪めですが)。もし福祉担当者1人だけでも彼に同情していたら。誰かが一言慰めていたら。誰かが自分の目先の利益より他人を案ずることができたなら。見ず知らずの人にほんの少し親切にすることは、労力の無駄でも何でもなく、誰かが明日への気力を保つきっかけになるかも知れないし、どこかの通り魔殺人を防ぐかも知れないのです。丁度八つ当たりや悪戯が巡り巡ってJokerを生んだように。過剰な自衛と無関心がGotham化を招くという危機感は現実の世界でも当てはまりそうです。
最後はBruceを襲った悲劇も描かれていて、JokerだけでなくBatmanも生まれた同じ市なのだと再認識できました。Bruceはヒーローになるよりも、巨万の富を分配して教育と医療・福祉、公共サービスを充実させた方が良くないか?とも思いましたが。
結局実親は分からず、特別な「ルーツ」の有無も不明のままですが、Jokerの犯罪者としての生い立ちと背景は、アメコミヴィランであることを忘れるくらい、非常に現実的かつ典型的でした。普段は社会生活を問題なく送りながら、家族に隠れてよそで殺人を繰り返しているような実在の殺人鬼達の方がよほど闇が深そうです。
Joaquin Phoenixを予告編で観た時は、Jokerを演じるために役者になったんじゃないかと思うほど強烈に似合っていて、キャスティングに感謝しました。随分痩せて臨まれましたね。険しい邪念を演じさせたらピカイチの眼光を持っています。
“The worst part of having a mental illness is people expect you to behave as if you don't.”
“I hope my death makes more cents than my life.”
陰鬱な重い
タイトルなし(ネタバレ)
これがジョーカーか。わたくし、アメコミも含めたマーベルやそっち方面には全く詳しくない。むしろバットマンだけはダークナイトがああでーこーでーと語れる程度で、他は多分ファンの方からすれば毛ほどしか知らないと思います。
そんな状態でこのジョーカーを観たのですが、もうそういう世界観の知識は全く必要無かった。むしろ、監督自身が独立した作品として観て欲しいと言っているのだから、それがラストのヒントにもなっているのでしょう(これは後述)。
さてさて、 まずは率直な感想からですが、暗い笑。とにかく暗い映画だった笑。陰々滅々。陰々滅々なんて打ち込んだのは多分初めてだよ。映画は終始暗く、でも、人によっては共感を抱くような部分をジョーカーから感じられたりして、ヤバいヤバい感化されちゃ駄目だ!なんて思いながら終盤は観ていた。ロバートデニーロには別にイラつきも何も感じなかったのに、ジョーカーが弾いた時には何故かスッキリしちゃったり。ジョーカーに飲まれてた・・のかな。
そもそも今作、全面的にはジョーカーが被害者である。不幸な家庭環境が原因で病気を患い、更にそれが原因で身を不幸にしていた中年男。
そしてもう一つ、一番大事なのがジョーカーは狂ってなどおらず全くもっての『常識人』なのだ。被害者であり常識人だからこそ、狂った世の中を直視出来てしまう。だからこそ、ジョーカーへの道が切り開かれていたのだ。
まだ信じられない方は思い出してほしい。ジョーカーが最初に妄想をするテレビ番組に出演するシーンで、母親に関する事を話す。そこで母と同居しているという件で観客から笑われるという場面がある。このシーン自体がジョーカーの妄想なので、つまりはこの歳で母親と二人きりの同居生活が世間一般の価値観からすると『恥ずかしい事』だという認識を持っている事が確認出来るのだ。
そしてこの作品の9割は、ホアキンさんの演技力で出来ていると言っても過言ではないだろう。ぶっちゃけ話の本筋とか現代社会を投影しているんだろうなあとかそんな事は忘れて、とにかくホアキン・フェニックスさんの狂気と悲しみを織り交ぜた演技に魅入っていた。大半の方もそれが本音ではないだろうか。少なくとも私はそうだった。途中からもう細かいあれが引き金でこれが伏線でとかは考えずに魅入ってしまっていた。これが『映画』。これぞ『作品』なんだなあ~と強く思わされた。細かく語るときりがないので、そろそろ本筋に入っていこうと思う。
まず、今作は3つの見方があるんだと思います。
一つ目が、バットマンファン生唾もののジョーカー誕生物語。
二つ目が、アーサーという人物を通して現代社会の問題を描いた切実なドラマ。
そして三つ目が、強大な叙述トリック物だったのでは?という疑念を抱いてから観る考察物。
ここでは三つ目に絞って語っていこうと思う。そう、今作はラストでとんでもないドンデン返しが有るのだ。それが、【全部ジョーカーの妄想だったのでは?】という示唆。これが今作を更に面白くしていて、ただの現代社会に訴えかけるお硬い映画の範疇を超えている要因でもある。
これについては私は肯定派だ。まず、根本的な事として、監督は今作をマーベル・ユニバースから切り離して欲しいと言っている。これはつまり、マーベル・ユニバースから独立した作品として見て欲しいという事だ。という事は、バッドマンビギンズには繋がらないという風にも取れる。
今作のラストではジョーカーが見ていない筈の光景を妄想するというシーンが有るが、これがまさにそれを示しているのではなかろうか。今作を観た人の大半はバッドマンビギンズに繋がる物語として、今作を観ていた筈だ。だからこそ、彼はジョーカーで間違いないと思っているし、ブルース・ウェインの登場でよりそれを実感した筈だ。
だが、それこそがトリックで、今作はジョーカーという男の別の世界線の物語なのだ。そしてそれと同時に、バットマン等というヒーローはこの世に存在しないという事を訴えかけている。バットマンという存在そのものを否定して有る種ファンに喧嘩を売るような形で、より切実に現代社会の闇を訴えかけているのだ。
それに気づいてしまった人はこの映画が更に恐ろしいものだと知り、観終わった後の感想が180度違った事だろう。最も表層的な部分ではジョーカー誕生物語。その次の層ではどこまでが妄想だったのかを探る考察物。そして最後には、全てが偽りでありジョーカーもバットマンも存在しないただの逝かれた男の妄想だったと、それに気づいてからより悲惨さが増す胸糞映画だったと知ることになる。
怖い映画。
冷蔵庫
ラストシーンの時系列と意味をずっと考えていたんだけど、ストーリーを追っていくと途中に違和感のあるシーンがあることに気付いた
そう、アーサーが冷蔵庫に入るシーンだ
あのシーンだけがいやにストーリーから浮いていて、次のシーン (マレーショーへの出演依頼の電話)へ急に飛ぶ、そこからジョーカーへ急激に変貌する
そして、ラストシーン
白い面談部屋で「ジョークを思いついた」といい、血の足跡を残し、逃亡を試みる
清潔な白い部屋・・それこそ冷蔵庫の中なのではないだろうか
冷蔵庫に入ったアーサーはあの中で自問自答を行い、ウェインの子供のビジョンから「ジョーク」を思いつき、ジョーカーとして覚醒したのではないか
そこでアーサーの物語は終わるので「THE END」と出たと。
(もしかしたら、冷蔵庫に入ったのは自殺するためで残りのシーンはアーサーの死ぬ間際の妄想かもしれないけど)
それならば、冷蔵庫シーンは不必要なシーンではなく、アーサーの物語とジョーカーの物語を繋ぐ (それこそ生まれ変わるための胎内回帰も現してる)、最も重要なシーンだったんじゃないかと思った
元よりヒース・レジャーのジョーカーに心酔してるわけではないので、ホ...
世界の理不尽を笑い飛ばす
なにごとでも、初めての体験は勇気が要る。ましてや人を殺すとなると、自殺するのと同じくらいの蛮勇が必要になるだろう。しかしひとたびそれを乗り切れば、あとは仕事をこなすみたいに人を殺せるようになるらしい。この夏に観た映画「日本鬼子(ri ben gui zi)」の中で、中国戦線から帰還した旧日本兵がそのように語っていた。
本作品の主人公アーサーも、その辺にいる気の弱い中年男に過ぎなかったのが、ある出来事を機に悪に対するブレーキを壊して次第に暴力的になり、平気で悪事を行なう人間に変貌していく。
最初の行動には確かに蛮勇が必要だった。しかしそれは勇気を獲得したのとは違う。むしろ喪失だ。他人の痛みに対する想像力の喪失。それは自分自身の痛みに対する想像力の喪失でもある。
人は他人を殴ること、他人を殺すことに忌避を覚える。同じ共同体に属する人間を殺すことは共同体から罰を受ける行為だからだ。共同体にとって殺人が数多く発生するとは共同体存続を危うくするから、どんな共同体も殺人を厳重に禁止する。しかし共同体に属する誰もが共同体の存続を望んでいる訳ではない。中には共同体のルールなど糞食らえと自分の都合だけ優先して他人を顧みない人間もいる。そういった人間は得てして暴力的であり、そして周囲の人間を暴力に巻き込んでいく。
物語の中でアーサーは三度、暴力の被害者となる。加害者は街の悪ガキであり、エリートサラリーマンであり、街の有力者である。実は彼らこそ共同体のルールの枠外にいる人間たちであり、アーサーを暴力的な人間にした元凶なのだ。そしてアーサーもまた、彼らと同様に暴力の連鎖の源泉となる。
本作品はアーサーの物語を通じて人間の愚かさを冷徹な視点で描き出す。観ていて大変に不愉快な物語だが、その不愉快さこそ本作品が人間の真実を表現している端的な証拠でもある。
トッド・フィリップス監督は「ハングオーバー」シリーズでは理屈から外れた人間の馬鹿馬鹿しい行動をこれでもかとばかりの沢山のシーンで笑わせてくれたが、本作品では同じ愚かさでも暴力の拠って来たるシーンをいくつも観せ、人間がどれほど合理性に欠けた理不尽な存在であるかという彼独自の世界観を存分に表現したと思う。
ホアキン・フェニックスは作品の世界観を忠実に表現するために主人公の極端な人格をその行動と表情で演じる。大変な演技だったと想像される。一方、ロバート・デ・ニーロは常識人の役で、ヒューマニズムや合理性が暴力や理不尽に対して如何に無力であるかを示すと同時に、商業主義が齎した格差が社会に蔓延させた根強い不満の標的みたいな役を演じることでアーサーの行動の動機を裏づける役割も担った。
気の弱い普通の男が度重なる不幸によって怒りの塊になる、という単純な話ではないと思う。世の中の不条理が結晶したのが主人公アーサーの存在であり、その哄笑は世界の理不尽と人類の愚かさを高みから笑い飛ばしているかのようである。
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