ジョーカーのレビュー・感想・評価
全1564件中、201~220件目を表示
3位/441 2021.05.03現在
ダークナイトが大好きで
スーサイドスクワッドも好きで
映画を観るまでは
ジョーカー大丈夫かな?
と少し不安もありましたが
そんな不安は一瞬で
消え去りました!
素晴らしすぎます!
自分はそんなに頭も良くないので
映画は深く考えずに観るので
基本騙されますが
この映画も見事に騙されたし
結局、どこまでが現実で
どこまでが妄想なのかも
分からないけど、そこが
またたまらなく素晴らしい!
ジョーカーも、普通の人間だし
もしかしたら、自分だって
ジョーカーみたいに
なってしまう可能性だってある!
だから、感情移入してまう。
それを体現した
ホアキンフェニックスの素晴らしさ!
流石に、今後
違う人がジョーカーを演じるのは
大変だろうなぁ。
本当、こう言う
くらーい、おもーい映画
好きだなぁ。
そして、スーパーパワーを
持っていないヒーロー、ヴィランは
魅力を感じます。
続編というか
ホアキンのジョーカーが
もっと観たいというのが本音。
そのくらい素敵!
そして音楽もかっこいい!
自分の大好きな映画は
いつか娘と見たいけど
この映画を一緒に観るのは
相当先だろうな、、、、
以下、
超個人的主観による駄文のため
盛大にスルーしてください
(RG風)
ジョーカーのあるある言うよ♬
ジョーカーのあるある早く言いたい♫
ジョーカーのあるある今から言うよ♩
誰もいない広い階段で
ジョーカーのダンス踊りがち♪
初回鑑賞年齢→38歳
(2021年時点40歳)
初回鑑賞場所→映画館
鑑賞回数→3回
記憶度→95%
マイ映画ランキング
2021年時点
全映画中→3位
洋画部門→3位
ヴィランが主役部門→1位
感想と考察
アーサーの病気(後に虐待による後遺症と判明)である発作的な笑いは、人々との断絶を生んだ。彼が唯一目の前で発作を起こす描写のなかった彼の母親こそ彼の居場所であるように思われるが、実は彼女こそが彼を本当の意味で孤独にさせていた張本人である。彼女はアーサーをハッピーと呼び、「あなたの幸せな笑顔が人々を楽しませる」と言うが、彼の人生に幸せだったことなどなく、彼の笑いは周囲を気味悪がせているだけだった。彼女の望んだ「ハッピー」を演じ続けるためには、彼は蓄積された苦しみと怒りを7種類もの精神薬を使って抑圧し続けなければいけなかった。母親が愛していたのは、アーサーではなく「ハッピー」であった。つまり彼は本当のところ、家の外にも内にも、カウンセラーも含めて理解者などおらず、誰も彼をありのままに受け入れてくれるどころか、認識してくれる人すらいなかった。だから彼は、「僕は人生で自分がずっと存在しているのかわかっていない。」と言ったのだ。そのような現実に耐えられなくなった彼は、同じ階に住むエレベーターで相乗りしたシングルマザー(ソフィー)を、自分を愛して受け入れてくれる幻覚として見るようになる。
仲間の策略も加わり、派遣先で銃を落として職場をクビになった彼は、電車で絡まれた3人のエリートサラリーマンを撃ち殺してしまう。今までであれば子供から痣だらけになるまで蹴られても反撃しなかった彼が、銃を撃ったのはなぜだろうか。
その少し前に彼は劇場でコメディアンになるための勉強をしている。周囲と笑いのタイミングがズレていることに気づき、笑うタイミングを修正するシーンがあった。家に帰りメモのまとめやネタの創作をしながら、「精神病を患うことで最悪なのは、普通であるように振る舞うことを周囲が期待していることだ。」と書いている。自分の笑いの発作を理由に3人から暴行を受けたのは、その現実が改めて突きつけらた形だ。
加えて、自宅で誤って(?)銃を撃ったことでその威力を目の当たりにしたこと、幻覚を必要とするまでに精神に限界がきていたこと、母親に「お金のことは心配ない」と言った直後に、最悪の就職難の状況で職場をクビになったこと。そして3人が自分とは対局の立場にいるエリートサラリーマンであることも要因だっただろうか。
殺害後に駅から逃走し、彼は駆け込んだトイレで即座に落ち着きを取り戻し、舞を踊る。抑圧された怒りと苦しみを、初めて他者に暴力として開放したことで、湧き出る感情を抑えきれずに芸術として表現したのだった。
自分を抑圧する原因となった母親に吹き込まれた虚構の崩壊と悲しい真実、そして息子の代わりに愛されることまで夢見ていた、目標であり敬愛するマーレからの否定、幻覚の発覚。さらに警察の捜査も迫り、これまでの自己を破壊するような出来事の連続に対応するように、いわば生まれ変わった自分を認め、助けてくれる、街中で増加するピエロのマスク。ジョーカーを生み出すには十分な環境が揃っていた。
殺人者からヒーローへ、抑圧から開放へ、排除から受容へ、悲劇から喜劇へ、この映画は様々な価値が一人の人間の体験によってリアルに転換されていく。
この映画が人々の心を打つのは、私達が社会から受容される為に一定の人格を期待され、感情を押し殺し、自分を理解されず、自分であることを許されない、ということを二極化した経済格差の中で日々否応なく体験しているからではないだろうか。そしてその抑圧された苦しみと怒りの開放が、燃え盛るゴッサムの中、悪のかたちで肯定されるのだ。過度な残酷さや性表現もないのに、年齢制限がつけられる理由である。
今回の感想では、あえてラストシーンの考察は含めなかった。それが正しければ映画を丸ごと動かす大きな装置であるが、そうであるが故に、物語の重要性を低下させてしまうように思えたからだ。
悪だがかっこいい
これは地獄から生還する幸せの物語だ
暗い、重い、悲惨すぎる… 映画「ジョーカー」の感想によく出てくる言葉です。
まあ確かに。映画全編を覆うトーンから、そう感じるのはむべなるかなです。しかし私にはこの映画、絶望の底から自由と解放を勝ち取る、一人の男の覚醒を描いたドラマに映りました。ですから、悪の道への“転落”ではなく“昇華”の物語であり、ならばこそ主人公は次の境地に到ったのだと思います。
「人生は悲劇だと思ってた。だが今わかった、僕の人生は喜劇だ」
劇中、何が現実で何が妄想か判然としない手法で物語が進みます。しかし、彼がアーカム州立病院で自身の出生の真実を知るあたりから、しだいに“虚構”から“リアル”な存在に固まってきたように感じます。
ザジー・ビーツ演じるシングルマザー、ソフィーが殺されたのか何もなかったのか議論があるようですが、追及は不毛です。映画監督が意図的に示さない選択をしたということ。つまりどちらでも自由に想像してくれということです。(私は“殺られた”と思いました。)
デ・ニーロ演じるマレー・フランクリンをLIVEで殺害するシーン、及び深夜のゴッサムシティーでパトカーのボンネットの上に立ち上がり暴徒たちを見下ろすクライマックスは、映画のたたみかけとしては文句なしのな展開でした。絵が美しい。内容は暗く、凄惨ですが、美しい映像の連続でした。
ラストは精神病院です。彼は面談で例によって笑い出し、それを問い質す精神分析官に「ジョークを思いついた。でも君には理解出来ない」と言います。その笑いは、もう完全に精神疾患のそれではなく、確信的な笑いです。かつての彼は、顔は笑っていても心の中は苦しみに満ちていました。しかし今は心の底から笑っています。ものすごブラックに。もうすっかり「アーサー」ではなく「ジョーカー」です。
そして唐突に血の足跡を残しながら逃亡するラストシーンへつながります。 その走り方に暗さはありません。ユーモラスですらあります。この展開こそがジョークの中身だったのでしょうか。精神分析官は何の罪もないのに殺られちゃったんですかね。殺っちゃう対象は無差別の危険なヴィランになってます。
この映画を観て暗鬱になる人が多いようですが、私は楽しめました。主人公に共感も同情もしませんでしたが、カタルシスを味わうことはできました。同時に切なさも。これはジョーカーの辿りついた、極めて異質の“幸せ映画”です。
これからの正義の話をしよう(喜劇と悲劇は抱き合わせ)
最初にネタバレしておく。
だから、まだ未視聴の人は、この先を読むのは鑑賞後にして欲しい。
最大のネタバレは、おそらく「この作品はDCバットマンのジョーカーとは関係がない」
という事だ。(監督自身が仄めかしているから本当だろう)
もちろん、そういう作品には見えないように作ってある。
いかにも「バットマンの名ヴィランであるジョーカーが、いかにして生まれたのか?その誕生秘話である」と「見せかける」ように構成されている。
だからすっかりそうだと信じて、そのまま鑑賞を終える人も多いのではなかろうか?
「woke」或いは「stay woke」と言えば「社会的に重要な事実や問題(とりわけ人種間の差別や平等に関するもの)を意識していたり、積極的に気にかけたりしている状態」を指す。
それは非常に価値ある事だと思うし、私自身そうありたいと思う。
しかし「woke culture」などの表現で使われる場合には少々ニュアンスが異ってくる。「本質を逸脱した過剰な正義感」として揶揄する意味合いが強まると感じる。
過剰過ぎる「言葉狩り」や古い時代の名作に対して「差別に抵触する不適切な描写」を理由に改変したり絶版としたりする事もその一つだし、昨今の「コロナ自粛警察」も「過剰な正義感」の悪しき発露だろう。
行き過ぎた正義は「人間誰しもが持つ弱さや愚かさ」への寛容さを奪ってしまう。「意見や見解の多様性」も失われ、実現不可能な理想的正義に縛られて、結局は他者を傷つける。
本作は「喜劇」という文化を抑圧&衰退させかねない「過剰な正義感」に対するフィリップス監督のアンチテーゼだ。
「コメディ映画を作り、それをひっくり返す」
「世界が正義と妄信するものをひっくり返す」
「喜劇に見えるものの視点をひっくり返す手法で悲劇を創作する」
この重要な任務を完遂してくれそうなキャラクターとして、ジョーカーに白羽の矢を立てたってわけだ。
「もしもDCのバットマンとジョーカーが実在すると仮定し、彼らのユニバースを「現実のノンフィクション」だ」とするならば、本作は「ジョーカーの事実に着想を得た、事実ベースのフィクション作品」だと捉えるのがわかりやすい。(少しもわかりやすくないか?(苦笑))
だから、オープニングにDCのロゴはない。エンドロールの全クレジットが終わってようやく申し訳程度に出るだけだ。
キャラクターは借りたが、本作のベースになっているのはアメコミではない。
ヴィクトル・ユーゴー原作の1928年サイレント映画「笑ふ男」が参照作品だ。
また「フレンチ・コネクション(71年)」「狼よさらば(74年)」「タクシードライバー(76年)」「キング・オブ・コメディ(82年)」のエッセンスを盛り込んでいる事は監督が明言している。
アーサーは言う。
「自分の人生は悲劇だと思っていた。 でも、今わかった。喜劇だってね」
これはチャップリンの言葉を踏まえてだろう。
劇中で流れる「モダンタイムス」は、マジョリティが正常でマイノリティが異常だとする価値観をひっくり返す。
「ジョーカー」も「正義と悪」「正常と異常」の価値観をひっくり返す事に、監督の情熱は傾注されているように思われる。
困ったのは、作品の一体どこからどこまでが「妄想」であるのか、監督が種明かししてくれない事だ。
50%という事はない。60%?80%?90%?
いや、もしかしたら99%すら「妄想」なのかもしれないのだ!
監督は「最後にアーカム州立病院の部屋で見せる、あのシーンだけが、彼が純粋に笑っている唯一の場面」だと述べている。
また、ロバート・デニーロ演じるマレーはアーサーに「オチはなんだ?」と何度も詰め寄る。つまり喜劇として作られているはずの「ジョーカー」という本作も「オチ」があるのだ、と仄めかしていると推測出来る。
この映画には「妄想シーン」である事を示唆する仕掛けが散りばめられている。
例えば
「作中の時計は常に11:11だ」
「利き手が変わる」
「機関が変わっても担当カウンセラーが同じ」
「地下鉄での発砲可能数が多すぎる」
などは明らかにハッキリとおかしい。
また、非常に気にかかるのが
「作中『アーサー』から『ジョーカー』に移る時、髪が『黒』から『緑』になるが、ラストシーンの人物は『髪は黒。凶行はジョーカー的』という矛盾を孕む点だ。
監督の言う通り「ラストシーンだけが本当の笑い」だというのならば、私達観客が「アーサーの現実」だと信じ込まされていたすべてのシーンすら「本当の主人公の妄想」という見方も可能なのだ!
(「アーサーの妄想オチ」とはまったく意味合いが違う!この映画の非常に秀逸な点の1つだろう)
しかも「ジョーカーとなったあとのアーサーである」と仮定可能な余地まで残されている・・・。まったくもう!
観客に「この映画はバットマンのヴィラン、ジョーカーの誕生秘話ですよ〜」と心の底から信じ込ませ、それが限りなく「真実」であるかのように演出しながら、実は「すべて虚構」であるという演出も随所に散りばめている。
喜劇をひっくり返し、悲劇をひっくり返し、真実と虚構、現実と妄想をひっくり返す。
なるほど、喜劇役者は「騙されている観客」の方であり、笑っているのはアーサーでもジョーカーでも無い「真の主人公」だという事か。
「コメディ作って文句言われるなら、コメディひっくり返して悲劇にすれば問題ないんだろう?(気付かれないようにそれもひっくり返して喜劇に仕上げてやるけどね)」って辺りが本音かな?
フィリップス監督、良かったね。随分と
「釣れた」ね?
世界中から発信されるレビューを読んで、監督はどんな笑いを浮かべているのだろう?
「正義への妄信」「真実だと思うものへの妄信」を問題提起する代わりに、随分と手の込んだブラックコメディに仕立てたものじゃないか。
嫌いではないが、私達は更に建設的に「これからの正義の話」でもしてみようではないか。
リアリティを持たせたダーク・ファンタジー
米国映画、バッド・エンドの映画ですら、結末丸分かりの能天気な、一本調子のストーリーが多いけど、これは"ダーク・ファンタジー"で、加えて複雑な心理描写もしているので「前に、こんなん観たで」感がなかった。
ストーリーの展開に、多少の無理が感じられる箇所(例えば、主人公が貧困層のヒーローとして、社会的支持を集めていくトコとか、ちょっと"一足飛び過ぎる"が)もあるけど全然、許容範囲。主人公が「ジョーカー」になっていく過程に、ちゃんと(超常能力を原因としない)必然性が持たせられているし、結末も予測不能。なので、最後まで画面に引き付けられた。
過去作品のオマージュに関して言うと、例えば『タクシー・ドライバー』なら、本作品上の重要人物起用がデ・ニーロやったし、キャストの関連性、本筋外の紐付け方として、全然アリやった。個人的には、ここ数年間の映画やと1番かな。
平凡な男の話
演技、音楽、演出。全てが上質で、掛け値なしに芸術的であったと思います。
ただ、説明文にあるような、悪のカリスマを期待して観に行くと肩透かしを受けるかなと。
だって平凡な男の話なんですよ。平凡な男に不幸な境遇が積み重なり遂に爆発。彼にとってそれが殺人だっただけで、例えばそれがやけ食いやテレビゲーム、その他の趣味だったら、世にありふれた良くある話じゃないですか。わざわざ映画で観る程ではないかと。
また、彼の起こした事件が妄想か現実か分からないような演出が評価されているようですが、所謂夢オチに近しいものを感じ、乗り切れません。
予備知識無しで観るには些か物足りない映画と感じました。
日本だからこその"ハッピー"?プロパガンダ一歩手前の鋭利な作品
期待したが。
何回かみた方が良いかも
人が悪に変わる時
誰しもに起こりうる最大限の不幸と最低限の幸せの末、産まれる共感という危険性
1980年代、社会情勢の悪化に伴い荒んだゴッサムシティを舞台に、スタンダップコメディアンを夢見る青年アーサーフレックが狂気に堕ちていく様を描いた、DCコミック史上最狂のヴィラン、ジョーカーの誕生を描いた作品。
数多くの名優がそれぞれの解釈で演じてきたジョーカー、今作は怪優ホアキンフェニックスと彼に熱烈なオファーを送ったトッドフィリップス監督のタッグで、今まで描かれてこなかったジョーカーの誕生の経緯に迫った内容だった。
過去数作のジョーカーはサイコパスや狂人などの人物描写で劇場型の犯罪や無差別テロなどを引き起こす理解不能の存在であったが、今作はスタンダップコメディアンを夢見る恵まれない青年アーサーフレックという人物が様々な不幸や理不尽に見舞われ、唯一の希望とすがっていた母親や素性不明の父親、憧れのコメディアンのマレーフランクリンに対する失望と怒りなどを通じて、アーサーの心境に思わず同情してしまう、彼の行動理由に納得してしまう、ある種非常に危険な感情移入をもたらす作品に仕上がっていたのが驚きだった。
多く挙げられている意見同様に確かに今作をジョーカーの名を持って製作する必要があったかは疑問だったが、貧富の差や人種による差別が横行するこの時代に今作をジョーカーの名とともに発表したことで作中のアーサーの行動に共感を覚えてしまった観客への警鐘を鳴らすと同時に多くの人々に共感を与えるエンターテインメントに仕上げた手腕は素晴らしいの一言では表しがたいモノだった。
終始アーサーが息苦しい日常に苛まられる展開が1時間半超続き、遂に全て吹っ切れてあのメイクと独特の身振り手振りであの階段を降りていくジョーカーへと化していく姿は待ってましたと言わんばかりの展開だったし、無様に走り、車に轢かれ、何一つスタイリッシュではなかった逃走劇の末、駆けつける警察官を気にも留めず、タバコをふかしながら悠々と歩き去るジョーカーの姿に痺れた。。
各レビューで触れられているラストの説は自分の感性ではどちらとも言えないが、もしそう捉えるとしたらアーサーへの感情移入の最後の予防線かつまさにジョークともいえる演出効果を生み出すことで『ジョーカー』と銘打った作品としてこれほど見事なラストはないのではと感じた。
2019年10月05日(土)1回目@丸の内ピカデリー Dolby Cinema
2021年01月05日(火)2回目@Netflix
今やジョーカーの称号はこの手に…?
ものすごい感情
架空の舞台ではあるが、
追い込まれ、這い上がれない人に、
生じてしまう感情。
もちろん理解はできないが、
やや同情してしまう面もあり、
アメリカの闇を強調して表現しているのか、
と感じた。
どこまで現実で、どこまで妄想なのか…
デニーロまであっさりやっちゃうとは恐れ入った
遅ればせながらスターチャンネルで鑑賞
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