ジョーカーのレビュー・感想・評価
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2を観てから観返してみて(考察入り)
映画館で観たんですが、2の違和感というかモヤモヤを晴らしたいと思い、アマプラで観返しました。
やはりこちらはシナリオ、演技、アドリブ、映像表現どれも素晴らしいです。内容は初っ端からすごく不条理でやるせないのに、観終わった後の不快感や嫌な感じはありません。たぶん、最後までアーサーが生き生きしてるからだと思います。
そして2への伏線というか、細かく引き継がれた設定もたくさんあることに気づきました。
2を観た後だと、このジョーカーがバットマンと戦えるのか?ゴッサムシティを混乱させて地獄とするのか?そこまでの力や知能や統率力ある?別人なのでは?って思いました。
この映画で、ブルース・ウェインの両親をクラウンの仮面をかぶった暴動参加者が射殺するのですが、その時の仮面野郎のセリフが、2でアーサーを刺したサイコパスのセリフと同じような気がするんですよね。同一人物なのでは?バットマンの真の敵はこいつでは?と思ってます。
ある意味『ダークナイト』の時とは対照的なゴッサム市民
ソフィーとの愛も母との絆も全て幻想だったと知ってしまったアーサー。
もう何も失うものが無く、死すら恐くなくなった。そういう状況に陥った人間は、『どうせなら、自分にひどいことをしてきた奴らに報復してやろう』という思考に走ってしまう可能性がある。
アーサーは、
自らを虐待した母を殺し、
自身をハメて仕事を失わせた元ピエロ仲間を殺した。
最後に残るのはあと一人、テレビでアーサーを笑い者にしたマレー・フランクリンだ。
観客である我々には、アーサーと周囲の笑いのツボのズレを散々見せつけられてきた。
アーサー自身もそれを重々自覚している。
そこでアーサーは気づく。
『みんな僕を病気だっていう、けどこれが僕なんだ。僕の人生は悲劇だと思ってたけど、コメディだったんだ。もう自分を偽るのはやめだ。』
そう、これまでアーサーは病気で笑ってきたと思ってた。けど違った、あれはアーサーの主観的に、面白くてしょうがなかったから笑ってたんだとわかった。
『みんな善悪の基準を主観で決めるのと同じように何が面白いかの基準も主観で決めてる。同じことさ、僕だってそうする。』
そのセリフにも表れてるんじゃないか。
最後のシーン、マレーのショーで『僕が証券マン3人を殺した、奴らがクソだったから。』と暴露したのは
アーサーにとっては渾身のジョーク(殺人した、というのは前提の/これさえも妄想なのかもしれないが笑)だった。
だがマレーは言う、『笑えない、オチは?
お前は自分を憐れんで殺人を正当化しているだけだ。』とアーサーの主観的ジョークを真っ向から否定した挙句、アーサーをこれまで二度も笑いものにした。
なぜ自分の主観的ジョークだけが認められず笑いものにされなければならないのか、とアーサーは憤激し、マレーに引き金を引く。
この映画が犯罪を助長すると主張している人がいるが、その意見は少々的外れではないだろうか。もしこの映画を見て『僕(私)も犯罪をしよう』と思った人は映画と自分をもう一度見直すべきだ。この映画は、『誰だってジョーカーなってしまう可能性を持っている』、『ジョーカーが生まれてしまうとどうなるのか』、『またそんなジョーカーは一体何が作り出すのか』を私達に警告した映画である。『思いやりの欠如』が招き得る結末を私達に突きつけたのだ。決して『みんなジョーカーになれ!』とは言っていない。
マレーの言う『お前は自分を憐れんで殺人を正当化している』というのはド正論だ。社会の道徳的に見て、何も間違っていない。たとえどれだけクソ社会(弱者切り捨て・全体主義)やクソ人間(利益追求マシン化・言葉が形骸化/カウンセラーの女性の仕事からそれがよく伺える。彼女は思いやりの気持ちよりも、機械のように、アーサーにカウンセリングの名目で毎週同じ質問を繰り返す。)から酷い仕打ちを受けたとしても、皆我慢して"黙っていい子"にしてる。そうやってひっそりと死んでいく。そういう人生も当たり前になっている現代で、アーサーに共感した人が大勢いる。つまりアーサーと境遇を共にする人間が実際多く存在する。アーサーは思いやりに欠けた出来事を何度も経験し、何もかもうまくいかなかった結末として、ジョーカーという狂気の存在(死すら恐れないためどんな犯罪行為も犯しかねない)へと徐々に覚醒していったのだが、これは、そのアーサーと境遇を同じにする者達の誰にでも起こり得ることなんだ、と我々は気づかねばならない。この思いやりに欠けたクソ人間とクソ社会が姿を変えず存在し続ければ、ジョーカーのような存在が現実世界にも現れ得るのだと。
資本主義の負の側面を嫌という程見せつけられる。人と人・人と社会・社会と社会を繋ぐのは金(利益)だけではないはず。我々人間には"言葉"があり、そして感情表現の一つとして"笑う"ことができる。思いやりのこもった"生きた言葉"をかけ、"笑い合う"ことでも人と人は繋がりを持てるはずなのだ。
この映画は素晴らしかった。笑えるシーンなんてほとんどなく、ただただた目を見開き、苦しい現実に直面し続ける。目を背けたくもなったし逃げ出したくもなった。それゆえ序盤"酷い一日"を経験しトボトボ登った階段を、"自分らしいコメディ"としてここまでの悲劇全てを受け入れ覚醒したアーサーがthe hey songをバックに軽快なステップで駆け下りるシーンには思わず笑みを浮かべてしまったものだ。私的に、この映画は『ダークナイト (08)』を観て以来の衝撃だったかもしれない。『ダークナイト』において、ゴッサムを救ったのはバットマンではなく、他でもないゴッサム市民だった。彼らにはまだ良心が残されていたのだ。そして本作『JOKER』においてゴッサムを地獄に変えたのも、皮肉なことに、ジョーカー(アーサー)ではなく、"苦しみ"や"怒り"が長い年月をかけて蓄積されたゴッサム市民自身だった。この意味で『ダークナイト』と本作は対照的だったと感じている。
だが一つだけ違和感を感じたのは、アーサーがジョーカーとしてマレーのショーに出た後、発言が力強く、ある種説得力のあるものに変わった所だ。これが少し急すぎた気がした。もちろんジョーカーという人物は、賢く抜け目ない頭脳派のヴィランなので正解なのだが、ここまでのどこか頼りない冴えないアーサーを観ていたからか、微妙な違和感を覚えてしまった。だがこれも、自らの悲劇の人生を喜劇として受け入れることに成功した事で"病気の笑い"と"本物の笑い"が統一され、発作として苦しむことがなくなったことでアーサーは自らの意見を正確に伝えることが可能になった、ということなのかもしれない。
ジョーカーは身近にも存在する
これはなんと悍ましく衝撃的な作品なんだろうか。悪のカリスマであるジョーカーの誕生秘話に圧倒された。狂気の塊・アーサー役を演じたホアキン・フェニックスも実に素晴らしく不気味な笑い声が頭から離れない。狂気を感じる音楽も抜群。
社会から孤立し悪へと変貌するアーサーの姿を見て感じたのは、いつの時代も狂気な殺人事件が発生していて、我々の身近にもジョーカーは存在しているのではなかろうか。
2019-221
完成度の高い映画だが…
音響、映像、シナリオ、演出、役者…どこをとっても非常に完成度が高い映画であり、公式が言うように「アカデミー賞間違いなし」なメッセージの強い怪作であることには間違いない…
ドルビーシネマズで観たのだが、特に音響の出来があまりにも高く感心した。
しかし一方これがバッドマンシリーズのスーパーヴィランであるジョーカー誕生の物語かと言うと少し疑問がある。たしかに本作はゴッサムシティの社会的弱者にとってのアイコンとしてのジョーカーの誕生の物語であることには間違いないのだが、彼が頭のキレる「カリスマ」としてのあのジョーカーになるとは到底思えないというのが正直な感想。
この物語をジョーカーを素材にしてやる意味があるのか?という思いもある一方、ジョーカーを素材にしなかったらこの物語はこれほどにも世界中に響く映画とはならなかっただろうなとも思い、タイトルにある通り「完成度の高い映画なんだけど…」となんとも言えない気持ちで映画館を後にした。
業の深さ
まずホアキン・フェニックスの人間的な奥行きに驚かされます、演技から垣間見れる業の深さとでもいいましょうか。何故なら、貧困や狂気を実際に生きた経験がないと醸し出せない演技をするからです。
物語はというと、世の下位層の不満を代弁したかのようです。そういうと大袈裟かもしれませんが、少なくとも富裕層は冷や汗を掻くことになるでしょう。まるで恵まれない人間への鎮魂歌の様でもあります。
日本には天は人の上に人を作らずという言葉があります。しかし、それは、まやかしで実際には人の上に人はいます。それどころか弱者であるほど搾取され、あらゆる悪条件を飲まされ選択の余地を奪われてしまいます。
この映画の残酷なところは、何かの歯車一つでジョーカーが幸せに暮らしたり、夢を叶えたりするもう一つの現実が見え隠れするところです。その幸せな世界からは、ことごとく分断され、梯子は外され足枷を外すことができません。それでも人生を喜劇と捉える主人公が痛々しくてなりません。
その様子に私達は、心を締め付けられることになります。
点数を付けるのも野暮ですが、本作に92点を付けたい。ビューティフル・デイは78点くらい。
虐待・街でのデモ・覆面。。。そして狂的な社会。とてもタイムリーで圧倒的な完成度の芸術映画
アメコミ映画は基本的に観ないことにしているが
この映画は別格だ。観る事を躊躇しなかったし
この芸術映画を観たのは正解だ。 観なかったら後悔しただろう。
前作(ダークナイト)において、故ヒース・レジャー氏は高評価を得ていたが
ジャンキーの演技なので、僕にとって、それは評価外・論外であり、
狂人の極端な演技は差ほど難しくはない。
それに比べ、後半マイケルジャクソンにさえにも魅えた
主人公ホアキンさんの役作りと演技は完璧だ。この映画の背景すべてを完璧に語っている。
そして紙1枚とネタ帳で映画の前提をすべてを表現した脚本も凄い。
楽しいから笑うのではなく、悲しいから笑うのでもない。
彼は感情が高まると泣くのだ。
だから彼は真の”笑い”というものを知らない。
その知らないもので、自分探しをするが
それは残酷でもある。
彼は根っからの社会的弱者・障壁者なので、本来守られるべき人間であるが、
社会が彼を犯罪者にしたのではなく、弱者切り捨てによって作られた隙間に落ちた人間で
妄想好きな狂人
映画「ダンサー・イン・ザ・ダーク」と同じだ。
多々でてくる回想シーンはボッーと観ていると勘違いしそうなシーンで構成されているが、
構図も撮影・カメラワーク・照明もすべて完璧!
オレンジライトとブルーライトをうまく使い分け、綺麗な色彩を演出していた。
構図・音楽・効果音が的確で
非常に考え尽くされた画面と
オープニング・エンドタイトルに至るまで、センスよく
ほんの僅か上映時間が長い気もするが、脚本もピカ一
完成度が非常に高い作品
しかし、冷蔵庫を映すシーンの必要性とカメラの動きの訳
途中に入ったギーィ音の意味が気になったので、監督に訳を聞きたい。
この映画を観たら、鏡に映る対照的な「タクシードライバー」を見直したくなった。
喜劇なんて主観さ。笑えるか笑えないかは自分で決めるんだ。
たまたま数日前の深夜、TVで「ダークナイト」を観た。バッドマンを翻弄するジョーカーの小面憎いことったらなかった(と言うものの、基本的にアメコミ映画は観ません。ヒーローの万能っぷりや勧善懲悪のステレオ描写が嫌いなので)。
個人的には、バッドマンの苦悩なんて興味はない。水戸黄門然り、大岡越前然り、どうせちょっとやっつけられるパフォーマンスを見せた後にガッツリ叩きのめすプロレスなのだから。それなら僕は、雲霧仁左衛門や河内山宗俊の物語にこそ強く心惹かれる質だ。美学を持つ悪人や、世の中が作り出しだした道化にこそ、人間の本質が深くにじみ出る世間を見ることができるから。歳をとると、そういう物語にこそカタルシスやシンパシーを感じてやまない。
そしてこの映画には、そんな切なさがあふれていた。
アーサーはコメディアンを目指していながら、笑いのツボが分からないなんてすでに滑稽な悲劇である。どうやら読み書きも満足ではないらしい。もしやLDなのかも知れない。たぶん、子供のころからずっといじめられっ子だった気配がある。clownを職に選んだのだってもしかしたらペイントをして顔を隠せるからなのかも知れない。違う自分になれる快感を得たこともあったろう。
そんなアーサーが、もともと脆かった彼の心を壊すには十分なほどの事実を知ってしまい、精神までも壊れていく様はみじめな弱者でしかない。人生を諦観していたアーサーが、とうとうやけっぱちになって「狂ってるのは僕?世間?」と問うまでに乱れ、やがて自らが秩序の破壊者へと変貌していく。なんと悲しいことだろうか。
そんな堕ちてジョーカーと化けていくアーサーを、怪優ホアキン・フェニックスがものの見事に体現していた。この役者、その役作りには敬服する。「her」や「ビューティフル・デイ」などの彼も素晴らしいが、このアーサー役の彼もまた格別の存在を成している。鏡の前の彼も、走って逃げる彼も、痩せ身で不健康な彼も、限りなく、役に没入しているように見える。メイクした「道化師の涙」でさえも本当の涙を隠すためとしか思えなくなった。だから、アーサーじゃなくてホアキン・フェニックスに手を差し伸べてあげたくなるような気分にさせられてしまう。
クリームの「white room」が堕落していくゴッサム市に融け合い、「send in the clowns」のメロディがジョーカーの人生を笑える悲劇へと導いていくようなラストを観ながら自問する。
で、この映画を観ている自分はどっちだ?と。
顔を隠しながら、災難を恐れてその場から去る”善良”な市民か?
ヘタクソなステップを踏むピエロに喝采を送る、怒れる市民か?
悪のカリスマに対する期待値が高過ぎた
素直に「期待外れ」と言わざるを得ない。
ダークナイトで輝いていたジョーカーと同じキャラとは思いたくない、というのが正直な感想。
「善良で小心者の青年が家庭環境や社会問題からジョーカーになる」というストーリーは現代の社会を反映しているかもしれないが、そんな話は見たくなかった。
「ジョーカーには過去もなく、理由もなくナチュラルボーンのサイコパスで、誰にも理解できない独自の理想を持った悪のカリスマであって欲しい」と自分勝手な期待を、映画を見ながら再確認させられた。
今まで持っていたジョーカー像は、彼女に同意されるとか、街でピエロデモが起こるとか、そんな事で肯定感を得る小物ではなかった。
ちょっとハジけちゃった虐められっ子のようで、とにかく小物感が強い。
悪のカリスマという点では、直近で見た映画とどうしても比べてしまう。
「ハウス・ジャック・ビルト」のジャックと比較すると、洗練されていないしポリシーも流儀もなく、芸術感もないジョーカーはキャラが薄いとしか言えない。
ビジョンもなく、劇中でカリスマ的扱いになっているのも違和感。
ジョーカー役は、ヒース・レジャーという絶対に越えられない壁がある。期待値を勝手に上げ過ぎたという点を踏まえて☆2。
ジョーカーじゃないキャラの誕生譚としても、別に続編を観たくはならない程度の作品ではある。
それほどか?
期待をして鑑賞して来たのだが、私の矮小な理解力ではこれがDCシリーズのヴィラン「ジョーカー」なのか?と。
終始、荒んだ空気感のゴッサム。
ジョーカーも「狂気」と言うよりは世間的に救われない病人の男性。
バットマン(ブルース・ウェイン)との関係性も出てくるが、ジョーカーとブルースが歳が離れすぎでは?
最後は無理やり取って付けた様な市民の暴動により「ジョーカー」が「神格化」され終わってしまう。
もし今回の「ジョーカー」を今後の「バットマン」関連作に組み込まれるのなら、この後の「ハーレークイーン」との絡みが想像出来ない。
陰鬱なジョーカーと天真爛漫のハーレークイーン。。。
ジョーカーなら破天荒でないと。
1人で観に行って良かった!
清掃業者のストにより街にゴミが溢れ返っている、とラジオが報じている中、自身にピエロの化粧を施すアーサー(後のジョーカー)は泣きながら無理矢理口角を上げる。
世界は最悪、そして自身はその世界からも除け者にされている。ただ、誰かに必要とされたい。
誰でも良いから、俺で幸せになってくれ。
と言う善意の形をしたエゴを拗らせに拗らせた結果、ブチ切れ大爆発、そしてその大爆発に酔い痴れる、力の無い卑怯者達。
夢や希望を持って世間に立ち向かうより、その世間に尊厳を全て奪われた時、人は何にでもなれてしまうのではないだろうか?
でもそれは誰も幸せにはしない。
だから人は夢や希望を肯定し、自身を肯定してくれる人を探し、コミュニティを作り、倫理の仮面を被る。
なら、皆から疎まれ、誰にも肯定される事なく、そのコミュニティに入れなかった人間は?
この映画は、「化物になるしかない」と答えた。
そして「誰が彼を責める事ができる?」と問うた。
今日飲む酒は不味くなるだろう。
最高の映画でした!
お見事
今年10月にジョーカー フォリ・ア・ドゥが上映するにあたり再度鑑賞。
ストーリーは省きます。
ジョーカー事アーサー・フレックが見事に悪役ジョーカーに至るまでのストーリーが見事に描かれている。
ゴッサムシティと腐った世界で、病を抱えた母を支えアーサーも身体に障害を抱え急に笑う精神的な障害を持ちながらもコメディアンを目指している。
序盤は決してアーサーは社会からはみ出さず、普通に生きようと真っ当な人間に映る。
しかしながら世間は冷たくアーサーを見事にピエロから悪魔に変化して行く様子はホアキン・フェニクスが演じる事で引き込まれる。
アーサーはもうすでに壊れている存在。日記の内容やネタも自分の自虐ネタばかり考えている。
人生に疲れた笑い・諦めの笑い・狂気の笑いと私達が想像している笑いとは全く違う世界観で生きている。そうアーサーは常に笑われて生きてきている。
トーマス・ウェインも実の父親だと思っていたが母親の妄想で実は違うと。
もうアーサーの一つの希望が消え、唯一の味方であった母の存在も消えてもうアーサーには何も無くなってしまい無敵の人間になる。
終盤に唯一の味方に映る小人症の男性を助けます。決してジョーカーは無差別ではなく自分を見下した人間を殺しているダークヒーローの存在である様になってしまった。
TVショーの場面での会話では、決して彼は民衆を煽っているのではなく勝手に暴動が起きている。政治なんかには一切興味がないと。社会に対して不満に感じていた民衆が勝手にジョーカーをヒーローにし暴れているだけ。
そうジョーカーは民衆が勝手に作り上げた存在だと。
階段のシーンでのジョーカーは最高にカッコ良く完全に生まれ変わった。
見事にダークヒーローとなるジョーカーが描かれ、決して共感してはダメな作品を素晴らしいと感じさせられる作品になった。
凄絶!悪を誘う究極のカリスマ・・・降臨!
「ジョーカー フォリ・ア・ドゥ」を見に行くにあたってのおさらいです。
当時は、アカデミー賞を取るんじゃないかって噂になるほどのスゴい作品でした。
とにかく、見ていて圧倒されるって言うんでしょうか、見終わったあとは、ドッと疲れるようなエネルギッシュな作品です。
ホンっと面白い。特に最後が凄まじい。トリハダたっちゃいます。
昔、テレビでバットマンをみた覚えはありますが、ジョーカーは全く記憶にありません。
ジャック・ニコルソンのジョーカーが初認識です。でも、あの作品自体にあまり思い入れがないので、単なる敵役の一人でした。
衝撃だったのは、やっぱりヒース・レジャーですね。後にも先にも最高の敵役だったんじゃないでしょうか。
「スーサイド・スクワッド」のジョーカーも悪くないですが、全くの別物です。
そして、本作品のジョーカーが、さらにスゴい。上手く言い表せませんが、自分の中ではこのジョーカーが将来、ヒース・レジャーに繋がっていく線がはっきり見えた気がします。 まさにダークサイドに堕ちていく凄まじい人間ドラマでした。
DCも、この作品から、新たな展開を迎えた気がします。
マーベルみたいな連携した作品でなく、一本の単体のドラマ。それも、ヴィランが主役の重厚な人間ドラマ。いや〜、ホンっと見応え十分です。
今回もそうでしたが、何回見ても、圧倒されちゃう一本です。面白い。
ただ、ジョーカーを知らない初見の人は、どんな風に見るんだろう? 普通の人がダークサイドに堕ちていくさまだけで楽しめるんだろうか?少なくとも面白さは半減じゃないかな。
悪役もヒーローも表裏一体
不遇な生い立ちと、幼い頃の虐待ネグレクトによって精神病を患ったアーサー。下層級の不幸で気弱な精神病疾患者が残された救いは“笑い”なんだ。
愛する“道化師”の仕事さえも奪われたら、それこそ死ねというのか!!
これだけ多くのマイナスと不幸が重なり“ジョーカー”が生まれてしまったのだ。
一方でアーサーは年老いた母の面倒を献身的に見る優しいところがあったりもする。
誰だって悪役になりたくてなったわけではない、“ならざるを得なかった”という背景があるんだと本作を通して気付かされる。
生きていると、自分より幸せそうな境遇の人や才能を持つ人に対して嫉妬するし、嫌なこと不幸が続くと投げやりな気持ちになってしまうことが誰にでもあるのではないだろうか。
だから本作は多くの人から共感を得ているのかも。分かるよ、ジョーカーの気持ち。
笑いと怒り、悲しみ
正義と悪
現実と妄想
この世のものは全て表裏一体
ジョーカーだってある人たちにとってはヒーローなんだ!
どこからが現実か、アーサーの妄想なのかという線引きが難しいのが本作の特徴だが、鑑賞者に判断を委ねているのだろう。最後の民衆の逆襲は現実であってほしい。
クソ映画でした
俳優つまり演技は、凄かったなあ。
こんな感じで、狂気に落ちていく様子を演ってくれ、って言われたからできるってもんじゃない。
動きの全てが、壊れていく精神を表している感じはすごい。それも、一気にではなく、徐々に徐々に。そこは、ホントに尊敬だ。
ロバートデニーロが出ているのは、「ディアハンター」との対比というか、リスペクトなのだろうか?
場面ごとの撮影も見事だし、音響と音楽で心理状態を示すって点でも、恐れ入った。
しかし、それだけに、この話は、いったい誰のための、何の話なのか? と真剣に考えてはしまう。バットマンの敵役ジョーカー、あんなヤツがどうして生まれたか、気になるでしょうってか?
それを知ると、バットマンシリーズというヒーロー物を観る姿勢が、大きく変わるのか? 不幸な境遇を知って、悪事を働くなもさもありなんと思いながら観るのか? そんなこと、ないだろうな。
そんなわけで、本作が、ヒーロー物の一部として作られた意味は、自分にはちんぷんかんぷんだった。なので、失礼な書き方になってしまったが、自分にとっては、クソ映画でした。
惜しくない? こんなにすごい演技、撮影、音響してるのに。
キャラの独り歩き
バットマンも演者10人ですって
バットマンバースできますね!
今回のジョーカーは何人目でしたっけ?
アメコミ新作の仕切り直し感に慣らされて今回も前評判からして期待大でした
ところでこれ、話自体は"ジョーカー"じゃなくても成立はするんですね
ジョーカーは本来「DCのバットマン」に出てくるヴィランの一人ですが、この作品はバットマンを観てなくてもわかる仕様になっています
観ていた方が楽しめますけど
なので柵越しに対面した子供時代のブルースとのシーン
このシーンが無かったらバットマン作品世界としての成立前提を欠きます
今回、ブルースの親父との確執の展開からの初邂逅だったので、結果的にはサービスカットの印象が強くなってしまった
また終盤、ジョーカーがブルースの両親を射殺するシーンでは、ブルースが両親の死を目の当たりにするという画が(確か)なくて、そこは端折るのかともやもやした
完全に狂気のヴィラン誕生の話になっているので、同情の余地がまったくありません
生まれた境遇や生活に左右されずに困難に打ち拉がれながらも善人として生きる事に対しての違和感はないけど、それを原因として凶行を肯定するには違和感があります
世の中の矛盾や人生の不条理を正すとしても正攻法というものがあります
なので"ジョーカーの誕生"は彼の性格故の結末でしょう
この作品は社会派作品でもなく何の問題提起もしていません
バットマン誕生以前のゴッサムの世界観で生まれた一人のヴィランの話です
スピンオフでこういう事ができるのか、と
バットマンにまったくおもねっていない
これからも作られるであろうエピソードの一つとして楽しめたらと思いますね、アメコミ的には
それでも生きる…
この映画、何と言っていいか、わかりません。
芸人として、人を笑わせるはずが…
降りかかる壮絶な困難…
その末に広がる狂気の世界の主人公になってしまった「ジョーカー」
それでも生きる…このジョークのような世界を。
丁寧に描かれた絶望
この映画を観ていて、初めて鬼束ちひろの月光を聞いた時を思い出した。
あの頃はこの世界に誰も味方がいない気がして(実際まわりにはいなかったのだけど)、毎日がとてもつらかった。そんな時に月光を聞いて、そういう風に思う人は自分だけじゃないと知り、それだけで少し心が軽くなったのを覚えている。
アーサーにとってのそれはピエロの仮面を被ることだった。自分の起こした事件を支持し、熱狂する人々の輪に入り、自分が一人ではないことを確かめることだった。
そうでもなければ生きていられない。仕事をクビにされる、仲間からは馬鹿にされる、社会保障は打ち切られる、母親はうそつきだった、恋人は妄想だった、そして心の底から憧れた人は自分の才能のなさを嘲った…。
ひとつひとつ削ぐように消失していくアーサーの生きがい、生きる意味。才能にも恵まれず、それどころか人並みに生きることすら難しい。ただひとつ世界から望まれたのが、ピエロの仮面を被って恵まれたやつらを殺すことだった。復讐心と自尊心、その両方が一度に満たされる凶行だった。
正気を捨てた方が心地よい。失うものなど何もない。ジョーカーとなったアーサーがうらやましい。自分には支持者もいないし正気を保って得られる幸せもある。振り切れた先にあるものを一度でも観てみたかった。
対立と憎悪を助長しているだけ
陰鬱。陰惨。子猫の虐待を延々見せられているような感覚。アメリカで不満がくすぶっている貧富の差やトレーダーなどのホワイトカラーに対する憎悪とリンチ(私刑)を助長するメッセージがあからさまに表現されています。こうした軋轢や暴動を扇動する内容自体が、私には狂気に感じました。
主演の怪演は認めますが、バットマンのジョーカーとは全く別の作品として作るべきだったのではないでしょうか。個人的な意見ですが、「バットマン」、「ジョーカー」の看板がなければさして話題にもならなかったように思います。
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