劇場公開日 2019年10月11日

  • 予告編を見る

「わりとあいまい」ボーダー 二つの世界 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)

3.0わりとあいまい

2021年12月4日
PCから投稿

ゆるめのニュース系ユーチューバーでよく見ている人がいるんだが、あるときかれが言うには、なんかモノを紹介しようとして、対象をカメラにちかづけると(カメラに近づけたとき手がアップになるので)手指についての見た目をコメントするやつがかならずいる、とのことだった。

ゆび太いんですねとか、爪のびてますねとか、ゆびみじかとか、ゆびほっそとか、ほんとにどうでもいいことを言ってくる。そういうやつがかならずいる──とかれは苦々しく強調した。

たにんのからだつきが、じぶんとはちがっているばあい、しょうげきを感じることがある。顔はいうまでもないが、手や脚など、ふだん目につかないような部位を見て、形や色などにハッとするような違和を感じること──がある。
それを感じてしまうのはしかたがない。
じぶんの顔や身体ではない、たにんの顔や身体に慣れていないんだから。
だが、それを指摘するのはもちろん、見るのも失礼なことだ。見て見ぬふりがあたりまえである。

おりしも軽いエンタメニュースにこんなのがあがっていた。
『歌手のきゃりーぱみゅぱみゅが21日、自身のツイッターを更新。一部のファンに対して嚙みついた。
きゃりーぱみゅぱみゅはまず親指をのぞき4本の指にそれぞれ違う指輪をつけた画像をアップ。「重ね付けきゃわー」のコメントをつけてツイートした。これに対してフォロワーから「素敵」の声が上がる一方、「お肉ついてムチムチ」などのコメントも書き込まれた。
これに対して、きゃりーぱみゅぱみゅは再び投稿。「指輪とか靴とかアイテムを公開してるのに『指ムチムチですね!』とか『足首ないですね!』とか『扁平足ですね!』とか体型の事を指定してくるの本当にやめて欲しい。UPする気がなくなります、、、痩せてたら可愛いんですか?私は自分が好きな自分になる事が大切だと思います」と怒気を含ませてツイートした。』(2021/11/21中日スポーツより)

ひんぱんに見かける、よくあるニュースだと思う。

研修やセミナーでおこなうワークショップでまったく見ず知らずの他人と見つめ合って話すことがある。(サラリーマンならばみんな大嫌いな)ワークショップてやつは参加者に恥をかかせる仕組みなので、人前でなんかやったり、初対面の他人と共同作業をする──というようなトレーニングがよくある。他人と見つめ合ったとき、その異様に気づく。とうぜん相手もわたしの顔に異様を感じている。トレーニングは多様性を養っている。いうまでもないが多様性とはじぶんとはちがうにんげんを受け容れること。その度量がなければ仕事ができない。──だから職業人のセミナーにそれがある。

知ってのとおり、本物の他人とは、テレビやユーチューブなどに出てくる見慣れた著名人ではない。見たこともないにんげんこそが他人なわけである。わたしやあなたのように。

多くの日本人の周りにはじぶんと見た目が似通った日本人しか生きていない──こともあって、(日本人は)多様性の許容範囲が、おそらくこの惑星でも際立って狭いと(個人的には)思っている。

ためしに、前述したきゃりーぱみゅぱみゅのムチムチの指をごらんになるといい。そこには、まったく何の変哲もない手指──あたかも手指というものの最大公約数を具現したような、まことにふつうの手指が写っている。それをムチムチと言ってしまうのは、多様性の許容範囲の狭さの為せるワザ──としか言いようがない。

そんな視点があるなら、どんな他人も脅威でしかない。そんなにんげんにとって、見慣れていない誰某はすべていびつであり、敵対視にあたいする。他人=敵。それが多様性がないことの最大の弊害。弊害というか罪業だと思う。

よしんばそれがムチムチの指だったとしても指摘する必要はない。(いうまでもなく)たにんとはじぶんとはちがう姿形をしているものだ。人様の姿形をうんぬんするのは、そのことを知らないと言っているに等しい。

もしきゃりーの手指を異様だと認めるならば、もはやこの世界に異様でない手指なんてない。わずかな差違に過剰反応するなら、わたしたちは他者にまみえることができず、世界をみることもできない。
だれかの鼻や目や耳や手や指や、諸々の部位、目についた造形が、わたしたちの見慣れたそれとちがっていても、おどろいてはいけない──それを「多様性」と言うのだ。

なぜセサミストリートには毎回肌の色や年齢が異なるホストが出てくるのか。なぜ、わざわざ車いすのゲスト、ダウン症や発達障害の子供、マイノリティ属性をもったキャラクターを登場させるのか。(いうまもでないが)子供に「よのなかへ出たらおまえとは違う人ばかりだぞ」と教えたいから──に他ならない。
その「多様性」がやしなわれず誰に対しても敵視や嫌悪した結果、暴力や戦争に発展する──そう、人の歴史は言ってきた。わけである。

──とかなんとか言いつつわたしもレビューというかたちで、俳優の誰某の顔立ちについて言及することがある。多様性のないわたし。映画でそれ(多様性)をやしなっています──という話をしたまで。

そこまで言っておきながらナンだが、よのなかには、それとこれとはハナシがちがう──というのがある。
多様性はやしなうべき、だが(たとえば)移民の受け入れとか、断然反対である。リベラルと理想主義はちがう。国の方針を理想論で決めてはいけない。
反して映像作品は理想的であったほうがいい。人は不器量な俳優が出てくる映像作品に耐えられない。なぜ器量のいい人が俳優になるのか──説明が必要ですか?うつくしい人が俳優になるのは必然であって、そこは「多様性」なんて言ってられない。

絶賛された映画ワンダー君は太陽(2018)において、障がいを持って生まれたオギーの顔の造形は「かわいい」範疇にとどめてあった。
言っていることがわかるだろうか。Chbosky監督はリアルと観衆の共感をかせげること──そのバランスをうまくとった、わけである。
オギーがもっと醜悪だったら映画の評価はどうなっただろう?

博愛ってのはにんげんの命題だと思う。ただし博愛がたわむれならば、掲げるのは慎重にしたほうがいい。

2018年のスウェーデン映画。
美醜の命題に切り込むのかと思っていると、奇譚になっていく。原人風の造形がリアル。鼻の良さを買われて税関に就いているが、かのじょの嗅覚を逃れる異物はない。鼻孔をクイッという感じで動かすたび異形のものの野生がかいまみえた。
ベルイマンの国だから(って言い方はばかっぽいが)日本よりずっと映画はうまいし、落ち着いていて日本映画みたいなこけおどし感はない。(北欧は)わたしたちの大人っぽさよりも二回りくらい大人っぽい。

が、焦点が定まっていなかった。
多様性についてくどくど話したが、ファンタジーならば多様性の出る幕はない。相手がにんげんでないなら、美醜にたいする思いやりがいらないからだ。
映画はわざと醜い者の悲哀とモンスター奇譚を混同させている。それがけっこうズルい。(→与しなければ美醜差別と言われそうな気配のある映画になっているところがズルい。)
出生の秘話で幕引きするが、見た目に反して物語の印象も弱かった。と思う。

2015年16年にかけシリアをはじめとする大量の移民を受け容れたスウェーデンは今(2021)犯罪の激増に悩まされている。メルケルとおなじ末路。胸をはり高らかに共済をうたって難民を受け容れた──はいいが自国民が暴力にさらされ、財産が略奪され・・・。だが(難民を大量移入させたら)そんなことが起こるって、あたりまえに想像できたことだ。
それが国策なら博愛主義や融和政策にまさる破壊活動はない。
移民受容や参政権付与に与するれんちゅうってのは何らかの悪意がある──個人的にはそう信じている。

コメントする
津次郎