プライベート・ウォーのレビュー・感想・評価
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骨太のジャーナリスト
主役のメリー・コルヴィン(ロザムンド・パイク)が、とにかくカッコいい。
負傷して海賊風の眼帯しながら、戦場でのラフな姿も画面映えするのはもちろん、カクテルドレスを着ても絵になる。なんなんだろう、この存在感。
くわえタバコで、パソコンに向かい、見たものを叩き出す感じで記事を書く。悲惨な現場を渡り歩き、自らも犠牲者となり片目を失い、PTSDに苦しめられながらも、また前線に向かう。勇気というより、もはや狂気だ。その迫力で、最後まで画面に釘付けにさせられる。
イメージとしてはクイーン・エメラルダス(そういう年代です)なのだが、あちらは優しさを秘めた熱さがあるが、こちらは使命感を全開に常に前進していくイメージだ。
実在した人物の話だが、暴走する彼女を持て余すキャップや、彼女を尊敬して付いてくるカメラマンなど、キャラクターも置きがいがあり、テレビシリーズにもなりそうな設定なので、ドラマとしてやってくれないだろうか。
これが実在した方だとは驚きだ。とりあえず面白い作品だ。
メリー・コルヴィンの絶望が画面から溢れ出る
ゴルシフテ・ファラハニというイラン出身のびっくりするほど美しい女優がいて、当方はこれまでに「パターソン」と「バハールの涙」の2本を鑑賞した。主演した「バハールの涙」では、ISの被害にあった女性たちで編成した女だけの部隊を率いる不屈の意志の戦士を演じていた。暗くて深刻な役柄で、「パターソン」で主人公の妻で気儘なクリエイターを演じた女優と同一人物とは思えなかった。
「バハールの涙」では本作品の主人公メリー・キャサリン・コルヴィンがモデルになっている隻眼の女性従軍記者マチルドが登場した。彼女は、ニュースを受け取った人はクリックして終わりと悲観論を展開するが、言論は無力だがそれでも伝え続けなければならないと、かねてからの自分の覚悟も表明する。本作品でも、主人公メリー・コルヴィンは人類に絶望しているように見え、その絶望を乗り越えようとしているようにも見える。
ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の中で、次男イワンが弟アリョーシャに向かって、何故幼児が愛する親によって虐待され、無垢な子供の上に爆弾が落とされねばならないのか。子供たちにどんな責任があるのか神様に教えてもらいたいと、迫力のある無神論を展開する。「カラマーゾフの兄弟」が刊行されたのが1880年。それから130年以上経ってもメリー・コルヴィンは戦場で答えを探し続けなければならなかった。
おそらくではあるが、子供は有史以来虐待され殺され続けている。弱くて無防備で罪のない子供たちが不条理に殺され続けてきたのはどうしてなのか、長い間、多くの人が問いかけ、あるいは自問してきたが、未だに解決の糸口さえない。子供の死は常に不条理だ。人体の耐用年数が50年とすれば、その半分にも満たない年齢での死は文字通り非業の死であり、子供たちは不条理な死を死んでいく。
死が不条理なのは生が不条理であることに由来する。生の不条理は人間の行動の不条理へと発展し、差別や虐待、暴力や戦争に繋がっていく。人間が自身の不完全を認め、他者の不完全に寛容にならない限り、人類の不幸は終わらない。そしてそんな日は永久にやってこない。
人類には暴君と無法者と被害者と、それに傍観者しかいない。メリー・コルヴィンの絶望が画面から溢れ出るようで、観ていて辛くなる。この世にはもはや希望はないのか。しかしメリー・コルヴィンのエネルギーとバイタリティも同時に伝わってくる。どんなに酷い世の中でも、誰かが火を消そうとしなければ、いつまでも火事は鎮まらない。火をつけて焼き殺そうとする理不尽な無法者ばかりの世の中ではない。火を消す努力をする人がいなくなるのを最も恐れなければならない。だからメリー・コルヴィンは火を消すために事実を伝え続ける。何もしないこと、何も伝えないことは、暴力に加担しているのと同じことなのだ。
女性の目線
あなたのお話を聞かせてほしいと、取材をすすめる。
最前線にいるが、兵士目線ではなく、女子どもの話を聞く。
編集長にあなたは見なくて済む、私が代わりに見ているから、と毒づく場面、彼女の苦しみが伝わってきた。
ロザムンド・パイクの一挙手一投足観賞用
『ゴーン・ガール』で強烈な印象を受けたあと期待していたのだが、なぜか私の守備範囲では見かけなくなってしまったロザムンド姐さん。今作も強烈なキャラクターをきっちりもののにしている。
で終わってもいいのだが、どうしても気になるところが。何故あそこまでして報道し続けるのか、使命感や罪悪感はわかるが、酒に溺れタバコは手放せず片目を失い悪夢に魘されPTSDのフラッシュバックに苦しみそれでもなお、取り憑かれたように戦地へ赴き続けるのは、映画の中では明確には語られていなかったような、更に踏み込んだ動機があるように思える。個人の妄想の域を出ないがそんな気がしてならない。
「苦しみは全てが終わった後に来る」
内戦中のシリアで殉死した米国人ベテラン戦争特派員、メリー・コルヴィンの足跡を、従軍記者時代に絞って、爆撃で死亡する日から逆算しながら数々の紛争地帯での出来事やその合間のプライベートを追った伝記映画である。監督の以前のドキュメンタリー『ラッカは静かに虐殺されている』は鑑賞済なので、かなりのリアリティが表現されているのだろうと想像したが、その予想通りの骨太でハードな内容に仕上がっていた。実際のメリー・コルヴィンのプライベートは脚色されているだろうが、取材中の彼女の動きは実際の行動そのものであろう。それは監督のドキュメンタリーを観れば充分納得出来る。
とにかく世界中の地獄がこうして今まさに存在している事を、正視して観られない程のオンパレードでこれでもかとぶつけてくる。失礼を承知で言えば、鑑賞するだけでPTSDになってしまう程の凄まじい画力の連続なのである。彼女がその症状に苦しめられるのも、尤もな事だとその追体験を否応なしに取り込まされてしまう。そんな彼女をそれでも紛争地に送り込む新聞社サンデータイムスのデスクの薄情さは、しかし彼女のその熱意や信念に寄り添い、一番理解しているからこその関係ということを演出できているシーンが、自分にとっての今作の白眉であると思う。昨今の日本でも同様に紛争地帯への取材に於いて、人質となった記者がいたが、その際の日本国民の冷徹な仕打ち、“自己責任”という言葉に、まるで川に溺れた犬に石つぶてを投げるが如くの罵詈雑言が飛び交った状況に対してのこれが“アンサー”なのかもしれない。“普通の人は彼女のような勇気ある行動は出来ない。逆に彼女は新聞の『園芸欄』を愉しめるような生活を過ごせない。ならば、その普通の生活をしている人達が世界の真実を知りたいと願う時に、彼女がそれを叶えてくれると思っている筈なのだからそれを叶えるべきなのだ。” そう、彼女はそれが“使命”であり、“天命”なのであろう。ならばその運命を受容れて果敢に火中に飛び込む事を厭わない姿勢は、世界中の人達は認め、支持すべきなのであると強く感じたのだ。大事な事は“臭いものに蓋をする”事に慣れてしまったら、何の罪もない世界中の無垢な人達がドンドンと犬死にしてしまうのだ。そういう人達を救うことに躊躇したり面倒臭がるのは人間の弱いところだから仕方がないのだが、しかし世界の目を閉じてしまう事自体が、一番の悪なのである。果敢にも勇気を持って“都合の悪い場所”に真実を拾い上げるジャーナリズムを決して貶してはならない、何の先入観も抱かずに応援すべきことなのだ。今作品に於いての彼女のメッセージを痛い程感じた作品であった。
生き方は壮絶、映画の出来は平々凡々
メリー・コルヴィンの戦争で傷つく人々の声を伝え続ける飽くなき追求を描いた作品。
彼女の信念は自らを危険に晒しても続き、最期まで貫き通したと言える。
ただ、映画として観るとそこまで引き込まれるような演出とは言えないありきたりな所がチラホラ‥
何と戦うのか
私なりに副題を付けるとすると、
「ある戦場ジャーナリストの栄光と死」
ある諺とスローガンを思い出した映画です。
1)ペンは剣よりも強し
2)権力は銃口より生まれる
葬儀場でしか死体を見たことない私にとって、
なかなか理解できない映像の連続です。
戦争や内乱のない国の平和ボケした国民だと誹られても、
仕方のないことかもしれません。
言い返してやりましょう。
「それがどうした?命あってのものだね」だと。
無事に帰ってくるまでが取材。骨のあるジャーナリストを失い残念。
英国サンデー・タイムズ紙の特派員として、レバノン内戦や湾岸戦争など世界中の戦場を取材し、世界に伝えた実在の女性記者メリー・コルヴィンの半生を描いた作品。
世界には、こんな骨のあるジャーナリストが居たんですね。イラクでの集団虐殺犠牲者の墓地、“アラブの春”でのカダフィ大佐とのインタビュー、そして、シリア内戦の現状。「あ、そう言えば」と言うのが少なくありません。それらの報道は、彼女の功績によるものだったんですね。
ラストのシーン。チャンネル4、BBC、CNN、ITNニュースへの出演ですが、それをやったがために居場所を知られ、攻撃されたんですかね。都合の悪いところを見られていますから、消されたんでしょうね。
君は炎に飛び込む蛾だ
戦場記者、メリー・コルビン。すごい人だね。一人で戦っている。片目を失おうとも、PTSDになろうとも、戦争の正義なんかどうでもよく、ただ現地で犠牲になっている市民の現状を世界に伝えたい、って熱意。今も含め自分たちは、こういう人たちの使命感のおかげで、真実を知ることができる。知って、感じて、考えてみる。何か行動を起こすことまで出来なくても、せめてそのくらいはしてみよう。彼女たちのジャーナリスト魂の苦労に報いるためにも。
って、主役の彼女、「ゴーン・ガール」の???
すごいなあ、ここにもまた女優魂かよ。
平和ボケしてる自分が情けない
戦争の最前線で命をかけて事実を伝えるジャーナリストの信念や苦労に心がえぐられてしまう。
また、本人も重いPTSDに苦しみながらそれでも戦地に駆り立てられて自ら突っ込んで行ってしまう。
激しい戦場と華々しいパーティーの風景が切り替わりその歴然とした差に頭がクラクラする。
登場する戦場の人々は皆「戦争に巻き込まれた罪のない人」で、神様何故なのですと泣き崩れる人々を見て、私は一体何をしていたんだろう今までと涙が浮かんできた。この戦地を非日常だと感じる日常を過ごしてる我々に命懸けでジャーナリストが伝えてくれた事を受けとめて私は何が出来るのだろう?知る事だけでいいのだろうか?と今この世界で生きてる意味を改めて考えてしまった
☆☆☆★★★ もう1つの『ババールの涙』(…と言うか、『ババールの...
☆☆☆★★★
もう1つの『ババールの涙』(…と言うか、『ババールの涙』のモデルになったのがメリー・コルヴィンだったのを翌日に知る)
映画のラストを観ながら。「そう言えば、こんなジャーナリストに関する報道があったような?」…と、朧げな記憶を思い出した。
2019年9月19日 TOHOシネマズ/シャンテシネ1
重く痛く哀しく・・
いつもいつの時も
このジャンルの作品を観て更にそれが実話であればある程想うは・・
「戦場カメラマン、戦場ジャーナリスト」
「戦場」が生業になってしまう職業が必要の無い
平和な世界が来る事をただ、ただ、願い
祈ります・・
戦場の、普遍的な真実を追い求めて
英国サンデー・タイムズ紙の女性特派員記者のメリー・コルヴィン(ロザムンド・パイク)。
彼女の取材先は常に戦場。
21世紀に入って、世界各地で紛争は多発した。
彼女の信条は、「戦場の小さな物語」を伝えること。
「小さな物語」が示す真実が、大きな紛争の真実につながると信じている・・・
といったところから始まる物語で、実話の映画化。
不勉強ながら、メリー・コルヴィンのことは知らなかった。
映画は、2012年の内戦が続くシリアの街・ホムスの廃墟同然の街の空撮から始まり、そこへ彼女が語る、戦場での危機についてのモノローグが被さってくる。
伝記映画なのだから、この時点で彼女がここで死んだことは容易に予想がつくが、映画の焦点は、彼女の生死ではない。
映画はそこから時を遡り、2001年、彼女が左目を失明し、トレードマークともいえるアイパッチをつけることになった、スリランカでのエピソードとなる。
この後の映画は、戦場の彼女と、非戦場の彼女との様子を交互に織り交ぜ、かつ、彼女のトラウマとなったいくつかの出来事をフラッシュバックでみせる手法を採ります。
この語り口は、かなり巧い。
戦場での緊張感もさることながら、非戦場の彼女は、戦場体験によるストレスからくる苛立ちや無力感を常に抱えており、PTSDからさらにはアルコール依存症へとなっていくのですが、主演のロザムンド・パイクはそれを(まさに)鬼気迫る演技で我々に魅せていきます。
そして、絶えず、視力を失った左目に手を当てて・・・
なお、この動作は、終盤、シリア・ホムスでのエピソードへの演出的伏線になっています。
左目の視力を失った彼女は記事を書くことはできても、現場の写真を撮ることはできないず、結果、彼女よりもかなり若い相棒のカメラマン・ポール(ジェイミー・ドーナン)と行動をともにすることになります。
このポールの立ち位置もかなりよく、彼女は戦場でも非戦場でもベッドを共にする相手を見つけ得るのですが、ポールとはそうはならない。
いくつかの戦場を経、数多の死体を見、同僚の死をみた彼女の最期は、冒頭に示されたシリア・ホムス。
政府軍からの爆撃が続く中での生中継(音声だけだが)を行い、戦争の大義と実相が異なることを世界に伝えます。
そう、ここで(というか、ここまでの積み重ねで)気づくのです。
歴史は大局でなく、小さな物語(=真実)の積み重ねで出来ている、ということ。
その小さな物語に目を瞑ってはならない、ということ。
小さな物語を、「いまそこにいない者たち」は、知り、感じ、つなぎ合わせて全体をみなければならない、ということ。
原作は、マリー・ブレナーによるノンフィクション「Marie Colvin's Private War」だが、映画の原題は「A Private War」と不定冠詞の「a」がついている。
特定の戦争ではない、誰しもが経験する(した、もしくは経験しうる)戦争の「小さな物語(=普遍的な真実)」を映画製作者たちは表しているのだろう。
なお、冒頭のモノローグ、それはメリー・コルヴィン自身のものだったことが最後にわかり、さらに鳥肌が立ちました。
観る価値がある映画
普段はミュージカルやコメディものを好んで見ているのですが、今回は予告版を観たときから気になっていたので、映画好きの友達とレイトショーにて観劇してきました!
この映画には主人公のメリーが戦場の記者として、使命感を元に強く生きていくだけの物語ではありません。映画を通して写る彼女の心の弱い部分が戦争の無意味な残酷さを際立たせていました。
戦争で死ぬことがない政府は市民に対して不誠実に戦争を好んでしまっている。この映画を観て改めて思い出しました。
私の平和すぎる日常の中でたまにテレビのニュースで流れる、血を流して搬送されてくる小さな子供や、飢えに堪える人々の映像が、映画館のスクリーンと大音量の中で観ることによってより間近に感じられました。また、彼女のアメリカでの私生活と紛争地での生活に大きなギャップがあること、ボロボロになった街の広さから連想される本来の街の姿など、この映画の映し方は心に刺さります。
私は、テレビで流れる紛争地での実際の映像のような辛いニュースは苦手なのですが、この映画を観たことで知っておかないといけない事実なんだと、改めて気づきました。
心して鑑賞されたし。
悲惨な場面がたくさんあるし、爆撃の音がリアル過ぎて隣のおばさまは常にビクビクしてるし(笑)
ドキュメンタリーでなくても、実在の人物を映画化したものってなんか退屈なところがあるもんだけど、この映画に限ってそんな心配は必要ありません。
ロザムンド・パイクがスゴい、もうメリー・コルビンに成りきってます。実際に似ているのもあるけれどね。潔く脱いでいらっしゃいましたが、重力には抗えずお胸が…でも安心下さい、ラ・ペルラがあります。ラ・ペルラを身につけている時は美しいお胸です。さすが世界の超一流品であります。
メリーはとにかく信念が強い。自己満足にならないように記事を書くとか、爆撃機の種類なんかどうでもいい…人と人は繋がっているから犠牲者が問題なんだとか。目的に向かってまっしぐら、現場に到着する為に嘘も方便、ジムの会員証を看護師免許の様に見せ突破、これには笑った。常に煙草を吸っている。酒も浴びるほど飲む。もうほとんどオッサンなのだ。性別を越えないと戦場記者なんて出来ないだろうし、いろんなところでバランスを取っていたのでしょうね。
この映画を観て、未だに戦争で一般市民が亡くなり、貧困に苦しんでいることを再認識しました。戦地から遠く離れた平和な島国に暮らす者としては、頭の何処かで知っていても他人事になってしまっている現実があります。いきなり戦場記者にはなれないにしてもなにかしら出来ることがあるはずと感じました。
良心的な映画でした。
プライベート・ウォー (2018)
主演のロザムンド・パイクはゴーン・ガール (2014)で有名ですが、
最近見た 荒野の誓い (2017) あと私の好きな サロゲート (2009)でもブルース・ウィリスの奥さん役を演じてました。
実在の戦場記者メリー・コルヴィンの半生を描いた伝記ドラマ。
戦場は凄い爆撃の臨場感で私生活は重いPTSD(心的外傷後ストレス障害)でさらにアルコール依存症?な感じのシーンが交互に描かれています。
取材現場の体験と日常の非現実感が精神にダメージを受けてる様子がとてもリアリティがありました。
微妙に体をゆすったり煙草を持つ手が震えたりと演技っぽく見えなかったと思っていたらロザムンド・パイクはこの役を演じていた時に実際に精神的に追い詰められてたらしいです。
ともかく実在した戦場記者の人生を丁寧にそして壮絶に演じ切っています。
社会的な意義も有る大人向けの作品でした。
単館上映ですがぜひご覧ください。
戦争
戦場で取材をし伝えてくれる記者、映してくれるカメラマンがいるから、真実を知ることができる。真実は現場にしかない。そんな当たり前のことを思い出させてくれる壮絶な作品。
日本人にとって中東やアフリカの戦争は対岸の火事であり、そう思うのは仕方のないことだと思う。欧米と違って移民も少なく、戦地で戦う兵士もいない。ただ、知ることはできるし、知ろうとすることもできる。安っぽいかもしれないけど、平和な日本にいることの感謝をただ思った。
数年前、日本人ジャーナリストが人質に捕らえられ、世論を二分する事件が起きた。現場に行く記者には敬意しかいないが、あの問題は、彼がフリーであることも大きな問題だと感じた。本作の記者は新聞社に所属する記者である。日本も戦場取材が必要だと思うなら、大手新聞社が責任を負って使命を果たすべきだろう、とそんな余談をふと思う。
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