ある少年の告白のレビュー・感想・評価
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うーん
なんというか、子供の成長というより
親の成長や幼さを描いた作品だったように思う。
ある意味、主人公は父だと思った。
理解したい、いや、理解できない。
それすら、自分を正当化するような、予防線を張るようなもので、本当は理解する気がないのかもしれないなと思った
世間一般に異端とされるものを恐れるがあまり、本当に大切だったはずのものを見失ってしまう恐ろしさを感じた。
いや、あの父親は、息子そのものではなく、品性方向で正常な息子を愛し、求めていたのかもしれない。
この作品の大人たちは、誰もが責任から逃れようとしているように感じた。
母は最初から味方できなかったことを悔いているが、結局は父の決めたことだから自分は関与していないと逃れようとしている。
父も言わずもがな、少年の告白について大して聞きもせず矯正施設に送ることを決めたはずの過去を葬り、そのアドバイスをした牧師や友人に責任を擦り付けた。
これは大人の弱さを描いていると言っても過言では無い。
受け入れる、受け入れられることの難しさ
自分を、自分の考えを最も受け入れてほしい相手は最も近い存在である親、子供だ。わかってもらえないと、この上なく寂しく、悲しく、不幸だ。ルーカスがゲイのカミングアウトを両親にする際、ごめんなさいと告げるのが印象深い。親を思うからこそ、その考えにそぐわないことを知ってるからこそ、絞り出すように伝えた。親も、愛する子だからこそ、人並みの幸せ、一般的な幸せを送ってほしい、治してほしい気持ちから矯正施設に入れてしまう。この手の施設がある事を知らなかったし、苦しんだ人々が多くいることも知らなかった。共生社会、ダイバーシティと聞くようになったが、実際、自分の子だったら、苦悩するだろうし、その姿をラッセル・クロウが好演していた。父とは違い、次第に息子の気持ちがわかり、母親の愛で救うニコール・キッドマンも良かった。映画では父親が牧師で、キリスト教が描かれていたが、宗教も癒やしを求める者にとっては良いが決して押し付けるものではないと感じた。エンディングで実話だったことがわかり、親子が困難を乗り越えたシーンが映され、感動的。派手さはないが考えさせられるストーリー。
キリスト教社会派ドラマ
牧師の家族の息子がゲイで、キリスト教の同性愛者の矯正施設に入れられることに。
「同性愛者は罪である」ので矯正が必要という信念の元に自己否定をさせるという、愛のない矯正施設の実態。
何十年も前から同性愛者は生まれつきのものと言い続けられていますが、未だ叫び続けなくてはいけないのは悲しいことです。
時代にそぐわない宗教は、ただの人をコントロールするための道具だと思っています。
「自分自身の中に神様がいる」と映画中のセリフでもありましたが、邪悪なものとそうでないものって心の中で分かります。
宗教のルールに縛られすぎるなという社会派ドラマでした。
Boy Erasedというタイトル
洋画のタイトルが日本語にすると違う事がよくある。
Erasedという、「消し去られた」という強い意味を持つ単語をあえて日本語タイトルにしなかったのはなぜ?
確かに映画の内容は、ある少年の告白なんだけど。
この"Erased"がこの映画の一番伝えたいところだと感じた。
ゲイであるという、一般的にはマイノリティーといわれる性であるが故に、その人の人権も尊厳も奪われるようなシーンが多々ありました。
同じ人間なのに、なぜ、たかだか性が男性or女性に属さないだけで、あそこまで否定されねばならないのか。
それも誰よりも安心できる存在でいて欲しい両親に。
鑑賞中に何度も胸が痛くなった。
同性愛者嗜好を治療するための矯正施設で起こった、実話を元に作られた本作には驚くようなことがたくさんありました。
キャメロンが罰を受けるシーンなんて、ただただ腹ただしく、悲しくなりました。
棺桶置くなんてどんな頭してんのかしら。悪魔なんてホンマにおると思ってんのかい!このアホが!と。
泣きながら兄の背中を最初で叩く小さな女の子が、とても可愛そうだったけど、あの子の涙はどちらの涙だったのか、、、
悲しいシーンが多い中で、グッときたシーンはやはり母親のシーンでした。母親役をニコールキッドマンが演じていましたが、相変わらずお美しい。すごいねスターは。いつまでも輝きが衰えない。と、そこは置いておいて。
①ジャレッドに迎えに来てと電話をもらいすぐに飛んできたママ。迎えの時間でもないのに息子から電話がかかってきてすぐに応答できたのは、母親はうすうす施設のおかしいところに気付いていたのかもとも思った。
施設を離れる際に、サイクスに向かっていった「shame on you! shame on me too」のセリフ。
ど迫力でしたが、母親の怒りが相手にも、自分にも浴びせられていましたね。何者でもないオッサンが何偉そうに施設なんかやっとんじゃい!と。そして、愛する息子をありのまま受け止められなかった、寄り添ってあげられなかった自分にも恥を感じたのだなと。
②ジャレッドとレストランみたいなところで話すシーン。自分がいつものように夫に黙って従ってしまったこと、それによって息子にとても辛い思いをさせてしまったことを悔いていると告白したシーンはただただ涙が止まりませんでした。母親として我が子を守れないなんて、本当に辛かったでしょうから。でも、どれだけ遅かったとしても、人間は変われることを自身で気づけたことがお母さんの一番良かったところだと思いました。
映画の最後に実際のご家族の写真が2枚うつりました。
どちらも笑顔だったことが本当に良かった。
世の中にはたくさんの人間がいます。
その人間をたった二種類のグループに分けられると思うこと自体が私にとってはありえないし、意味がわかりません。
また、本作では宗教がとても影響しているなと感じさせられました。信仰というものは時に人を助け、救ってくれるけれど、人間は弱いからそのことに甘えてしまいます。一人一人が考え、他人の尊厳を邪魔せぬようにいられればなと思いました。
アメリカには70万以上の方がまだこのような施設に入所しているとエンドロールにありました。
自分が自分らしくいられるお手伝いをしてくれるのなら良いけれど、この映画のような施設であれば正直必要のない場所に感じました。
他のLGBT関連の映画とはちょっと違う趣き
それは実話だからだろうか。
軽々しくあらすじなど話してはならないような空気感が全体に漂う映画でした。
前半、少年が同性愛を告白するところ。
ここで怖いのが、
母親が平気で「導いてくれる」と言ったり、
父親が「お前を救う」だの言ったり、
さらりとそんな表現をしてしまうのが、怖かった。
一般的な人はきっと、その言葉の意味はわからないだろう。
彼が自分をさらに乏しめるような、
そんな表現をしてしまってることも。
カミングアウトしたとき、
言ってほしい言葉なんてないけど、
せめて、"息子は息子"だと、どんな人を愛そうが、
彼が愛する自分の息子であることには変わりない。
そう説明した上で、
息子の人生が幸福になるよう願うのが、
そばにいる者の努めなのではないだろうか。
母親は、自身の考え方を変えることで、
息子との関係性を取り戻すことが出来た。
「神は私を愛してる、私は息子を愛してる」
受け入れられないことは、どんな無茶な理論でもいいから
腑に落ちる何かを見つけることで、考え方を変えることができる。
それが本来の共存の形だと、思い知らされた。
母親の中で、宗教よりなによりも息子への愛が勝つのが
すごくよかった。
自分の兄弟と母親の関係を思い出したのだけれど、
彼らって他の何とも似つかないような愛の在り方を持っているよね。
『ベンイズバック』を思い出した。
(ジュリアロバーツの方が自然体でいいのだけど、
本作のニコールキッドマンは良かった。
とくに、施設から去る場面は最高。
美人過ぎて母親役には向かないと思っていたが、
あれはもう母以外の何でもなかった。)
それが出来なかったのが父親で、
終盤の息子と対面するシーンは見ごたえがあった。
彼はただでさえ、人と違うことでつらい目に合っているのに
何故さらにつらい目に合わなくちゃいけないんだろうと思った。
家族にも受け入れられないって、そんなつらいことはないよ。
そしてこの映画のもうひとつのテーマである「治療」
私から言わせてもらえば
「治療で変われるものなら、そりゃ変わりたいさ」
ってなところで。
それ程に治療って無意味というか、
なんだろう、目ん玉ないのに眼鏡してるみたいな。
(全くうまくない例えだし、不快な文章になってしまった)
でもそれくらい、本当に無意味。
だって、治す"根本"は誰も知らないから。
当事者にだって、何故異性ではなく同性を好きに
なってしまうかってわからない。
原因なんてないし、傾向はあるだろうけど。
しかも、この矯正施設の悪いところって、
未成年ばかりじゃないですか。
同性愛者の人って、大人でさえ、
悩みや葛藤抱えてる人が多いと思うんですよ。
その途中経過である思春期に、偏った刷り込みを
与えるなんて重罪ですよもう。
個人に対する"社会からの否定"だもん。
本当はその逆で、そういった人々が
傷を癒したり、共感しあったりする施設が必要なんだ。
大体、あの施設にいる少年少女は内側が見えないし。
隠しているかのように、殻にこもるようになってる。
ドラン演じた彼も非常に嫌な役どころだったけど、
何かを内に秘めた末路な気がします。
(ドラン、コンプレックスを感じる演技が
この作品にマッチしてた。)
ラストシーン。
彼は懲りずに左手を窓から伸ばす。
まるで
「どれだけ傷ついても、自分の欲望に従う」
ように。
子を思う親の気持ちの難しさ
本当は映画館で観たかったのですが、ぼやぼやしている間に公開終了となっており、今回DVDを借りてやっと観ることができました。
本編を観終わった直後は、なんだか前時代的でピンと来ない印象でした。
それは、自分や家族は無宗教であること、キリスト教の発想・知識がないこと、良くも悪くも日本で生まれ育ったからリアリティを持ってこの映画をとらえることができかったのかな、と。
全体の感想として、説明的でないというか、結構削ぎ落している要素が多いと思いました。
未公開映像を見て、あ、ここはこうなっていたんだとか、ここはそういう意味だったんだと、納得する箇所もあったりと、本編だけでは自分にはちょっと情報が足りていない部分もありました。
両親の形も方向性も違う愛が、様々な行動となって表れ、それによって傷ついたり、助けられたりするジャレットの姿に、胸がいたみました。
同性愛に関する作品や映像を見ていると、マーシャルのような父親はたびたび見かけます。
彼らは実際はどうであれ、本気で子どもを思っているつもりだし、それが正しい行いだと、導きだと思っている。
だから彼らは彼らなりのやり方で子どもを愛しているのだと、それを理解すると少し救われるとともに、絶望すら感じます。
自分を肯定して、自分は変われない、変わるなら父さんだ、というジャレットに努力すると応えるマーシャル。
エンドロールに笑顔で抱き合っている実際の親子の写真が映し出されます。
いま原作者がどういう状態でいるのか、きちんと調べてはいないのですが、理解した、否定しないといって、実際は線引きをして自分とは違うものと拒絶している、そんな父子となっていないでほしいと、願います。
アメリカはプロテスタントの移住で始まった国だったわ
誰もが習う 清教徒革命(ピューリタン革命)
その中にはかなりストイックなモルモン教などがあり、昔読んだシャーロック・ホームズの「緋色の研究」で、ソルトレイクシティに彼らが住み着くまでの話が出て来る。
昔 日本で活躍していたケント・ デリカットというアメリカ人もソルトレイクシティ出身のモルモン教徒だと言っていたっけ。
ケネディは アメリカ初の カトリック系の大統領。つまりそれまで同じキリスト教徒でも アメリカ合衆国における大統領はプロテスタント派だった。
日本人の キリスト教徒ではない人間の多くは
ローマカトリックもギリシャ正教も ロシア正教も イギリスのそれも 全然 区別がつかない。
この映画で アメリカのキリスト教徒全てをひっくるめて考えてはいけない。
そういう事も思い出しながら見た。
アメリカ合衆国という国が、日本人の思う 自由の国 なんかじゃない事をしみじみ思いながら。
クライマックスは 矯正施設から母とともに抜け出す場面。
自宅のパソコンで、昨夜の残りのサーモンのレモンクリーム焼きを食べながら見ていたのに
喉に詰まらせそうなほど 号泣した。
私の中で それまでの彼の けなげさが 溜まりに溜まっていたのがここで 堤防決壊となった。
そう言えば、去年イギリスに行った時に観光したウィンザー城の受付の男の人は 一見してLGBTの方だろうなと判ったが、同行していた長女が、そういうバッヂを襟章につけてたと言っていた。
世の中は いろんな方向に 分裂している。
P.S
終盤 父と息子が 玄関先で話すところで
父がenoughって言うのを
「やめろ」っていう字幕じゃなくて「もういい」にしてくれたらいいのにな。
そういう字幕に関する差異は時々ある。
変わるべきは僕じゃない。
よかったです。私の中でのジョエルエガートン株が急上昇…
監督して、自分は悪役演じて。ねぇ。
同性愛者にたいして、「治療できる」という考えがあることにガックリきます。昔の話ではなく今の話ってことにも。日本でも同性愛の治療だか矯正だかの発言をした政治家がいたので、想像力が欠落している人はごまんといるってことです。残念ながら。
監督最新作がなかなか公開しないグザヴィエドランが、だいぶ精神を病んでいる矯正施設の仲間として出演しています。久々に見たけど、やっぱいいわー。ちょっと体が分厚くなった感じしました。マチュアな魅力ですな。
ルーカスヘッジスもますますのご活躍で。私のみたい感じの映画にばっかり出てくれてありがたいよ。次回作のベンイズバックも楽しみ。
ジャレッドは牧師の息子で、優等生で、高校時代の彼女もいるけど、男女の性交渉に及び腰で、彼女の誘いを拒否し続けて結局卒業と同時に別れます。
入った大学で仲良くなった男子にドキドキしちゃって悩みます。で、相手男子も隠れゲイらしく、彼からレイプされてしまいます。
その事を黙っているのに、暴露を恐れたレイプヤローは実家に匿名の電話をいれる。
息子がキリスト教の教義の中に居場所がある子だったら、ラッセルクロウ演じる父は誠に尊敬すべき良い父なんだろうとも思った。
なんだけど、キリスト教に限らず宗教って古い考えだから、今の人間を包み込めない。性能が前時代的なのに、それを認められない。私はそれを思考停止だとして断罪してしまう。
傲慢だとは思うけど。
なので、ジャレッド!そんな父親も土地も捨てちゃえ!って気持ちでした。
ニコール・キッドマン演じる母が良かったです。
夫に従うだけだった妻から、息子への愛のために夫に背くことにしたわけで、かっこよかったです。
そして、多分ニューヨークに移り住んだジャレッドは、父母に入れられた矯正施設の告発記事をかいたんですね。で、帰省して父と向き合います。
ジャレッドが父に言いました。変わるべきは僕ではなくてあなただと。
わたしはスクリーンのこちら側からそうだ!と(心で)叫びました。
父と子の関係を続けたいならば、変わるべきはこの場合父です。同性愛者であることが愛せない理由としている、父の方が変わるべきです。
それ以外はないです。ジャレットはまったく変わる必要がないです。
ともすれば少数派を責め、弱者に変化を求めてしまうのが、多数派・強者の悪癖で、私自身も多数派に属する時、少数派を非難し、変化せよと思ってしまいます。
が、多数派が間違っていると思います。なので、自分が数の多い方にいる時の振る舞いは厳しくチェックしないとと思っています。
ジャレットの宣言に、高潔…尊い…と思い、ジャレットにスタオベしました(心の中で)。
字幕翻訳・松浦美奈
キリストの教えでは罪なのか
どうも日本人には理解しずらいと思うのが宗教の絡む部分じゃないか。キリスト教の教えは、神の子供である私達は男と女で子を成すことが基本であり、そうでないと罪だという。その罪を犯す自分の子供をなんとかして治そうとするのだ。その施設がどんなところかもわからないのに預けてなんとかしてもらおうとする。お金を払って親としてやるべきことをしてると勘違いする。
キリストの教えに逆らう子供を持つ親の気持ちが日本人の私には実感できないからあまり良い点がつけられなかった。
でも、この映画の救いは子供の心に純粋に向き合い救い出す母親の強さだ。ニコール・キッドマンの演技に惹きつけられた。そして自分の力で正しさとは何かを掴む主人公の男の子、こういう子を育てられたことに父親も誇りを持って欲しいと思った。
作り手の作為がはたらき過ぎた感
これが現代(せいぜい近過去)の物語だというのが、なんだか信じられないというか、未だに信じていないというか。未成年の同性愛者を「矯正」する施設と言うのが未だに存在するという事実。私はまったく知らなかったし、その中で行われていることに関しても、それが現代に行われていることだというのが俄かには信じられないようなもので驚愕した。「ホモフォビア」とまでは行かずとも、同性愛にちょっとした気まずさや違和感を覚える人がいるにしてもそれを「矯正」し「治療」しようという価値観が未だに残っているなんて。
作り手も、そういった「矯正施設」という場所がいかに狂気的であるか、悪質であるか、というところを社会に向けて発信しなければという思いがあったのだろうと思う。そういう意義をもって映画が作られるのはもちろん悪いことではない。
ただこの作品が惜しいなと思うのは、作り手がその矯正施設を"ヤバい"場所であると意識しすぎてしまった、あるいはそれを演出しすぎてしまったところだと思う。
施設が"ヤバイ"というのは映画を見ている観客が自ずと気づくべきことであって、演出で押し付けられるべきことではない。宛らホラー映画の如く施設内の出来事を描写して、施設の狂気を演出してしまうとそこに作り手の作為が加わって、観客としては作り手の価値観を通して映画を見るような感覚になってしまう。言ってしまえば「ドラマ」ではなく「報道」により近いものになっており、施設の外では一人の少年とその家族のドラマとして成り立っている内容が、施設内に入ると途端に「矯正施設はこのようなことをしているのです」「施設内ではこのようなことが横行しています」「施設はこんなに酷い場所なんですよ」といったガイダンス的様相を見せ始めるのが、映画全体として捉えた時に終始ちぐはぐした印象を受ける理由かと思った。
伝えたいメッセージは重要でありもちろん異論もない。ただ映画としてそれを表現するスタンスに少々のずれを感じ、そのずれが時に「作為」に見えてしまう嫌いがあった。それでは本来伝えるべきメッセージが適切に伝わらなくなってしまうし、せっかく意義のあるテーマなのにそれが届き切らないのは受け手としてももどかしく思った。
排他性
私が洋画を観だした80年代後半で同性愛を描いた作品は「モーリス」位しか思い出せないのですが、昨今ではLGBTを描いた作品が普通に公開されているので昔と比べると世の中がえらく変わったものだと感じています。ただそれを認めない人達も一定数いる訳で、今作を観ているとアメリカはリベラルと保守派で全く違う世界に生きているのだなあと痛感しました。
時として神の存在は人を救いますが、逆に人を排他的で攻撃的にします。現に今作で描かれるキリスト教福音派は同性愛や中絶に反対しているだけではなく、イラク戦争を始めたブッシュや排他的なトランプを支持してます。福音派が持つ排他性と攻撃性が戦争したい戦争屋とちょうどコミットするのだと思います。
ラストでヴィクターもまた矯正施設に送られてきた側の人間かもしれない事を示唆していましたが、ありのままの人格をお互い潰しあう宗教とは何か?を思いしらされた様な気がします。
父親の想いも汲んでほしい
これが最近の話であり実話という難しさ。かと言って、いざ自分に置き換えて考えてみると、いきなり息子の告白を素直に受け止めることが難しいのも分かる。そして息子本人からしたらどうしようもないことも分かる。
両親、特に父親は、自分の体面だけではなく息子を想っての行動だった事も分かるので、最後の息子との会話がとても悲しかった。息子にも分かって欲しかった。
でも、今は笑顔で一緒にいられているようですね。良かったです・・・時間をかけて伝わる想いもあると信じたい。
また、自殺してしまった少年がとても悲しく、苦しかった。上手く生きられない少年に救いが何もなかった事がもどかしく、辛かったです。
息子が人間であることは認めるべき
初回は、花粉症の薬に負けてしまった。
再度観ることにした。作品の出だし、やはり単調であり、前回同様に、睡魔が襲うかもと不安になった。
イーモンズ役の高校生が、どこかの作品で見た!という印象を受けた。やはり「マンチェスター」、「スリー・ビルボード」に出演されていた。目立たないが、(記憶に)残る俳優であった。2回目は、しっかり観られた。結構、ラスト泣けた。同性愛者の矯正治療施設に、半強制的に入らされるジャレッド。作品が進むうちに、この施設の異様さに気付く。こんな施設があることが異常なのではと思うようになる。「心の清算???」、訳が判らない。
父は、プロテスタントの教職者である牧師。同性者である息子である、彼を施設に入れさせる。
この牧師役が、ラッセルクロウだ。以前、「グラディエーター」のあの強靭な肉体を持つ彼ではあったのだが、今や観るも無残。
ラストに、アメリカの国内には、TGBTを強制治療する施設が幾つもあることを知る。サイクスの行動、治療にあたる彼の神への異常な尊さ敬虔さ、そして施設内の人間が、人として人間性が欠けている。治療を行っていたキャメロンの死は、果たして「自殺」であったのか。施設での治療に耐えられなくなったジャレッドが罵倒しながら施設を逃げだす場面は、彼の行動こそ正常な人間に見えた。4年後、父と子が再開する場面、車の窓からの場面は、う~ん泣ける場面だね。再度、見直して本当に良かったと痛感した。
否定されるつらさ
息子にゲイだと告白された両親が、どうしたらいいか
わからず彼をゲイを治すという施設に入れる
そこでゲイを治すと言う名目で
ひどい仕打ちを受けていく
これは実話というのだから驚く
ゲイの人がこの作品を観たらどんなにつらい思いをするかなと
思った
好きを治すことは出来るのか?
極端な話 異性が好きな人をそれはいけないと
同性を好きになるように治すと言われて同性を好きになれるか?
施設に入ってるある青年が
「ふりをして過ごすんだ」と話しているのを聞いて
施設の行っている行為がいかに愚かなこととわかる
クライマックスでは息子を守ろうとする母親ニコールキッドマンに
同じ母親として 心の中で拍手した
このシーンは感動した
息子がゲイであることを受け止めきれず
しかし彼を愛していると言う複雑な思いを吐露する父親を演じるラッセル・クロウに 私は泣いてしまった
施設に入る前に家族でもっと話すべきだったと思う
しかし彼が入ったことで実態を世間に公表できたのだ
人間は何度も愚かなことを繰り返す生き物だ
タイトルなし
確かに、この映画の中で行われている事は、忌むべき事だし、現実のアメリカ社会で未だに多い保守派のアイツらはまーどうしようもないやつらだと俺も思う。
それに、社会から、どころか家族からさえも謂れのない差別や抑圧を受けるハードモードどころじゃない人生の中で闘いを選んだ主人公、というか原作の筆者はそりゃ素晴らしいですよ。
でもそれと映画が面白いかは全然別問題で…。
仕方がないことではあるんだけど、俺は日本人だし、同性愛とかダイバーシティに対するスタンスも、まぁ多分普通の範囲内なわけよ。
だから、最初からこの施設に対して疑いの目を持っている、比較的俺らよりの主人公の目線で進んでく施設内のパートがまぁ退屈。
監督の前作にあった倫理観のぐらつく感じなど一切なくて、「まぁそりゃあそうだろうね( ᷇࿀ ᷆ )」で進んでく。
主人公が施設の実態に気付いたであろうところも「知ってた」で片付く。
何かもうちょい、この施設内の方がやはり正しいのではないか…?と思わせる何かとかなかったんすかね。
だって最初から家系図持ち出してあんなことさせてるんだぜ。
鼻持ちならねぇよな!
要は、俺が普通の日本人だからかもしれないけど、「この施設って普通にダメじゃね…?」ってなっちゃうんですよね。
入れられてるヤツらみたいに洗脳されない。
なので、主人公が傷つけられたとか言っても、されたことを鑑みたりしないとストレートに受け取れない。
それと、終盤に唐突に覚醒するニコール・キッドマンも問題で、「アメリカ社会が抱えてる問題の共通認識」が前提としてその上に成り立ってるだけで、この映画の中で彼女が虐げられてる場面なんてないんですよ。
だから、すげぇ取って付けたように見える上に、この映画の中で片付けるべき問題がぶれる気がする。
いや、最初から扱っとけばいいんだろうけど。
そんな終わり際で言われても…みたいな。
後は、結論の付け方も何だかな…。
今回は父ちゃんの設定が設定だけに仕方ないかもしんないけど、やっぱ逆差別とか、それって結局マイノリティだから守ってって事じゃないの…?ってなっちゃいますね。
その前に父ちゃんが渡したものとかすごくよかっただけに、過渡期的な結論の付け方は微妙かな~。
あとは、ニコール・キッドマンがかつらっぽいのが気になったかな( ᷇࿀ ᷆ )!
それと、車の窓から手を出すアレ、自由とか自立の象徴かもしれねぇけど、「高速道路で手を出すとおっぱいの柔らかさ」みたいなの浮かぶよね、日本人はね( ᷇࿀ ᷆ )
男らしさって何
幸せそうな幼少期から一転、不穏な音楽の中、青年となった主人公がとある施設に入って行く、というサスペンス調の冒頭部分から引き込まれました。
主人公が入ることになった同性愛者矯正施設の描写は嫌な圧迫感緊張感が漂い、自己否定させ救済を謳う人格無視の精神論的狂信的なプログラムはやはり理不尽で恐ろしいです。
いつの時代だよと思ってしまいますが、現在でもこのような施設が存在しているということで、更に恐ろしいです。
とは言え、日本でも公然とこういう偏見がまかり通っているようで、他国の話とも言い切れないような気もします。
従順な良き妻という価値観に縛られた女性への視点もあり、これもまた同様に。
不穏な施設の描写とともに、同性愛者であることを自覚する主人公やその両親の、戸惑い、葛藤などの丁寧な描写も印象的です。
やはり役者陣の演技がそれぞれに繊細で素晴らしかったです。
一定の価値観から外れた者を悪として扱う社会の理不尽さを見せるサスペンスと、社会の理不尽な価値観に抗う青年と家族の人間ドラマが、上手く組み合わされていたと思います。
自分自身を認め家族とも認め合える、希望の持てるラストは良かったです。
しかし、矯正施設での、男、男と連呼するけど男らしさって何だよという中で、言うなれば最も男気を見せた青年の結末は、なんとも辛いです。
家族から認めてもらえない絶望からか、主人公のように認めて受け入れてくれる家族の誰かがいれば違ったのかと、やるせなさが残ってしまいます。
宗教の教義と、社会の常識の相容れない関係性
"教会の常識は、社会の非常識"という言葉がある。時代とともに常識は変化していくからだ。
本作は、クリスチャンではない日本人が観ると、単なる"LGBTQ映画"のひとつとなってしまう。しかし、米国社会におけるキリスト教根本主義と、LGBTQを始めとする多様性受容社会の相容れない関係性を描いている。
牧師のひとり息子として育った大学生のジャレッドは、自分がゲイであることを両親に打ち明ける。両親はジャレッドを、教会の紹介する同性愛者矯正施設に、入所させる。
"矯正プログラムの内容を外部に漏らしてはいけない"と約束させる、衝撃的な内容は、ガラルド・コンリー原作の「Boy Erased: A Memoir」(「消された少年:回想録」)で暴露された実話である。この施設は"洗脳"以外の何物でもない。
同性愛を"病気"と考え、"治療する"という立場しか選択肢のない牧師の父と、自ら"治そう"と苦しむゲイの息子の人生観の隔たり。"多様性"という言葉では信念を変えられない、"宗教"の枠組み。
主人公一家は、バプテスト(Baptist/浸礼教会)である。"浸礼"の名のとおり、本作の矯正プログラムの中にも、全身を水に浸けて行う、"浸礼"の描写シーンがある。クリスチャンではないと、こんなことで、"同性愛がなくなる"と本気で考えていること自体が滑稽だったりする。
アメリカ合衆国で、最も宗教人口が多いのがプロテスタント系で、なかでもバプテストは最大の割合を占める。
また極端なバプテストは、"聖書の無誤性"を唱えており、聖書が原典において全く誤りがない神の言葉であるという前提で活動している。
この立場においては、"歴史と科学の分野を含んで完全に正確"とされており、劇中でも、"神と科学"という絵画展のシーンが出てくる。
本作は、俳優でもあるジョエル・エドガートンの監督第2作。前作「ザ・ギフト」(2015)は、学生時代のイジメの被害者が大人になって、何も覚えていない加害者をじりじりと追い込むイヤミス(嫌な気分になるミステリー)の秀作だった。
立場の異なる人間がそれぞれどう考え、感じているのかを、極めて客観的に描写しているという意味で、本作と共通点がある。
主人公ジャレッドの両親役がラッセル・クロウとニコール・キッドマンというのも豪華だ。また矯正施設の入所者のひとり(敬礼する青年)として、グザビエ・ドラン監督が役者として出演している。
ドランは若干30歳ながら、「たかが世界の終わり」(2016)で、カンヌ国際映画祭グランプリを獲得した新進気鋭の監督。その作品に、世界中の映画ファンの目が集まっている。また自身もゲイであることをカミングアウトしている。
エンディングで、父の経営するフォード自動車販売店(米国車)から出てきた、主人公ジャレッドは、トヨタ車に乗って旅立っていく。意図しているかどうかは別として、まるで伝統や過去に固執するアメリカ社会からの離脱を象徴している。
しかし一方で、このような矯正施設が、いまなお全米30州以上で合法とされている事実が最後にテロップで紹介される。"同性愛"は病気ではない、と映画は訴える。
(2019/4/28/TOHOシネマズシャンテ/ビスタ/字幕:松浦美奈)
難しいテーマをわかりやすく。
テキサスの牧師さんの愛されて育った息子さん。
大学入学で、自らの性がゲイであるこを知り悩む。
キリストを神とする教会は許す訳にはいかない。
同性愛をなくす矯正施設に参加することになる。
原題は、ボーイズイレイズド消された少年だ!
少年にルーカスヘッジス 牧師さんにラッセルクロウ
お母さんに美しいニコール・キッドマン
監督は、ギフトのジェルエドガードン
施設責任者をボーラーぽく演じてた。
恐ろしい
自分としてはあまり馴染みのない同性愛強制施設の話だが、これって怪しいセミナーとか宗教とかに洗脳されるプロセスと同じなんじゃないか。あの場の雰囲気とか圧力を感じて恐ろしかった。ジャレットは自身の勇気と母親の理解もあって抜け出すことができたが、納得できない気持ちを持ちながら圧に抵抗しきれなかったキャメロンを思うと悲しい。こういうのって、虐待する側も正義と信じているところが恐ろしいよね。なんか最近の世の中にも同じ匂いを感じてイヤになる。
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