「犠牲により捻じ曲げた現代社会へ」天気の子 felixさんの映画レビュー(感想・評価)
犠牲により捻じ曲げた現代社会へ
現代社会からは多くの不便が消え去った。表だけみれば実に快適である。
しかしその快適さはを生み出したのは技術的進歩ではない。弱者の犠牲によるものである。
そして我々は犠牲に目を向けようとすらせず、或いは都合のよい解釈により美談に仕立てるのである。
『天気の子』の舞台は東京、そこは連日の雨。
そう、雨なのである。今の社会の本来の姿は豊かでも何でもない、晴れでもなく曇りですらない。
その東京の空を晴らすのがヒロイン陽菜。学生という点は前作の三葉と変わらないが、その立ち位置は全く異なる。親を失い、弟のため年齢を偽り職を探す弱者である。
ただそこに居ることすら許容されない世界で、彼女は「晴れ女」という自身の価値を実感できるものに徹する。その代償を知りながら。
セリフ上は、陽菜がその代償を知ったのは夏美に教えられてとされている。ただ実際のところ、明確にではないにせよ最初からわかっていたのではないか。幾度か見られた太陽に手を翳すシーンがそれを物語る。私はあと何度、晴れを贈れるのだろうか、と。
そして最後、自身と引き換えに東京全域に晴れをもたらした彼女には、ひとことの礼すら向けられない(厳密には萌花のような例外もいたが)。
本来なら雨のところ、どうして晴れたのだろうか。誰のお陰だろうか。そこには一切目を向けようとせず、ただ与えられたものを貪るだけの存在に世界は埋め尽くされている。前作のアナウンサーのセリフ(大変な幸運と言うべきでしょう)と同様、彼らは決して知ろうとしない。
帆高の憤りは至極尤もなものであり、その憤りを理解できない人々も実社会のままである。
弱者の善意を踏み台にして、無理矢理捻じ曲げ築き上げた今の豊かで快適な世界。
これまではそちらを選ぶよう強いられてきたのに対し、本作では世界でなく陽菜が選ばれた。
陽菜(愛)を選んだともいえる一方で、世界に対し「無神経でただ貪るだけのお前たちなど救うに値しない」と突き放したとも云える。
相手が目の前にいないと「ありがとう」のひとことすら言えない社会に、誰かが犠牲になってまで支える価値など無いだろう。
老婦人と須賀、ふたりの大人からの言葉にしても、単に「良い気遣い」とは受け取れない。
現実であのセリフを口にできる大人は皆無なのである。つまりは観客の度量が試されているのである。
若者(穂高)が陽菜を選び、大人(須賀)がその選択を受け止め認める。たとえ本来の雨模様に戻ろうと、犠牲により捻じ曲げた晴れの時代が終わることを切に願う。