「『君の名は。』とは違う『裏・君の名は。』 「それでも世界は美しい。」「この世界で生きていく。」」天気の子 mary.poppinsさんの映画レビュー(感想・評価)
『君の名は。』とは違う『裏・君の名は。』 「それでも世界は美しい。」「この世界で生きていく。」
万人に伝わる内容でない点は興行映画として残念ですが,酷評する人達は物事の表面しか見てないと思います。数々の社会問題の中それでも生きて行けと,未来を生きる若者達への応援歌。比喩や象徴にも気づけなければ,奥深さを理解できない映画です。子供向アニメとは言えません。
登場人物への感情移入を容易に許さず,社会の不条理や人間の愚かさも達観し世界を俯瞰で見る描き方は『もののけ姫』に似ていると感じます。俯瞰的他人目線,かつて帆高同様無茶だった年齢を超え大人になった須賀や監督の目線とも言えそうです。同時に『ほしのこえ』『雲のむこう』のように思春期の君と僕だけの小さな世界が全てで感情の揺れが世界破滅にもなりうる「セカイ系」でもあります。全く正反対の2つの目線を併せ持つ稀有な作品と感じました。
★監督のジブリへのリスペクト
見て感動した!と爽快に叫べず「自然と人間共存できず矛盾を抱え生きていく…ジコ坊の最後の言葉の意味…」もやもや感がもののけ姫に似ています。スタッフも,神社の美術担当に山本二三氏,声優に島本須美氏,倍賞美津子氏を配し,あえてジブリを連想させる狙いを込めたと思います。『星を追う子ども』的に。後半,空から落ちる2人の場面がラピュタ・千尋に似ているのも,自己犠牲が多いジブリへのアンチテーゼとしてあえて対比してるのでしょう。最後「それでも生きてく」はナウシカ・もののけと同じテーマです。
ジブリといえば,作品同士の繋がりに気付き対比させると,より感動深まります。例『火垂るの墓』『トトロ』は同時公開ポスターで同じ場面を描き,対比すると戦争と平和の落差がより深く刻まれます。高畑監督が「もし俺がトトロを作ったらこうなる」と作った『ぽんぽこ』はシニカル目線で,悲痛な場面でも容易に感情移入させず観客を泣かせてくれません。自然破壊する人間が悪役,狸は悲劇の主役と単純明快に線引せず,仲間が死んでも命の重みをすぐ忘れてお祭り騒ぎする馬鹿な姿に,人間の愚かさも投影します。命懸けの狸,人間は愚鈍に酒呑み談笑。皮肉や批判と絶望を込め(けれどコミカルファンタジックに)人間社会に警鐘を鳴らします。最後は微かな希望を信じるけれどバッドエンド。いずれ滅びる未来でもどうにか生きていく。(天気と物語が似てない?)そして『ぽんぽこ』の続き『耳をすませば』は同じ場所,「俺達の故郷を返せ!」と叫び死んだ動物達の屍を踏む多摩ニュータウンに雫達は生活し「コンクリートロード♪山を削り谷を埋め」と自分達人間の生活を皮肉りながらも「カントリーロード♪」この町が私の故郷,友達や好きな人と笑って悩んで生きていく,と夢や希望を歌います。
気づかぬ人もいるけれど,光と闇の表裏一体を描くジブリの姿勢に,新海監督は共感や敬意を表明したのでしょう。同様に『天気の子』も『君の名は。』と対比して見えるものがあります。
★『君の名は』対比
『天気の子』は『裏・君の名は。』であり表裏一体の作品と解釈します。『君名』はハッピーエンド・エンタメだが今作は新海監督の初期の持味に戻っています。前作で「綺麗すぎて東京に見えない」と酷評され,今作はあえて「東京の汚い面」を前面に見せつけ「じゃ,あなたの見たかったのはこういうのでしょ?」と監督の反骨精神と茶目っ気を感じます。しかしそれだけでなく監督は,汚れた世界の風景にもひとすじの光と美しさを見いだせる目を持つ人です。薄汚れた路地のゴミにも風俗店のやくざうろつく街角にも,お金のため身売ろうとする少女の瞳にも,隠された物語を見出す人です。これもまた現実であり,そんな場所に生きる子供や仔猫の命もあるのだと。
共通点は後半,帆高(三葉)が夏美(てっし)バイクに助けられ「私達お尋ね者だね(これで2人仲良く犯罪者)」そして走り続ける(東京と田舎,男子と女子,の立場は逆転)。同じネタの使い回しと酷評されるが,いや絶対に監督は意図的にあえて『君』を思い出させ対比させています。同じシチュエーションを描くことでテーマの違いが際立ちます。『君』では好きな人を救うことが村を救うことになるので正しい行動と信じて迷いなく動け,みな納得できるハッピーエンドに。でも今作は好きな人一人を救うことが世界を沈め,希望や笑顔を失わせてしまう。選択を迫ります。「世界を沈めても自分達は幸せなバカップル」と酷評されるが,人命を選ぶ事は悪いの?自分の大切な人の命を代償に世界は元に戻ると言われたら,本当に自己犠牲を即決するの?物語としては賛否両論でも,人命だってかけがえないって監督は訴えてるのでは?
誰かに必要とされたのは初めてだった孤独な家出少年と,親もなく世間から捨てられた身の上で,命を削り巫女となることでのみ世界から必要とされる少女。偶然出会った二人は心を通わせ,かけがえない存在となる。「たとえ世界中を敵にまわしても僕だけは君の味方だ」そう言ってくれる人が,親でも友でも誰でもいいから世界に一人いれば命を失わずにすむ。「君にしか無い特別な能力とか個性とか,そんなの失くしてもかまわない。ただ君という存在が生きていてくれればいい。」
これは『君名』には無かった点です。就職やいじめや家庭内暴力や…色々な悩みで苦しむ全ての人へ,監督が届けたいメッセージだと思います。ずっと島で孤独を感じていた帆高が誰かに言ってもらいたくて誰も言ってくれなかった言葉。それを帆高自身が陽菜に言うことで帆高自身も救われたのだと思います。雨が降り続けいずれ沈みゆく国。ファンタジーだけどこのどしゃぶり閉塞感は今生きる私達みな現実に感じているのと同じです。(年金破綻,生活不安,環境問題,様々な問題を押し付けられる子供世代。高齢の政治家達みな「自分さえよければ」)。不安の中,ソフィー婆さん「天気なんて昔から…」の台詞は「あなたのせいじゃないよ,自分を責めなくていい,どうか頑張って生き抜いて」慰めと励ましです。個人的にはソフィー婆さんよりナウシカ婆さんに言ってほしかったけれど,ナウシカは自己犠牲ヒロインの象徴なので本作と正反対の位置づけ。世界は救わず矛盾を抱え笑顔で生きてくソフィーがより本作の主題に近いからでしょう。『ハウル』も世間で「最近の宮﨑は…社会問題を取り入れてるのはわかるが,伝えたいことがわからない,内容薄い」と酷評されましたしね。
★「気持ち悪い」酷評多数?
しかしそれは全て社会の現実です。ラブホは行き場の無い子供の最後の砦。陽菜のバスローブチョーカー姿を性的と酷評されるが,母親形見のブレスレットを肌身離さず,まして自分の死を予感している時だからこそ御守として身に着けるのは自然な行動。風呂上り(巫女としての禊)に身に着けるからこそ観客が違和感に気づき,その後に空から落ち神社に倒れチョーカーが切れたのが際立つ。ただのアクセでないと観客が気づきやすいよう誘導してくれる演出。コンビニ食に喜ぶ貧困家庭(経済だけでなく親の愛情に欠ける)でもたくましく生きようとする子供達。是枝裕和『誰も知らない』のように,社会や大人の不条理に翻弄されても生き抜こうとする子ども達の姿を描いています。
「気持ち悪い」という言葉は,陽菜が出会ったばかりの帆高の銃所持を知り,言い放った非難と拒絶の言葉。「あなたを理解できない,理解したくもない」という感情。この映画を理解できない,つまらないという人が言い放つ言葉と全く同じなのは印象的です。あの場面の台詞として他の語彙もありそうですが,あえて「気持ち悪い」を選んだのは,監督が観客の感想も全て予想してのことでは?特にセカイ系登場人物となる思春期世代にとって傷つける破壊力絶大な語です。エヴァTV最終話ラストシーン,世界に2人きりの時にアスカの一言「気持ち悪い」シンジ絶叫。他人を拒絶する最大の言葉として,監督は自作もセカイ系要素を含むことを念頭に,絶妙な言葉を選んだと思います。
★「登場人物に感情移入できない」酷評多数?
帆高の家出の理由は語られません。確かに知りたいけど,自分なら帆高に問い詰めようとは思いません。島で自転車で走る帆高,頬に殴られた痕。『ライ麦』片手に「どうしても家に帰りたくない」と呟く。それだけで余程ストレスや悩み抱えて辛かったとわかります。いじめか家庭内暴力か…理由は不明でも。よく逃げてきたね,自傷や自殺を選ぶくらいなら,家出したのは偉い!と褒めたい気分。理由を聞かない須賀と夏美,答えない帆高に「そっか」と微笑む陽菜。他人を信じ受け入れる究極の優しさです。現実社会では実に得難いふれあい。3人に出会えたことでどれほど帆高は救われたことでしょう。だからかけがえのない存在となったのです。
帆高の持っていた本『ライ麦畑でつかまえて』は大人社会への反抗,汚い悪口がこれでもかと続き,しかし汚れた世界の中で全てに嫌気がさした少年が,たった一つだけ信じられる美しい光(純粋な子どもである妹の存在)を守りたいと希う物語です。99%が反抗期の世間への悪口,ほんの数行だけ純粋な願いが光る小説です。帆高はひとすじの光を追いかけて東京に来て,汚れた世界だけど守りたいものを見つけられたのです。
映画では時間制限あるし,個々の詳細な理由は省略した方が,万人が自分を投影しやすくなります。「人それぞれみな何かを抱えている」事のみを伝え,説明無い描き方。説明されない心情や背景について考えようともせず「感情移入できない」と突き放す観客は,あの高井刑事と同じ側だと感じます。見事に悪役ですが,新海監督がそんな単純な登場人物を描くはずありません。あれは一人のキャラではなく,現実社会にいる「何もわかってくれない,わかろうともしてくれない大人達」の象徴・比喩でしょう。彼は一切人の心情を考えず理由も聞かず犯罪と決めつけ,権力と暴力で迫ります。帆高が真実を話しても聞かず「鑑定が必要か…どうせ精神疾患」と決めつけるだけ。銃,『ライ麦』,鑑定,から思わず連想させられる悲痛な事件…昔『イマジン』で世界平和を歌うジョン・レノンを銃殺した精神疾患の青年は犯行時ポケットに『ライ麦』所持し,事件をきっかけに小説は有名になったとか。帆高だって追い詰められ,間違えて殺人してしまうかもしれなかった。現実に,周囲の大人に子どもが追い詰められ「あの時一言理由を聞いていれば防げたはずなのに…」という事件は少なくありません。
陽菜の母親の死因も語られません。「死の扱いが軽い」との酷評に対し,私は「人一人の命は地球よりも重い」という言葉を思い出しました(ラスト地球の映像も印象的)。母の死際も父は不在。離婚家庭は多いが葬式にも来ず,母亡き後は子どもだけで暮らす完全なる捨て子状態。現実社会は孤独死も多く,貧しい民の命なんて政治家の保身や経済よりも軽んじられる。そして陽菜が巫女だともし知ったら,多くの人が自己犠牲を迫るでしょう。数多の映画では自己犠牲のヒーローが世界を救う(例:ナウシカ,でも生き返る)でも人命を選んだら罪なの?命が軽んじられる社会をあえて描くことで「本当に一人の命は地球よりも重いと思っている?」と監督はみなに問うているのだと思います。
万人向けでなく,理解できないと言う人も多く,監督も発表前から賛否両論あると言いましたが,ネットで多くの酷評を見て,はっとしました。かつて岩井俊二『リリィ・シュシュのすべて』は,読者がネット書込で物語に参加し,炎上をも巻込みながら物語が進む斬新な形の作品でした。本作も観客の賛否両論全てを取り込み「その声全てが街の人々の声だ。色々な人がいる。街で帆高達とすれ違い,出会ってふれあう人,困っているのに気づかず通り過ぎる人,大丈夫?と心配する人,非行少年と怪しむ人,バカップルと嘲笑う人,傍観者,楽しそうねと微笑む人,無邪気に感激し晴天を頼む人…,見た人それぞれがみな物語の登場人物だ。」という構造を狙ったのではないかと思います。観客もみな物語の登場人物として巻込まれうるからラストは大きく地球を描いたのでしょう。『君』大ヒットで様々な難題の中あえて勇気ある闘いを選び,素晴らしい作品を作り上げた新海監督に拍手です!
文字数入らず↓コメント欄に補足
追加その4
他の多くのレビューで「スポンサー感が強すぎて嫌」と言われていますが
すごく上手にスポンサーを取り込んだ作品だと私は感心しました
(カップ麺のCMのギャグとかはおいといて(笑) 映画そのものの方にです)
『君の名は』大ヒットした監督の最新作に
ぜひスポンサーにつきたいという企業が増えるのも自然ですし
そこに金のにおいを観客が感じたとしても
それもまたこの作品の描く 社会の現実のひとつであり
作品テーマに沿っています。
ファーストフードばかりでは健康に良くないことも
みんな周知の事実だけど,監督は商品を
「素晴らしい食品ぜひ食べて」と宣伝しているわけじゃない。
それを食べて生活している貧困層の子供達がいる社会の現実を
そのまま描いているだけ。さらに
それでも子供達は
「また今日もこれしか買えない」と悲しそうな顔ひとつみせず
工夫して料理にアレンジし「美味しそう」と笑顔で喜び、
大人達がまゆをひそめるような生活の中でも
かつて文科省が学習指導要領で提示した
「たくましく生きる力」がしっかり育っています。
(「確かな学力」は育っているとは言い難いですが(笑))
マックを「16年間の人生で最高の食事だった」とか
レトルトを「豪華」と無邪気に喜んだり。
それまで子供達の育ってきた家庭環境の食事を想像すると
悲しいけどそれが現実社会の一つであり(しかも政府は目を向けない)
過去の寂しさも家出の理由も語らず
無邪気な笑顔だけ見せる子供達の姿に
なんてけなげなんだと うるっときてしまいます。
なりませんか?大人のみなさん。
ファーストフードの良い面 悪い面を理解した上で
作品テーマにきちんと取り込み
企業出資に敬意をはらい丁寧に描いています。
スポンサーとの関係もウィンウィンじゃないですか(^^)
新海監督の描き方 とても上手で素晴らしいと思いますよ。
子供が安易に映画をまねしてファーストフードに駆り立てられる
と心配してます?
それなら家庭の手料理にたっぷり愛情をこめましょう
子供だってそんなバカじゃないと思います
(もっともレビュー見てると、映画に込められた意味を
何も知ろうとしないバカな大人も多いようで悲しいですが)
「マックも好きだけど 母さんのみそ汁やカレーの方が好きだな
俺 帆高よりマシなんだな あいつつらかったんだろうな」
子供は気付くと思いますよ
追加その3
新海監督が『ムー』読者だったんだなってことは『君の名は。』で気づいてたけど、
監督のこのインタビュー読んで↓ 新たな驚きが。
「ラスト付近でも、テッシーは鞄の中にムーを忍ばせているんです。
1.5秒くらいのカットなんですけど、その表紙に
「ティアマト彗星は人工天体だった」と書いてあるんですよ。」
監督ってば芸が細かい…! 新たな感動発見。
「ティアマト彗星は人工天体だった」とすれば
彗星落下の描写は
自然災害に翻弄される人間(3.11等を彷彿とさせる)
の構図よりも、むしろ
そもそも その災害の原因を作り出したのは人間自身だった
(自然災害でなく,原爆や原発事故,さらには
宇宙ロケット開発の真の目的である 戦争ミサイル開発や
それに伴う事故に見せかけた関係者暗殺 等に近い。)
そしてその被害者は,それらの問題に関係の無い 田舎の村人達
(先進国のゴミや汚物を引き受ける途上国,
温暖化やゴミ問題は都会が最大要因なのに
その結果として水位上昇や津波の被害を受けるのは田舎,
東京優先で地方を苦しめる財政,
等を彷彿とさせられる)
実はそんな社会への疑問を,
たった1.5秒の小道具にさりげなく しのばせていたのですね…!
これには感動が強まりました。
私は彗星落下直前のニュース交錯の場面に
さりげなくこめられた社会批判メッセージの描写がとても
感動したのですが,
ほかにもまだ隠されていたとは。
『君の名は。』は青春恋愛のイメージが強くて
気付かない人がほとんどだろうけど。
『天気の子』では 社会批判や問題提起のメッセージが
たっくさん込められていますが,まだまだ見落としているのがありそう。
そして
「は、意味不明 つまんない 君の名より落ちた」なんて低評価してる人達にも 気づいてほしい!
追記その2
『君の名は。』で監督が登場人物の名前にこめたイメージを聞いて
なかなかおもしろかったので。今作の名前についてちょっと考えてみました。
帆高。 夏の海に高く帆をはってまっすぐ進んでいく舟のイメージがぴったり。
タカ という音の響き,監督の好みなんですねw タカキ,タカオ,タキ,ホタカ。
音の響きからは はきはきと快活で一本気な少年のイメージを感じます。
陽菜。晴れ女にぴったりな,太陽のもとすくすくのびていく小さな菜。
ヒナは雛 まだ幼く飛べない小鳥なのに その肩にすべてを背負わされているイメージも。
凪。 明け方と夕方の静かな海。それは年齢の割に大人びた感じや,ぐんぐん進む帆高より落ち着いて見える感じに似合いますね。
夏美。 キャラのイメージそのままな感じw
須賀。これは監督自身の話で,対談したスガシカオ氏に「思春期の時に こんな大人に出会いたかったな」と感じ 名前をいただいたそうです。
安井・高井。 高井は背も高いけど,ペアにすると明らかに 値段 カネの話ですね…w
現実主義で,目に見えないものなど信じないキャラに カネの姿はよく会います。
全体的にシンプルな名付け方に感じますね。
文字数5000で入りきらず追加w
『君の名は。』でも社会派な要素が垣間見えますが
恋愛要素が目立ち,あまりその点に気づかずに見た人も多いようです。
瀧も三葉も一人親家庭であることもそう。
『天気の子』はより社会派作品です。
東京の繁華街の裏通り,捨て猫のように暮らす居場所の無い子ども達。
決して豊かではないファーストフードを「人生で一番おいしい食事だった」
と感じる帆高,家庭で抱えていた孤独がにじみます。
母親の手料理が健康的で愛情にあふれ美味しい…とは限らない。
幼少時の記憶。私にはとても共感できます。
ただし,この感覚は理解できない人の方が幸せです(笑)
「子供って,野菜とか栄養あるきちんとした食事より味付けの濃いジャンクが好きよねー」と苦笑して見ている人が一番おおらかで良いと思います。
でも現実にそういう生活の子供が今多く
是枝監督『誰も知らない』も思い出しました。
『君の名は』で私が一番印象的だった場面は
彗星が落ちる寸前に様々な情報が飛び交う中で
ほとんどの声が「人の住む地域に落ちる危険性は無いだろう」と楽観視し
一つの村が消え人々の命が消える寸前だというのに
「これほどの美しい天文現象を見ることができるのは
この時代を生きる私達にとって非常に幸運」と最後に響く声でした。
気付かずに 多くの犠牲の上に幸せを受け取る人々。
社会批判するのでなく 誰も傷つけないようなさりげない描き方で
表現したのは凄い!
「声」の氾濫するその場面に,今作の中で似ていると感じた場面が
帆高が走る姿を傍観する人々の「声」です。
多くは「馬鹿がいる,あれは迷惑行為だから捕まるぞ」と嘲笑。
誰も本気で「何かあったの?大丈夫?」と心配しない。
批判嘲笑の声は 毎日ネットや世間に溢れる声と同じ。
『君の名』で監督は 感動の声よりも 多数の批判の声を受けたそうです。
実際はネットの文字でも「声」として聞こえたのですね。
声といえば
主題歌のサビで爽やかに歌われる「声が言う」という不思議なフレーズ
ですが「行け」と励ます言葉は 夏美や須賀など近しい人の声だけでした。
雑音の中に 大切な人からの励ましの声だけを聞き分けて
世間が何と言おうと行く!と走る帆高は 新海監督の姿でもあり
例え批判や酷評の声が溢れても
耳に届く声は洋次郎氏の声やスタッフの声だけでなく
私の声も届いてほしいと願います。