「陽菜も帆高も、加藤浩次も、トニー・スタークにならなくていいんだよ。」天気の子 ウシダトモユキ(無人島キネマ)さんの映画レビュー(感想・評価)
陽菜も帆高も、加藤浩次も、トニー・スタークにならなくていいんだよ。
『君の名は。』みたいに泣かなかったけど、どっちかと言えば『天気の子』のほうが好き。
「圧倒的な映像美と音楽の相乗効果で感動を楽しめる!」的な話は、たぶん公開初日に3億人くらいの人が言ってるだろうから書かない。…と言いつつ書くんだけど、確かに映像表現として「街・空・雨・日差し・雲」のキレイさは目に快感だし、RADWIMPSの音楽にもエッモエモに盛り上げられるし、さらに公開時期と作中の季節感がぴたっと合ってるし、「夏休みエンタメ」として映画館でたくさんの人に観られたらいいと思う。
作中に『君の名は。』の2人がちょい役で出てくるとか、ソフトバンクの「犬のお父さん」が2回チラッと出てくる(ちゃんと見つけれた!)とか、そういうイースターエッグも楽しくていいんじゃないかな。個人的には物語への没入感を削がれるのであんまり好みじゃないけれど。
今作は、主人公帆高がヒロイン陽菜に恋する“ボーイミーツガールもの”のように見えて、実はそれほど恋愛映画じゃないから、『君の名は。』的な感動を求めて観る人には、少し物足りないかもしれない。
どちらかというと『天気の子』は、主人公帆高が自立を目指し、他者と関係を結び、自分の居場所を決めるまでの“少年の成長もの”という要素が強かったのかな。個人的にはそっちのほうが好みだから、僕には良かった。
『天気の子』を映画館に観に行く価値としては充分だし、満足。
加えて僕がいちばんグッと来たのは、宇多丸さんをはじめ多くの作品評でも触れられているように、「新海誠がセカイ(系)について自己言及して、自己相対化を経て、世界へと再定義していること」だと思う。なかなかにチャレンジングなことだと思うけど、ちゃんとエンタメ大作としての役割を踏まえた上でやってるのがエライなと思う。「セカイから世界への再定義」は『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』で庵野秀明もやっていたことだと個人的には認識しているんだけど、あまりに突然のド直球すぎて阿鼻叫喚の地獄絵図だった(笑)。それはそれで面白かったけど、さすがに新海・川村(元気)コンビはやり方がスマートだなと感心した。
ちなみに“セカイ(系)”についての定義と評価はこんなところか↓。
【セカイ系とは「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと」であり、代表作として新海誠のアニメ『ほしのこえ』、高橋しんのマンガ『最終兵器彼女』、秋山瑞人の小説『イリヤの空、UFOの夏』の3作があげられた。
「世界の危機」とは全世界あるいは宇宙規模の最終戦争や、異星人による地球侵攻などを指し、「具体的な中間項を挟むことなく」とは国家や国際機関、社会やそれに関わる人々がほとんど描写されることなく、主人公たちの行為や危機感がそのまま「世界の危機」にシンクロして描かれることを指す。セカイ系の図式に登場する「きみとぼく/社会領域/世界の危機」という3つの領域は、それぞれ「近景/中景/遠景」(別役実による)や「想像界/象徴界/現実界」(ジャック・ラカンによる)といった用語に対応させて言及されることもある。
こうした「方法的に社会領域を消去した物語」はセカイ系諸作品のひとつの特徴とされ、社会領域に目をつぶって経済や歴史の問題をいっさい描かない点をもってセカイ系の諸作品はしばしば批判も浴びた。つまりこの時期にはセカイ系とは「自意識過剰な主人公が、世界や社会のイメージをもてないまま思弁的かつ直感的に『世界の果て』とつながってしまうような想像力」で成立している作品であるとされている
(中略)
これらのセカイ系作品については前述したように社会領域を描いていない点を批判された他、集英社コバルト文庫の看板作家だった久美沙織はセカイ系作品をとり上げた際に、少年が戦闘せずにそれを少女に代行させ、その少女から愛されて最後には少女を失うという筋書きは「自分本位の御都合主義で、卑怯な責任放棄」に過ぎないと述べ[18]、評論家の宇野常寛は「母性的承認に埋没することで自らの選択すらも自覚せずに思考停止」していると断定した。
[From セカイ系 - Wikipedia]】
“セカイ(系)”についての是非や議論は、2000年代に終息した感じになっていたけど、2016年の『君の名は。』によって、新海誠の作家性や童貞性(!?)、そして東日本大震災の文化的克服論と共に、再度「セカイ系」という文脈が語られていたように記憶している。乱暴にまとめると、「『君の名は。』はバカ受けしたけど、やっぱ新海誠なだけにセカイ系だよね!」という感じかな。
そのへんの評価に対しての新海誠の回答として、本作『天気の子』のラスト展開があったということが、グッと来たところ。
「セカイの中心でアイを叫ぶきみとぼく」は、確かに自分本位の自意識過剰なヒロイズムなのかもしれない。でも世間や社会がアテにならない閉塞感や煮詰まり感もある。「共同幻想と自己幻想の逆立」的な正しさのもとに、個人の犠牲に無頓着なのは「社会領域」だって一緒じゃん、政治に文句は言うけど、半分以上は選挙行かねー社会なんだもん。
“愛にできること”は、地球や世界を救うことではないし、「セカイか?きみか?」の二択問題に正解を選ぶことじゃない。この世界できみと生きていこうとする、私的で小さな勇気だ。その勇気を奮い起こすのが「セカイ系的な情熱」なら、それはそれでいいじゃん?若いんだもの、大丈夫。
だから出発点は「きみとぼく」でいいんだ。そして「きみとぼく」だけで生きていけないことはわかってる。だから「きみとぼく」で生きていこうと決めた場所を、居場所として受け入れることができれば、それは“セカイ”ではなくて“世界”になる。
『天気の子』はそういう話だったんじゃないかなと、僕は思う。
陽菜も帆高も、加藤浩次も、トニー・スタークにならなくていいんだよ。