「鬼才の放つ、アメリカ社会の現実を描くメッセージ性あるホラー」アス 緋里阿 純さんの映画レビュー(感想・評価)
鬼才の放つ、アメリカ社会の現実を描くメッセージ性あるホラー
【イントロダクション】
『ゲット・アウト』(2017)で鮮烈な監督デビューを果たしたジョーダン・ピール監督の第2作。とある家族が自分達と同じ姿をした集団に遭遇。惨劇に巻き込まれていく恐怖を描く。
ジョーダン・ピール監督は脚本も務め、製作にも参加。
【ストーリー】
1986年、夏。家族と共にサンタクルーズにある遊園地を訪れていたアデレード・ウィルソン(マディソン・カリー)は、ビーチにあるミラーハウスに迷い込み、自分そっくりの少女を目撃する。
現在。成長し、結婚したアデレード(ルピタ・ニョンゴ)は、夫のゲイブ・ウィルソン(ウィンストン・デューク)、娘のゾーラ(シャハディ・ライト・ジョセフ)、息子のジェイソン(エヴァン・アレックス)と共に、再びサンタクルーズの地を訪れていた。かつて住んでいた家は、今は別荘となっており、アデレードは思い出の品と共にトラウマとなっていた古い記憶を呼び覚ましていた。
アデレードは居心地の悪さから早く帰りたいと願うが、ゲイブはボートまで購入しており完全に行楽気分。一家はビーチを訪れ、友人のジョシュ・タイラー(ティム・ハイデッカー)とその一家と落ち合う。ジョシュの妻キティ(エリザベス・モス)は、アデレードとの世間話の中で「最近不穏な気配がする」と溢しており、直後にジェイソンがビーチに居ない事を知ってアデレードはパニックになる。ジェイソンは単にトイレに向かっただけであったが、彼はそこで、腕から血を流して立っている不気味な男を目撃していた。
その日の夜、アデレードはゲイブに幼い頃に起きたトラウマを語る。アデレードはもう1人の自分と出会ったトラウマから、失語症に陥っていたのだ。ゲイブは半信半疑ながらアデレードを宥める。直後、家が停電となり、ジェイソンが家の前に手を繋いで並んでいる怪しい4人組を発見する。アデレードは慌てて警察に連絡し、ゲイブはバットで追い払おうとするが、4人は散り散りとなって家に押し入って来る。リビングで一堂に会すると、そこに居たのは自分達と全く同じ顔をしたもう一つのウィルソン一家だった。
アデレードは彼女達に尋ねる。
「あなた達は何者」
アデレードと同じ顔をしたレッドが答える、
「私達もアメリカ人だ」と。
目的も分からないもう1人の自分達を前に、惨劇の一夜が幕を開けた。
【感想】
ジョーダン・ピール監督作は、2022年の『NOPE/ノープ』を鑑賞済み。新時代のホラーを代表する名手の1人として、また、作品に込められたメッセージ性の強さに、確かな作家性を感じた。
しかし、そんな『NOPE』の前作に当たる本作は、まだまだあらゆる要素が荒削りに感じられた。特に顕著なのは、もう1人の自分達である“テザード”の正体についてだ。
彼らはかつて、クローン技術によってアメリカ政府に生み出され、地上の世界で生きる人々の“影”として、オリジナルと同じ動きをして地下世界で生きてきた。しかし、地上のオリジナル達が裕福な生活の中で満足な食事を摂る一方で、テザード達は繁殖された兎を生で食べて生活していた。彼らは、自分達も「アメリカ人だ」として、地上世界のオリジナルと取って代わる事を望み、レッドの計画の下行動を起こしたのだ。
しかし、この設定があまりにも荒唐無稽で大雑把過ぎるがあまり、私は本作への恐怖は微塵も感じず、ただひたすらに疑問ばかりが浮かんだ。
まず、そもそも何故アメリカ政府は地下世界でクローンを生み出したのか?普通ならば、自分達が豊かな生活をする為の労働力とするだろう。しかし、彼らは何故か、影のように地上世界のオリジナルと連動した動きをする。その特性が役に立たないから、彼らは捨てられたとすれば、それは理解出来る。しかし、ならば何故役に立ちもしない彼らをそのまま放置して活かし続けたのだろう?
また、動きが連動していながらも、レッドの計画によって地上世界への攻撃は可能である事から、全ての行動に対する自由が奪われているわけでもなさそうだ。
また、政府に見捨てられ、食事すら満足な栄養が得られなかったであろうはずの彼らが、地上世界のオリジナル達と全く同じ体格になるというのも疑問である。ジェイソンのクローンであるプルートーが顔に火傷のようなケロイド状の傷を抱えていたように、痩せ細っていたり、身長に差があるといった、彼らなりの独自の成長を遂げていればリアリティがあるのだが(また、それは後述する本作のメッセージ性とも密接に関わらせる事が出来たはずだ)。
このように、フィクションとして成立させるべき、説得力を持たせる為の最低限の“嘘”すら吐かないというのは、少々雑過ぎる印象を受けた。
例えば、漫画『バクマン。』に登場する作中作「ふたつの地球」では、オリジナルの人間達は地球を丸ごと複製する。そして、自分達の生活をより良く繁栄させる為のモデルケースとして利用し、オリジナル側は戦争や飢餓を回避しているという内容だった。本作でも、テザードの誕生にこのような何らかの目的があれば、まだ納得しやすかったはずなのだが。
序盤から作品を漂う不穏な空気感は非常に好ましかったし、夜にレッド達が暗闇に佇んでいる姿、リビングでウィルソン一家と一堂に会した瞬間は異様な不気味さがある。自分達と“同じ”だからこその不気味さ、それはつまり、「同じ人間などいない」という事を我々が無意識に理解しているからこその不気味さなのだろう。そんな不気味さが、画面を支配している。
惨劇を通して、ウィルソン一家、特にアデレードが逞しさを増していくのも好印象。異常な事態に果敢に挑んでいく存在は、物語を停滞させずに前へ前へと向かわせるからだ。
ラストで明かされる衝撃の事実(何故、アデレードが本来はレッドである事をあの瞬間まで忘れていたのかについては、トラウマを理由に持ってきたとしても都合が良過ぎるとは思うが)、あの先にどこまで向かおうとも、最早世界に救いなどないと感じさせられるエンディングは良い。
【もう1人の自分を通して見る、格差社会という現実】
本作を通じて描かれているメッセージとは、「立場が違えば、自分がそちら側(地下世界側)だったかもしれない」という事だ。そして、地上世界と地下世界は、“格差社会”のメタファーだ。
それは、第一次トランプ政権下で所得格差が広がったとされるアメリカ社会を表している。だからこそ、本作が本国で批評家から絶賛され、大ヒットを記録した事も頷ける。
ラスト、アデレードは仕舞い込んでいた古い記憶の真実を呼び覚まし、自分こそが本来のレッドである事を思い出す。彼女の失語症は、単に会話を成立させるだけの語彙が無かったからだ。精神科医はそれをトラウマによるショック状態だと診断し、両親も彼女の身を案じて暖かく接する。しかし、そこに居るのはアデレードでは無かった。本来の彼女がバレエの天才的な才能を持ちながら舞台から降りたのも、単に研鑽した日々は本来のアデレードのものだったからだ。
また、何故レッドだけが言語を話し、あのような嗄れた声をしていたのかも、喉を締められて意識を失った際、声帯に何らかの損傷を負ったからだと推察出来る。だから、まさにアデレードは「本来自分が持つべき、奪われたものを取り戻しに来た」のだ。「世界は誰かの犠牲の上に成り立っている」という事を、彼女は身をもって証明していたのだ。
そして、全てを思い出したアデレードは、助手席に座るジェイソンを一瞥し、微笑みを浮かべて車を運転する。アデレードの姿に何かを察したジェイソンは、お気に入りのマスクを被って、真実から目を逸らす。不都合な真実は受け入れない方が身のためだという事を、幼いジェイソンは知ったのだ。
ところで、テザード達が手を繋ぐ様子は、実際に1986年にアメリカで行われた“ハンズ・アクロス・アメリカ”というチャリティーイベントの再現である。ホームレスや飢餓を無くそうという趣旨の下、全米で経費を除き1500万ドルのチャリティーが集まったそうだ。
しかし、ここ日本でも「24時間テレビ」の存在が、出演者にギャランティーが支払われ、番組製作に莫大な費用が投じられる事から、“偽善イベント”として敬遠されている。そう、このイベントもまた、“持てる者達による傲慢なイベント”なのだ。そもそも、何故手を繋ぐ事がホームレスや飢餓を救う事になるのかは分からない。
「施しは時に、持つ側の傲慢さの表れになる」という事なのだろう。そして、そうした傲慢さは、格差があるからこそ生まれるのだ。ジョーダン・ピール監督は、こうしたイベントをも作品に皮肉として取り込んでみせたのだろう。
【総評】
ある種の“ドッペルゲンガー”を扱い、アメリカ社会の抱える問題を痛烈に描いてみせた意欲作だろう。
しかし、メッセージ性を優先するあまり、肝心の物語としての説得力が疎かになり過ぎており、ともすれば説教臭くすら感じられる作品に陥ってしまっているのは残念だ。
メッセージ性とは、上質な物語を構築した上で、その中にスパイスの如く“ピリッと”効かせるから良いのだ。また、その内容の正しさが、必ずしも作品の“面白さ”を担保するわけでもない。