「芥川賞作品の映画化という不幸」影裏 マツドンさんの映画レビュー(感想・評価)
芥川賞作品の映画化という不幸
文学でも映画でも、作品は作品そのもので味わうのが筋で、知ったかぶりした解説などすることは無粋なのでしょうが、この作品、いかにも分かりにくい。
だから、私なりの仮説を書きます。
『存在の不確かさ』これがテーマ。3.11を身をもって体験した東北の人たちにとっては、このテーマはリアリティーがあるはずです。
今野は日浅との関係を深めていき、心をゆるしていく。しかし、日浅の突然の失踪をきっかけに、日浅のことを分かっていなかった事に気付く。岩手で一番の販売成績だ、と見せた賞状も、偽物だったのでしょう、きっと。「お前は、光が当たっている部分しか見ていない。人を見る時、最も大切なのは、影の一番濃い部分を見ることだ」というような言葉を、日浅は今野に語ります。自分は分かっていると思っていた身近な他者の、存在の不確かさが露呈します。
そして、日浅は震災で命を落とす。(生きていたのか死んだのか、契約改定の書類からは伝わりにくい表現で、不親切ですよね)人をだましてまで生きてきた、そして、どんな事があってもしぶとく生きていきそうな日浅が突然、命を落とす。今野と同じアパートに住んでいたおばあさんも、あんなに押しが強い人なのに、突然いなくなる。あるいは、自分の明日も、実は、確かなものとは言えないかもしれない。「おれたちは、屍のうえに立っているんだ」と、日浅はつぶやきます。命など、はかなく、不確かな存在にすぎない。
今野と日浅の会話は、曖昧で、分かりにくい。微妙な表情の裏にある気持ちが見えにくい。それは、観る者を敢えて分かりにくさの中に追いやり、その不安に陥れる演出なのでしょうか。
と、いうのがこの作品の、私の解釈。いま一つ、確信をもてない仮説です。
よい映画というのは、微妙ですよね。伝わらなければ自己満足にすぎないし、でも、みなまで言えばよい訳ではない。芥川賞作品の映画化というのは、特に厄介なのかもしれません。
ただ、ちょっと違うのではないか、と思ったところは、今野が日浅に突然のキス。ゲイが、あの場面であんな行動をとる事、不自然ではないのかな?少数派の弱者として、社会から抹殺されないようにするため、慎重に、臆病に、人との距離を測るのが彼らの常じゃないのだろうか。無理やり押し倒すのがゲイ、という誤解を助長する事につながりはしないか、と気になった。どうでしょう。