「令和の今、これをやる意味とは?」ばるぼら じきょうさんの映画レビュー(感想・評価)
令和の今、これをやる意味とは?
見ているうちに既視感に囚われた。
この話、多分読んだことがある。
渡辺えりの姿を見て確信した。
でも、記憶からはほとんど消えており、デジャブにしか思えない。
そう、これは昔よくあった耽美的退廃文学の様相だ。
行き着く先は「破滅(タヒ)」しかなく、救われない。
さて、この映画の良いところは、他のレビューにもある通り、二階堂ふみを筆頭に美しい裸にある。稲垣吾郎もお歳のわりに美しい身体をお持ちで、ムキムキでもなくしなやかさを兼ね備えていて、ふみ様に負けないように、鍛えたんだろうなと思えた。
二階堂ふみ様は、他の映画でも結構な脱ぎっぷりなので、この役にはピッタリだろう。美しさと脱ぎ(演技)を両立できるのは、この世代では他に吉高くらいではないか?(もうしないけど)かつて、常盤貴子も若くして脱ぎ、今の地位を築いた。二階堂ふみ様は片方でエールを演じ、他方で稲垣吾郎や小栗旬と濡場を演じるなど、似ていると言われた宮崎あおいをとっくに凌駕していた。
しかしながら、結婚式の辺りでこの話の行き着く先が予見でき、文学としての落としては所はこうでよくても、映画としてのそれは、逃避行の末ゴニョニョ→だから何!と、正直盛り上がりに欠ける。
そもそもバルボラは存在したのか?
現実世界の誰も彼女に会っていない。どこから現実が崩壊したのか?既にマネキンやイヌに心を奪われている時点でクスリや酒の影響が見られるわけだから、この話は幻想のようにも思える。危機(モノヤイヌを相手にいたそうとする)の度に突如現れ、現実(?)に戻す。心配だからきたって、アリ?
また、バルボラが人でなくなってから、手塚先生なら、腐っていく様子を描きそうなものだが、そうならなかったことからも妄想である可能位が高い。
そうなると、結婚式(不発)のあと、街で再会するのは頂けない。やはり、別人(ヒト以外)であって欲しい。そのあと、どこからともなく現れて現実に戻すことが本当ではなかったか?
狂っていく現実と、バルボラのいる妄想との区別がつかなくなり、現実世界で取り返しのつかないことを起こしてしまう(例えば、献身的な編集者か、バルボラと別れるきっかけになった婚約者を誤って殺してしまう)くらいの事件がないと映画としての訴求力を感じないなあ。
つまり、現代的な手法ではなく、昭和の手法に二階堂ふみ様を組み込んだおかげでこの話を実写化出来ました、という所だと思う。