「メッセージなきメッセージ。」Fukushima 50 critique_0102さんの映画レビュー(感想・評価)
メッセージなきメッセージ。
多くのものがコメントしてるので特に何も語る必要はないと思う。
既に賛否両論が多いと聞く。
-そうだろう。
この映画を見るものは、それを語るのに中立性を拒否されるからだ。
と言うよりも中立でもっては語れない。それぞれがぞれぞれの立場でしか、その言葉を語ることができない。
エンターテーメントとしては非常によくできた映画だとは思う。それはそうだ、強く思う。
しかし、この映画のメッセージは何だったのか、語り出す一人ひとりがその中立性を拒否された中で語り出すしかない中、とにかくそれを覚悟した中で、この目の前の出来事を振り返り思い出し胸にこみ上げてくるそれぞれの慟哭を伝える言葉を探しているその中で、そもそもこの映画が伝えたかったものは何なのか。
固有の名を持った現場の一人ひとりの英雄譚だったのか、
何の名前も持たない「本店」の、そしてその名前さえも失っている官邸の痴愚さなのか。
この映画
園子温の『希望の国』や菅乃廣の『あいときぼうのまち』に果たして匹敵しうるのか。
そうは思わない。
大手配給会社がついているこの映画、一度として「東京」電力という「音」がなかった・・・。
決して言わなかった。いや、言わせなかった・・。官邸もまた然りである。
「声」を失わせたもの対する沈黙・・・。この映画は沈黙した。
当事者たちの本当の「声」が、喧しい画面の中で聞こえてはこなかった。
これが、この映画のメッセージなきメッセージだ。
この出来事に怯え言葉を失い逃げ惑った一人ひとりの声を拾い上げることをしていない・・・。
この事件は、事故ではないこの人為災害は、ある一つの特定会社の「家族」物語ではない。
そこにはあったのは、この映画のスクリーン外の「物語」だったはずだ。
Fukushima 50はイコール、ノン・Fukushima 50であったはずなのだが、それが何も伝わらない。
だから、やはり、この映画もまた
逃げごまかしながらしかエンターテイメントをつかむことしかできない「日本アカデミー」の象徴なのかもしれない。
言い過ぎだろうか。
ほんと、そのへんに違和感を抱かせるようでは三流映画だったと言えると思います。
忖度する姿に、福島をえがきたい!という本気度の薄さが透けて見えた思いがしました。