「ノスタルジーと“恥”」ブルーアワーにぶっ飛ばす いぱねまさんの映画レビュー(感想・評価)
ノスタルジーと“恥”
表題の通り、都会の生活に疲れた女が茨城の実家に戻り、自分の過去を振り返りながら気持を整理していくというメランコリックな内容である。スパイスとして、いわゆる“イマジナリーフレンド”的存在、又は本来の自分自身を投影したパートナーの幻影をバディにして、地元や家族、そして自分の原点回帰を探る“体”でストーリー展開されている。
意図的であろうが、何処までが事実で何処までが妄想なのかの曖昧さを前面に出していて、そこに夢での幼少時代の出来事も差し挟んでくるので、かなりの浮遊感が作風を覆う。タイトルのブルーアワーとは、夜明け前又は日暮れ後の白じんだ空の時間を指すのだそうだが、そんな曖昧な時間を自分だけがコントロールできる特別で、作品中でいうところの“無敵”“パーフェクトワールド”という概念として表現している。人生そのものを24時間だとしたら、このブルーアワーは幼少期の未だ何もこの世の理など知る由もなく、自分の世界に埋没できていた時間としてみているのだろう。だから現在の都会での仕事や生活、そしてくたびれたアバンチュール、その先の将来みたいなものの漠然且つ大きな重石である“不安”の処理限界を超えたとき、もう忘れ去りたい、否忘れてしまった過去を直視することも一つのリハビリなのではないかというメッセージなのだろうか。病院での祖母との会話、その後のリハビリでのお遊戯のシーンはメタファーなのではないだろうかと勘ぐるのは考え過ぎか・・・
ユースケ・サンタマリアと夏帆の濡れ場がある訳でもなく、とんでも無いバイオレンスが起きる訳でもない。家族のそれぞれは確かに精神的に病んでいる印象を盛り込んでいるが、確かに観客側として“痛々しさ”“居たたまれなさ”“恥ずかしさ”みたいな、所謂『共感性羞恥』の類を演出されていて、そこに心は抉られることは事実。但し、だからといって作品全体を通しての印象の強さを演出するキーが無かったことが悔やまれる。一言で言ってしまえば“捉えどころのない”ということなのだが…。夏帆の“キレ芸”キャラは何故かデジャビュを感じてしまったし、シム・ウンギョンの起用理由も甚だ不明だ。勿論、彼女の演技力の高さは周知の事実だが、作品に於ける片言の日本語を使う理由の不明瞭さ(それが幻影としてキャラ特徴なのか)その説明不足に置いてけぼり感が半端無い。
決して悪いテーマ性ではないし、誰しもある隠しておきたい、自分でも無かったことにしたい過去が実家にはあり、しかしそれは寝かせると上手く発酵されて、それが又自分に返還されることで、デトックス作用が生まれるのだよという方法はあり得ることなので、もっとドラマ性を高めた構成、又はファンタジー感のボリュームアップを施して欲しかったと感じたのである。あの家族達の未来の行く末みたいなきっかけもみせて欲しかったし、結局又過去を段ボールにぶち込んで蓋をしてしまうのも寂しいかなぁと・・・ 残された兄は、妹のノートにどんな想いを抱いたのか、それを自然と観客にも想像出来る前段階の“フリ”の設置があると優しい作品に仕上がったのだろうが…