「どうやって小説にした?」蜜蜂と遠雷 かぴ腹さんの映画レビュー(感想・評価)
どうやって小説にした?
私は音楽についてはほとんど素人で、映画同様、心を楽しませてくれればクラシックでも演歌でもJ-POPでもこだわりはない。というか、違いを理解するほど見識がない。その程度なので音楽コンクールなどというものは皆目見当がつかないが、この映画で思い起こされたのは2010年のショパンコンクールだった。ユリアンナ・アヴェデーエワがアルゲリッチ依頼の女性で1位となったことでニュースとなり、それまで音楽コンクールなんて聞いたこともない私でも耳にした。その他の参加者(コンテスタントと呼ぶことをこの映画で知った)もタレントぞろいで話題だった。ヴェンダー、ゲニューシャス、トリフォノフ、デュモン、ネットくらいでしか聴けなかったが、個性豊かな面々なのは私でもわかった。アヴェデーエワを筆頭に何人かの入賞者が日本で行ったガラ・コンサートにミーハー根性丸出しで聴きに行った。若い才能が伸び伸びと観衆を魅了していた。彼らがどれくらいお互い親しいのかは知らないが、1つのコンサートを作り上げたsynergyはこの映画で描かれたコンテスタントの関係性となにか相通ずるものを感じた。もちろんフィクションとは違って本選では彼らはライバルとして火花を散らしただろうが。実際のコンクールと似ているのか、かけ離れているのかは別として、ピアノという音楽の美しさ、若い才能の絡まる様を繊細かつ壮大に表現しているところはこの映画で堪能することができた。
おそらく多くのひとが目に留めたであろう、松岡茉優と鈴鹿央士の連弾のシーンは印象的だった。お互いをくすぐり合うかのような音と心の絡み合いは、ベッドでふざけながらイチャイチャするかのように感じられ、いよいよもって私もスケベジジイの仲間入りをしたかと自分にあきれた。
ほとんど満足なのだけれど、ご多分に漏れず、小言も言いたい。
映像と音でこれだけ高い芸術性を表現しているが、解説めいた話のスケールが小さい。
perfectionとは技術レベルを落として安全に演奏することだろうか。
最初にユリアンナ・アヴェデーエワのピアノを聴いたとき、抱いた印象は”perfection”だった。冷戦時代の東欧諸国の体操選手がオリンピックで技や着地を完璧に止める、あの絶対性を彼女のピアノを聴いて思い起こした。実際彼女はロシア人であることも影響していたかもしれないが。だが、ミスがないわけではなかった。前述のショパンコンクールのときはコンチェルトで初っぱなミスタッチがあった。その後ショパンの時代のピアノでアヴェデーエワが同じコンチェルトを日本で弾いたがそのときも同じところでミスタッチをした。しかし、ミスタッチしたからといって彼女のピアノのperfectionが崩れたとは思わなかった。難易度を下げてミスなく演奏することとperfectionというのは別次元のことだと思う。
日本で行われる1コンクールとはいえ、世界中から参加して音楽の天才云々を語るというのに、主要な参加者がみなアジア系、しかもみな日本にゆかりがあって悠長に日本語を話す「内輪のメンバー」というのはぐっとスケールが小さく感じられる。対照的に審査員たちがヨーロッパ系で、斉藤由貴の話す英語の背伸び感が心もとない。
鈴鹿央士、天才だっていうのはいいけど、お偉いさんの推薦つきってちょっといやな感じ。伝統的に権威主義的な世界なのかもしれないけれど、コンクールの審査に亡きレジェンドからの推薦って出来レースでは。対象は違うけれど福島リラのお怒りごもっとも。
片桐はいり、うまいのはわかるけど、いかにも。平田満さん、いつも見ますよね…見たことがある人が多いと、どんなに名優でも天才と音楽の話が一気にお茶の間感覚になっちゃう。眞島秀和、チョイ役なのに「あ、杏ちゃんの彼氏の先生」となっちゃう。無名のひとでよかったのでは?究極はブルゾンちえみ。本人がかわいそう。キャスティングの責任。
ともかく、最後は音楽も楽しめてよかったです。
これ、どうやって小説にできたんでしょう?読みたくなります。
帰ってからAnna Vinnitskayaのプロコフィエフを聴きました。
今日はユジャ・ワンが聴きたくなりました。