わたしは陰きゃなのでクリスマスに電飾やKFCの渋滞やクリスマス的雰囲気を見たりすると「けっ」とか思うのだが、昔はクリスマスに追従しようと頑張ったこともあった。
だいたい陰きゃとは卑怯なスタンスをとるものであって、たとえばハロウィーンの渋谷のコスプレの賑わいに「あほか」とは思いつつも、お気に入りのコスプレをした子供を大混雑の渋谷へ連れて行くお母さんのご苦労はわからない。家族のために、いやでもKFCに並ばなければならないお父さんのご苦労もわからない。
なんでもじっさいにやってみると見方が変わるものであって、斜に構えて眺めている──だけのにんげんが、いろいろ言うなという話である。
(あまり言いたくないが)わたしも映画製作をしたことがあれば、人様のつくった映画に辛辣な酷評を下すことなどできはしないだろう。
知ってのとおり、陰きゃがじぶんの陰きゃなスタンスを自覚していないばあい、それはこの世でもっとも恐ろしい存在になりうる。そのての陰きゃがおこした事件が世間を騒がせているのはご存知のとおりである。
人の社会は、総じて陽きゃやリア充のやっていることが正当であると見るべきだ。皮肉を言っても根っこにそういう視点がないやつはホントに危ない。
よって、じぶんのことを陰きゃと自覚しているならば、厳密には陰きゃとは言えない。じぶんのことを陰きゃと定義するのは、世間のレッテルにあらかじめ防御線を張っているだけ──いわば茨城や埼玉の人が「おれ茨城だからダサいんだよね」と言うのと同程度の意味であって、じっさいに陰気なにんげんとネット上の陰きゃとは違う。
ただし日本人がクリスマスに懐疑的なのは、クリスマスにぼっちだから──てより、多数の日本人がキリスト教徒ではないにもかかわらず、なんでハロウィーンだのクリスマスだのとまったく無関係のイベントに狂騒するのか──という疑問があるからに他ならない。
なぜ異教の習慣に追従しなきゃなんないのか。それよりなにより、24日や25日を独りで過ごすだけの状況を、なぜ「寂しい」と形容されなきゃなんないのか。まったく余計なお世話もいいところ──である。
が、西洋社会においてさえ、クリスマスは狂騒的なものだ。
『ハリウッド・ブールヴァードの商店はすでに高い値につけかえたクリスマスのがらくたをならべていたし、毎日の新聞はクリスマスの買物を早くすませないと混雑すると叫びつづけていた。どうせ混雑するのだ。毎年、おなじことなのだ。』
(レイモンド・チャンドラー著清水俊二訳「長いお別れ」より)
気取った陰きゃらしい、気障な引用なのは自覚しているが、長いお別れを愛読している陰きゃのわたしは、クリスマスの喧噪を見るたび、この一節を思い出す。
クリスマスに思い入れがあったら、皮肉屋のフィリップマーロウといえども、嫌味なんか言わないだろう。楽しいイベントを、ことさら下げて言う人は、それに対して良好な思い出を持っていない。
おそらく日本の親たちは、キリスト教圏の親ほどは、子供にサンタクロースを信じさせようとしない。わたしも単に玩具をもらえる日という記憶があるだけで、サンタクロースを信じていた記憶はない。子供の喜ぶイベントとして、一般化しているから(ある意味)惰性的に、プレゼントやツリーやケーキを準備する──のであって、じっさいのところそれらに、それ以上の意味はない。
でも教国の当事者たちが宗教的価値観においてクリスマスをするならば、サンタクロースもトナカイもプレゼントも、日本の盂蘭盆会のように意味をもってくる。まして親たちが、かつてサンタクロースを信じていたことを憶えているなら、子供にサンタクロースを信じさせることに、何の疑問も抱かないだろう。
いったいおま国のわたしたち日本人はどんな見地においてクリスマスコンテンツを見るのだろうか?我ながら日本人のスタンスは時として完全に意味不明である。
ネットフリックスで見た。
毎年12月になるとクリスマスものが雨後の筍のように出てくるが、クリスマスとカートラッセルの、不釣り合いに惹かれた。サンタクロースにしちゃ強面すぎないか?
毎年、父母・兄妹でたのしいクリスマスを過ごしてきたのに、いまは父がいない。この設定が美しいシンデレラ曲線を描くことはわかりきっていた。エルフが楽しいし、うるっとくる場面もある。
若年層向け映画だけど、サンタの存在を信じる子供の気持ちは、星があると信じるルビッチより何倍も健全で、文科省推奨でもいける出来ばえだった。と思う。
まったくクリスマス映画見てなごめてしまう日本人ていったいなんなんだろうね。