「自由な未来が待っている」Girl ガール 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)
自由な未来が待っている
LGBTは思春期の少年少女にとってはさぞかし辛いだろうとは想像できる。そうでなくても容姿について悩む年頃だ。おまけに同年代の子供たちは他人の容姿を悪く言うことにかけては容赦がない。逆に言えば、思春期とは同世代同士の自尊心の傷つけ合いの時期であり、同時に友人を取捨選択する時期でもある。何を重視して何を軽視するか、価値観を形成していく機会なのだ。そのときに大事なことは、周囲の価値観に流されないことである。そのためには友達付き合いそのものには重点を置かないようにすることだ。つまり「空気を読まない」ことが重要なのである。
日本は聖徳太子以来「和をもって尊しとなす」お国柄だから、和を乱す人間が嫌われる。しかし考えてみれば聖徳太子は大変な権力者である。当然ながら彼の言う「和」は権力者にとって都合のいい「和」に違いない。そんな「和」に従えば、個人の人権が蹂躙される一方である。人格が確立されている欧米の先進国では「空気を読む」ことは主体性の欠如とみなされる。
友達を大切にすることと、友達付き合いを大切にすることはまったく別のことだ。関係性の維持のために自分の人格を投げ出すことは、自ら進んでいじめの被害者になるようなものである。白を黒と言わなければ仲間はずれにすると脅されるようなことは子供たちの間ではおそらく日常茶飯事だ。そういうときは喜んで仲間はずれになるのがよい。そして勇気を出して言い放つのだ「お前らは人間のクズだ」と。
同調圧力の強い日本の社会では、忽ち孤立するだろう。しかし孤立を恐れるあまり安易に妥協してクズの仲間になるほうがよほど不幸である。小学校から高校までの友達で大人になっても付き合いのある人間は殆どいない。友人などいなくても大丈夫なのだ。友人との付き合いはただ戯れあって時間を無駄にしているに過ぎない。ひとりで本を読んだり考えたり勉強したりする時間のほうがよほど重要である。
さて本作品の主人公は15歳にしてはとても主体性のある生き方をしている。そのように育てられたのだろう。父親は相当な人格者である。息子が生れたときからその人格を認め、トランスジェンダーであることを受け入れ、望みを叶えてあげようとする。これほどの父親は滅多にいないと思う。主人公ララは幸運である。しかしトランスジェンダーであるために生じる社会との軋轢は、その幸運を上回っているようだ。
バレリーナになりたい夢は、現実のレッスンの過酷さにも屈しない強さだが、如何せん身体がついていかない。性転換は非常にゆっくりと慎重にしなければならないが、バレエのスキルは急速な成長を求められる。希望はしばしば絶望に変わり、ララを追い込んでいく。ドラスティックな行動にでてしまうのもやむを得なかったのかもしれない。
もし日本が舞台だったら陰湿ないじめのシーンが連発されていただろう。しかしそのようなシーンはほとんどなく、他人の悪口は登場人物の台詞になかった。医師も教師も前向きな発言が殆どで、ララを勇気づけようとする。社会としてのレベル自体が日本よりも数段上なのだ。周囲に阿ることのない主体的な子供が育つ土壌がある。ララ自身も決して他人の悪口を言わなかった。翻れば日本のLGBTの子どもたちは本当に辛い思いをしているに違いない。国会議員からしてLGBTを生産性がないと否定する人間がいるし、一部の連中はその発言を支持する。
髪を切って街を闊歩するシーンは、個としての主体性が確立された自由を感じさせる。日本語で吹っ切れたという言い方をするが、いろいろなことから解放された精神が世界を力強く肯定するような、そんなシーンに見えた。
観ていて苦しい場面が多い作品だが、舞台となった社会は閉塞的ではなく、多様性を受け入れる懐の広さがある。そこが未だに封建主義的な考え方が幅を利かしている日本とは大きく異なるところだ。主人公には自由な未来が待っていると思う。