象は静かに座っているのレビュー・感想・評価
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象は二度と立ち上がらなかった
死の匂いに包まれた山中の寂れた街。シャローフォーカスのぼやけた視界によって記名性を剥ぎ取られた風景は、どこにでも存在しうる普遍的な空間として我々に提示される。満州里にうっすらとユートピアの幻想を抱くブーを、ジンは「どこへ行こうが変わらない」と諭す。
劇中では街の狭間でそれぞれに固有の懊悩を抱える人々の姿が描き出されるが、彼らの苦悩もまたありふれたものに過ぎない。チェンの彼女は不幸な己の感傷を並べ立てる彼に向かって「そんなのは誰だって同じ」と言い放つ。
自己否定や自己憐憫は、自分を素直に肯定できなくなってしまった者が自他の境界を策定するために用いる苦肉の策だ。だがそれさえもがありふれたものだという。苦しみは兌換紙幣で、俺の苦しみはお前の苦しみだ。ゆえに俺とお前は同じ人間。とすれば「俺」なるものも「お前」なるものも存在しない。じゃあ俺が生きてる意味って何?
(そんなものは、無い。)
何もかもが意味を成さない絶対的な虚無世界。そこから抜け出せるかもしれない唯一の手段は死ぬことだ。死後の世界もまた虚無だとしても、生きながら虚無を感じ続けるよりは遥かにマシだ。死は救済。死ねば楽になる。
しかしその単純明快な悟りを受け入れられず、人々は迂回と遅延を重ねる。窓から外へ出て玄関に回り込んでみたり、怪しい切符転売人に付いていく途中で立ち止まってみたり。あるいは「俺の気持ちは誰にもわからない」と強がってみせたり。だが死の欲望は抗いがたく押し寄せる。誤射に脚を撃ち抜かれたチェンが苦悶のあわいに浮かべる笑顔。
生への転轍点を通り過ぎてしまった物語は、したがって死へと急速に直進する。ブーとリンとジンは夜行バスに乗って満州里の動物園を目指す。
満州里の動物園にいるという一日中座ったままの象。それは死のアレゴリーだ。4本の脚で3トンもの自重を支えている象は、一度座ると再び立ち上がるのに大変な労力を要する。老化や怪我で身体機能の落ちた象などは座ったが最後、二度と立ち上がれずにそのまま死んでしまうことも多いという。つまり一日中座ったままの象というのは、死期の迫った象であるといえる。
真っ暗な闇夜の中、バスを降りた乗客たちが象の鳴き声を耳にする。そこで映画は幕を閉じる。
本作を撮り上げた直後、監督のフー・ボーは自ら命を絶った。世界を覆う虚無の前に跪いた彼が立ち上がることは、二度となかった。
俺自身はこの映画の言いたいことに納得できない。仏にこんなことを言うのも酷だが、生きていることや自己存在の意味について、もっと長い時間をかけて考えてみてもよかったんじゃないか。「俺」と「お前」を分かつ何かが本当はあったんじゃないか。生への転轍点を実は見落としていたんじゃないか。そんなことを思ってしまう。
彼の死の原因が何であるかはわからない。理由を問おうにも既に当人がこの世にいないのだから。ひょっとしたらその不可侵性だけが自己存在の絶対的な刻印になると考えてのことかもしれない、がこれも邪推だろう。
いずれにせよ29歳というのは若すぎる。彼の作家的軌跡をもっと追いかけたかった。
人はなぜこのような街を作ってしまったのか
終始一貫して、灰色でぼろぼろ、風で常になにかひらひらとゴミが舞い、カンカンと耳が痛くなるような音を発し、それに負けじと、クズゴミと喚き歪み他人と自分を引き比べて嘆き叫ぶ人の声に満ち溢れた街、家、家族。わずかに垣間見るとても短いが温かさ感じる交わり。老人ホームに行ってほしいと娘夫婦に迫られている男の孫がおじいちゃんと呼ぶときの優しい違和感。誰もが恐れるヤクザ者の男が好きな女に言い負かされどうにもならないもどかしい違和感。少年がおばあちゃんに小遣いをもらったというときの自己肯定感の刹那、最後のシーンの初めて世界という物と邂逅したような違和感。
ブーの背中がスクリーンいっぱいに広がる。10代の少年とは思えないような、まだこれから、まだこれなら人生のあれこれを経験しようという10代の少年の背中とは思えないすべてを知らないままにら知り悟り諦めた虚しく大きな背中がスクリーンいっぱいに広がり悲しみとかそういうものも、カンという無機的冷たい音がしてはね返されそうだ。老人と上着を交換する、その背中も老人のようだ。
クーリンチェを思い出す作品。クーリンチェは出口がどんどんなくなっていくがこちらは最初から出口がない。夢か幻にもならない、、、、それでも。それでも。
【世の中は、悪意と嘘と”偶発的な不幸”に満ちている。それでも、僕らは”逆境下でも生き抜く”信念を持って生きていく・・。】
ー 満州里の動物園に行かないか?。何に対しても、何が起こっても、悠然と座っている象を見るために・・。ー
◆感想
1.4時間越えのストーリーを、飽くことなく一気に魅せる、瑕疵なき脚本の素晴らしさ。
2.それは、何の関係性もないと思われる、”居場所のない””虚無感漂う””生きる術を見失った”老若男女たちを、見事に一つのストーリーに収束させる、ストーリーテリングに尽きる。
3.各パートごとに、主要人物にフォーカスし、背景は暈した撮影技法。そしてそれが、観客に及ぼす”様々な想像を掻き立てる”手法の見事さ。
4.色彩トーンも、限りなくモノクロに近く、登場人物たちが抱える、世に対する怒り、絶望、諦観を表現した世界観を醸成している。
5.メイン役者さんたちの、抑制した演技も鑑賞後に、深い余韻を残す。
<今作に関しては、敢えてストーリーには触れない。
エンドロールでも流れるが、これほどのハイレベルの長編を監督第一作として、世に出しながら早逝してしまったフー・ボー監督に敬意と共に弔意を捧げます。>
魔力のある映画
1中国の地方都市で暮らす、トラブルを抱えた4人の男女が、ある共通の場所に向かう姿を描く。
2ストーリーは、4人の男女にそれぞれトラブルが発生し、いずれもが苦悩・絶望し街を彷徨い、その最中に偶然ある場所のことを知り、救いを求めるかのように其処に向かう 。
4人のエピソードが時間の経過とともにほぼ順番に描かれるが主人公ともいうべき男子高校生を核に、4人が劇中で関わっていく。
3 演出面での特徴的なこととしては、➀各シーンが長回しでカットや登場人物のセリフが少なく、動きやセリフの間がゆったりしていて、そのテンポの緩さから最初は投げ出したくなること。②フィルターを掛けて撮っているのか?色合いが終始暗色がかっていて話の内容に合わせたかのように陰鬱である。③パンフォーカスしていないため、中心の被写体以外がピンぼけしており、視野の狭さを暗示しているのだろうか?
4とても暗い映画であり、4人の置かれた状況は救いがたく、また街を漂流する姿は絶望感に満ちている。それは、現在の中国の市井の人々が耐え難い諸問題(喧騒でごみごみした都市生活、埋めがたいほどの貧富の格差の拡大、高齢者の孤独、中央政府に統制され自由のない社会体制・・・)を抱えながら生活せざるを得ない現況を表しているかのように覚える。
5この映画は、最初の苦痛の時間を我慢して見続ければ、次第にテンポに慣れてきて話の構成もスリリングなものになり、4時間超えの長尺だけど旅の最後まで見届けようとさせる、そういう魔力がある。
長い、長すぎる💦
ほぼ4時間の映画、長すぎて集中力続かない😔とにかく「間」が長い。長い「間」をカットしない事に監督の意図があるんだろうけど、、、確かに後半の高校生ブーがニセ切符を売りつけられ、絡まれている時の明るい風景から徐々に日が暮れていく様など臨場感はある。
ただ座っているだけの象がいると聞いて、見に行こうとする4人はそれぞれ問題を抱えていて現実から逃れたいと思っている。そして周りの人々が嫌な人ばかり。親も学校の先生も近所の人達も。ガミガミと捲し立てる様に大声でとにかく怒る😤観ていて気が滅入る。
友達に怪我をさせてしまった高校生ブー、母親との不仲。学校の先生との不倫をネットで流されたクラスメートのリン、街の悪党のボス、娘夫婦に老人ホーム行きを進められている老人、4人とも現実から逃れたい為に像を見に行こうとするのだが、ボスは殺されてしまい、3人もバスが運休だったりとなかなか上手くバスに乗れない。
その時の老人の言葉「人はどこにでも行けるがどこに行っても同じことの繰り返し。行かないから、この場所で生きることを学ぶ」人生を諦めたとも思えるような言葉だけれど、重い言葉だ。これまで苦難を乗り越えてきたであろう老人だから言える言葉、ズシッと響いた。
結局ブーに諭され一緒に像を見に行く事に。ラスト、夜中に到着してバスを降り、暫くすると象の🐘雄叫びが聞こえて終わる。象は静かに座っているだけではなかった、、、という事なのか?
ブーもリンも待っているのは警察だし、老人も誘拐犯人になりかねないし老人ホーム行きは免れない。暗い未来しか待っていない。
監督もデビュー作であり、遺作でもある。なんとも言えない、辛い映画である😔
ー追記ー
何日か経って振り返ってみると、長いと感じた「間」は必要なものと思うようになった。実は所々⏩で観たので、普通に観ればよかったと後悔💦
絶望の連鎖
フー・ボーは静かに訴える
友人を庇って不良を誤って階段から突き落としてしまった少年。
その不良の兄で、幅を利かせている男は少年を捜す。
教師と深い関係にある、少年らと同じ学校に通う少女。
近所に住む家族から見放された老人で、唯一の心の支えだった愛犬が近所の狂犬に噛み殺され…。
かつては炭鉱業が栄えたものの、今は廃れた中国の田舎町。
しかし廃れたのは、町だけではなかった。
彼らが抱える苦悩、怒り、悲しみ、模索、閉塞感…。
そんな喘ぎ、もがき、どうしようもなさが画面からひしひしと伝わってくる。
何か彼らに救いや希望は無いのか…?
あった。
遠く離れた地の動物園で、一日中座り続けているという象を見に行く。
何でもないというより、ヘンな事かもしれないけど、見ればきっと、何かが変わる…。
4人のある1日の心の彷徨。
じっくりと描き出す。4時間の長尺で。
彼らと共に苦しみ、悩み、救いを求めたのは、真の主役と言える監督のフー・ボー。
中国新世代期待の監督“だった”。
小説家や幾つかの短編映画を発表し、本作で長編作デビュー。
その直後、29歳という若さで自殺。
何があったか分からない。
が、どうしても、本作のテーマとフー・ボー自身がリンクしてならないのだ。
ラストシーンの象の鳴き声など、この世に訴えるフー・ボーの声そのものに聞こえた気がした。
正直、自分には敷居が高い作品だった。
引き込まれた部分もあったが、4時間という長尺故時折集中力が途切れ、眠気にも襲われ、何度か休みながら見、終始一気見は…。
もし、この若き名匠が自ら命を絶たなかったら、将来はどれほど世界を代表する名匠になっていただろう。
フー・ボーが最初で最期のこの長編作品に込めた魂は、静かながらも永遠に映画史に残り続ける。
人は行ける、どこへでもな。そして分かる、どこも同じだと。
中国のどこか田舎の、廃れた小都市。
大人も子供も生きる張り合いのない、死にかけの町に住む少年、少女、青年、老人。
世界は一面の荒野だ。
人生は面倒なものだ。
お前はゴミだ。皆ゴミだ。
どいつもこいつもやさぐれて、手持ちの武器は稚拙で、投げやりにしか見えない。唯一、満州里という町の動物園にいる一頭の象の存在だけが、一縷の希望のように映る。見たこともないのに。いやむしろ、もしかしたら実体のないものかもしれないその象だからこそ、希望を仮託しやすい存在なのかもしれない。
そして4時間もの長い上映時間の訳は、各人物の佇まいを醸すために必要な時間だったのだと気づく。
象に出会った先にあるのは希望なのか。逃避なのか。それが劇中ずっと頭を駆け巡る。鑑賞後、駅名にあった「石家庄」から満洲里までの距離を調べた。北京を通り越してざっと2,300kmもあった。近道をしても1,800km。ずいぶん遠い世界の話だと分かっているのだろうか。まるで三蔵法師一行が天竺を目指す気分じゃないか。会うことが目的なのではなくて、会いに行こうと行動を起こすことが重要なのか。それならば、会えない方がいい。ずっと希望を抱いていられるから。
30歳に満たない若さで命を絶ったという監督の人生も、この中に投影されているのかと思うと、強く胸を締め付けられる。あなただって、どこも同じだって知っていたのと違いますか?と。
静かな怒りというかなんというか
駄作だと思いました。
登場人物は二種類に分かれる。意味なくつっかかってくる人間と「この世はクソだ」と思っている人間。
主要な登場人物は後者に分類されるのだが、人物描写はぺらぺらで奥行がなく、思いやりのある人物は一人としていない。みんな自分の不都合は人のせいだと思っている。
映画的に美しいと思われる場面にも乏しい。
画面の外でアクションがおこっていて、カメラがパンするとその結果がわかる、という表現が4カ所くらいあるが、この手法も映画を楽につくるためのごまかしにしか見えない。
途中から、ああ、この主要人物たちは皆、監督の分身なのだな、とわかってくる。この作品は監督からみた絶望に満ちた世界の描写なのだ・・・と思うとやや落ち着いて鑑賞することができた。
鑑賞者に違った価値観や世界の観方を教えてくれる作品なら、それはそれで価値のあるものだと思う。しかし脚本、監督の表現語彙が少ないので、全然これがリアルな表現につながっていかないのだ。
4時間を超える長尺もそう。
なにかリアルな表現を志してこその長尺だと思うのだが、そこに意味は感じなかった。
最後に主要人物たちが「静かに座っている象を見たい」という共通認識をもって集まり、象のいる場所にむかってバスを走らせる。その部分の構想だけはよいのでそこに1点。
そんな映画でした。
すさみきった世界
何なんだ、この悪意に満ちたすさみきった世界は。「對不起」を言わない世界、「Sorry」の言えない世界が、その版図を拡げようとしている。
逃げ出した自分の犬が小犬を噛み殺しても謝りもせず相手をなじることしかしない飼い主。外の空気が臭いと怒鳴り散らす父親。トイレの水漏れしたゴミ箱のような部屋でつぶれた誕生日ケーキを食べる娘と愚痴り続ける母親。教師の夫が教え子に手を出しても、逆に女子高生を問い詰めることしかしない妻。とくとくと養老院行きを義父に向かって説く男。4人の主人公以外の登場人物には善意の人はいない。彼らの周りの世界は本当にとげとげしい。これが作者の目に映る現実世界なのか。
犯罪映画でもないのに次々と人が死に、犬も死ぬ。浮気現場を押さえた男は妻と間男の目の前で飛び降りて死んでしまう。スマホを盗んだと疑われている友人をかばって番長に立ち向かった少年は、故意ではないが相手を死なせてしまう。家に居場所がなく犬と散歩に出た男の小犬は噛み殺される。少年が助けを求めて向かった祖母はすでに息絶えていた。死は彼らのすぐそばにある。
この映画の作者は極端にパンフォーカスとピン送りを嫌う。それぞれのシーンでは、そのシーンの主人公にピンが固定され、それ以外の登場人物にピンが合うことはまれだ。その他の登場人物はピンの合った主人公の背後で顔や姿がぼやけたまま台詞を話す。この意図は何なのか。誰が何を話し、何をするかは主人公たちにとってはとるにたらないことなのか。
4人の主人公たちは、そんな世界を自分に対しては誠実に生きようとしている。しかし、その誠実さとは一日中座ったままで何もしないサーカスの象でしかないのかもしれない。
諦念
234分。インターミッションなし。約4時間の中にどん底の1日を追いかける。
長回し、背中、横顔、アップ、ぼやける背景。最後まで救いなど一片もない。喜びもない。疲れ、苦しみ、後悔、逃走、諦念、怨嗟...負の状況と感情たちは暴発しない。ただただそこを漂っている。派手なドンパチではない、リアルな暴力。痛み。怒り。
目の前で友人に飛び降りされた男。校内で幅を利かせるボスを突き飛ばしてしまい逃げる青年。母との関係に疲れ教師に寄り掛かってしまう少女。娘夫婦に疎まれる老人。
どことも繋がらなかったように見える4人が複雑に絡みあったり離れたり、4人の物語をそれぞれ生きる。男にある強い不信と自己保身は諦念に通じ、少年と少女ももはや未来を描くことなどできていない。老人が訪れる老人ホームにあるのは、虚無の姿。この物語は引き延ばされた諦念と絶望でできている。
そして、それをひたすら突き放すように撮る。背中の歩み。横顔の表情。目。どこかに入れ込むというより、その場を映し取る。
監督のフー・ボーはこの作品完成後、29歳で命を断った。光はなかったのだろうか。「どこに行っても同じだ」と思ったのだろうか。この物語に出口が示されないように、出口がなかったのだろうか。結局は分かりようもない。けれども、この作品を遺して逝ってしまうなんて、と思う。年齢を重ねたときに、また監督が見た、異なる風景を共有したかった。この作品で、鑑賞した皆がそれぞれの「彼の風景」を共有したように。
絶望にもがくこの作品が愛おしくてたまらない
中国の地方都市、老朽化した住宅、親の叱責……格差社会、老齢化、いじめなどは世界標準だろうが、それにしてもこの居心地の悪さはいったい。
みんな不幸だった。居場所がなかった。しかしそこから抜け出すには余りにも愚かだった。
息もできないほどの234分。嫌になるほどの閉塞感が全編を覆った。若者も、老人も傷を負った。観る我々さえも無傷ではいられなかった。
これは激痛をともなう悲劇の傑作。稀有な作品と言える。
しかし何故だろう。もがき苦しむ彼らが愛おしくてたまらない。限りなく厳しいこの作品が愛おしくてたまらない。
満州里には一日中穏やかに静かに座っている象がいるという。そこは彼らの希望だった。満州里は遥か彼方だったが象の鳴く声が聞こえた。
自分がスクリーンの中にいるような、かつてない「没入感」
始まって2時間くらいまでは、
・ストーリーがどこに向かおうとしているのか、全くつかめない
・誰が主人公で、どういうキャラクターなのか、なかなか見えてこない
・画面が暗くて、息詰まる感じがある
という特徴があって、観るのが難しい映画であった。
そのわりに“長回し”が多用されて、なかなか話が進まないので、ストレスが溜まる。自分は途中で、10分くらい寝てしまった。
ただ、後半になると話がつかめてくるので、全部で4時間といっても、特に長いとは感じられなかった。
また、“長回し”といっても、常にまとまった意味をもつシーケンスを映し取っているので、「サタンタンゴ」よりは、ずっと楽に見ることができた。延々とダンスを見させられるようなことはない(笑)。
フー・ボー監督は、タル・ベーラ監督のワークショップに参加するほどで、1シーン1カットの“長回し”という特徴は受け継いでいる。
ただし、タル・ベーラのような、輪郭やコントラストが“くっきり”した白黒作品ではない。
カラーだが色の彩度は低く、少しぼやっとして暗いが、これが求めていた“色彩”だったらしい。そのため、早朝や夕方の撮影を繰り返す。
また、カメラの“焦点深度”が極端に浅く、特定の被写体にしかピントを合わせないのも、他で見ないようなフー・ボー独自の手法だ。
“長回し”については、“成功”している部分と、“無駄に長い”部分の両方があると思った。
例えば、「モンキー・パーク」や、ラスト近くの駅を見下ろす場所での“長回し”は、素晴らしかった。
映画を見ていて、これほど“自分がスクリーンの中にいる”ような「没入感」を感じた経験は、自分には今まで無かった。
しかし一方で、総じて室内や建物内での“長回し”には意味が感じられず、時間を贅沢に使っているだけの無駄と感じられた。
坂本龍一は、「無駄なショットがあった記憶はない」とコメントしているが(公式サイト)、自分は同意できない。
ちなみに、「とりあえず瀋陽まで行って、そこから満州里へ」というシーンが出てくるが、満州里市とは中ロ国境の内モンゴル自治区だ。
観ている時は理解していなかったが、つまり、ロケ地の石家庄市あたりから、“東北部の地の果て”に行くというイメージだったのだ。
この点だけは、あらかじめ知っておいた方が良かったと思う。
終映後のトークによれば、短編小説が原作のようで、登場人物はヤクザのチェンのみらしい。その他の人物は、この映画で新たに描き出したのだ。
また、本作品には、お互いを傷つけ合って生きている、現代中国の“生きづらさ”が表現されているという。
確かに、これでもかというくらい、暴力や口論のシーンが描かれる。笑顔など、見た記憶が無い。
全編にわたって、常に小さい争いや不平不満で埋め尽くされており、非現実的で、“異常なもの”を追い求めた映画と言えるだろう。
監督の自死によって、プロデューサーが強制した2時間版ではなく、この4時間版の上映が可能となったらしい。
この色彩、この「没入感」は、映画館で味わいたい。
長いけどいい映画
登場人物はみな他人に無関心であり自分勝手であり息苦しい世界観。画面手前にいる人物にしかピントが合わず後ろにいる人物などはぼやけているのが、閉塞感をより一層深めている。
このほとんど救いようがない世界が4時間弱続き、見る方もかなり体力がいる。
それでも終盤に、 満州里に行こうとするブーに向けてジンが「絶望から逃れようとして別のところに行ってもまた絶望するだけ。」「他の地に行きたいと思っても行ってはならない。行きたいと思いつつそこで生きていけ。」と、ある意味真理を突いたことを言うが最終的に何かしらの希望を持って彼らと一緒に満州里に行く姿はじんわり感動した。
また映像面では、中国の廃れた炭鉱の街並みは寂しさを感じるとともに美しかった。(終盤のチェンが撃たれた夕暮れの高台のシーンは特に美しい。)
監督はこの映画を撮った後自殺されたようだが、もっとこの監督の作品を見てみたかった。
偶像を求めて
中国の田舎町を舞台にした友人の女と寝たチンピラ、父親と不仲で学校では粋る同級生に蔑まれる少年、家族の引っ越しで老人ホーム入所を促される老人、母親と確執のあるやさぐれ娘の話。
それぞれが抱えた闇やトラブルから、居場所がない、ここに居たくない、どこかに行きたい、行く当てもない、満州里の大サーカスに一日中ただ座っているだけの像がいるという話を聞きみてみたいとなる展開で、序盤は絡みの無い群像劇かと思ったら徐々に関連していき、又、繫がりをみせて行く。
BGMは殆どなく、暗い画面にたっぷりの間と横顔や後頭部アップで閉塞感のあるつくりで、動きは少なく、多くは台詞で説明しているイメージ。
いらないシーンやめちゃくちゃ長い間が多く、それで雰囲気を作っているのはわかるけど、やはり幾ら何でも上映時間が長過ぎる。その割に話がとんだりして判りにくいところもあったし。
こういう話は好きだし締めも嫌いじゃないけど、半分ぐらいの尺で編集してくれたらもっと高評価したのになー。
スヌーカーの知識が乏しいから調べたけど、アオミのキューが良くわからなかった。
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