1200年の歴史を刻む京都が日本の帰趨を決める中心となった最後の栄光の時代・幕末。政治と軍事と経済が複雑に錯綜し、多くの男たちの野心と欲望と虚栄と高慢が渾然と渦巻く火薬地帯となっていた京都。
1200年の悠久の京都の歴史は、成り上がり没落した数多の男たちの闘争と栄華の歴史である一方、無名の数多くの女たちが専ら黒子役として時代を動かしてきた歴史でもあります。傲慢で身勝手な男たちに弄ばれる哀しい女の性、只管陰で呻吟し嗚咽してきた長い長い歴史を経た幕末を舞台にした、女視点から描かれた一人称の作品、それが本作です。
本作は、新撰組初代局長・芹沢鴨暗殺事件を女性視点で描写した浅田次郎の時代小説『輪違屋糸里』を映画化した作品です。
近藤勇と芹澤鴨、両派の対立が深まり、副長・土方歳三を慕う島原輪違屋の芸妓(天神)糸里、芹沢の腹心・平山を愛する吉栄、芹沢の愛人・お梅、彼女たちが生きた幕末・京都島原。女たちが愛したのは激動の時代を駆け抜けた新撰組の無頼の男たち。その愛は時代に、運命に翻弄され、己の意思を違えて彷徨してしまいます。
置屋・輪違屋に身を置く天神の糸里は、これに抗して京女の意地と侠気を毅然と示す。「男はんの夢のためやったら、おなごは死んでもええんどすか、ほんまにそう思うんやったら、斬られて本望や。」その逞しくも凛とした言動こそ、1200年間に亘り澱として沈殿した京女の怨念と恩讐が一気に噴出した本作のテーマです。
糸里が放つ、松平容保公御前での口上の威風堂々たる勇ましさは、私には、一瞬『極道の妻たち』の岩下志麻姐御を彷彿させました。
ただ糸里役の藤野涼子の喜怒哀楽を顕にしない無表情の演技からは、京女永年の怨念と恩讐と、それでも捨てられない哀しい慕情が伝わってきません。また土方役の溝端淳平も、不気味さは漂わせつつも、狡猾で知恵者で腹黒い土方歳三という一世一代の策士を、その端整な容貌や皓歯が却って災いして、表情や台詞回し声音では表し切れていませんでした。残念ながら、いつもの爽やかで明朗快活な好青年とは180度異なるキャラクターが演じ切れていないように思います。
但し吉栄役の松井玲奈の演技は、その時々の感情を直接的に表し、女の哀しい境遇と揺れ動き弄ばれる心の動揺と哀れさが直に伝わり悲壮感と憐憫の情を昂揚させてくれました。
幕末・京都の緊迫した臨場感と熱気が、これも京都らしい雅やかな嫋やかさに塗された空気感に覆われた感がしたのは、やはり随所に現れる京都の社寺仏閣を盛り込んで京都で制作されたせいでしょうか。