「入れ替える→元に戻す」グリーンブック f(unction)さんの映画レビュー(感想・評価)
入れ替える→元に戻す
「黒人運転手」+「白人客」という組み合わせは50-60年代のアメリカにおいては当然のように見かけられる光景だったろう。
だが「白人運転手」+「黒人客」という逆の組み合わせをやってから、元に戻してみる。最後だけ、黒人に運転手をさせてみる。
するとどうだろう。周りの人々からしてみれば当たり前の光景に、当人たちにしか分からない特別な何かが育まれていると感じられる。
当たり前の光景がいかに特別なものであるか、それは長い旅路を経た2人の主人公(そして観客の我々)にしか分からない。
奴隷として強要されたのでもなく、生活のため仕方がなかったのでもなく、親愛の情から、運転手という役割を買って出る。
それは一切の差別のない世界においてかくあるべしとでも言うかのような、「自ら望み、喜んでやる」という自己決定に従った行いであった。
「黒人運転手+白人」という構図はいかなる事情を抜きにしても差別的である、と決めつけるのではない。
「黒人は貧しく粗野」「白人は豊かで教養がある」と一般化するのでもない。
「超富裕層の黒人」「貧困層の白人」という例外的な存在、個別の事例を踏まえ、よくある光景の背後にある物語を読み取ろうとする。
「黒人は皆等しく貧しく、困窮しており、救済が必要である」と考えることもまた差別である。
黒人だから、白人だから、といったフィルターを取り払って、個人の事情をよく知ろうとすること。
それが差別的ではないということの本質ではないか。
個々人の抱える事情=ドラマを経由してみる。
すると、「反差別的なようでいて差別的な人」からみれば差別的にも思える光景の背後に、こわれないよう守りたくなるほどの親愛の情があるのではないか、という可能性に気づかされる。
そのような可能性を見落とさないよう、個々人の事情に耳を傾けようという気にさせられる。
(もちろん、ドクター・シャーリーの金持ちぶりは映画向けに誇張されているだろう。それを差し引いても、当時の黒人として彼は例外的にリッチだったろう。だから黒人運転手と白人の乗客を見るたびに「その背後にドラマがあるかもしれない」などと考えるのも愚かに思える。ポイントはあくまで、黒人(に限らないが)=被差別対象あるいは社会的弱者、のような認識がむしろ弱者を弱者のままに据え置いてしまうこと、への警句にあると思う)