劇場公開日 2019年3月1日

  • 予告編を見る

「人は互いに認め合える」グリーンブック 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)

4.5人は互いに認め合える

2019年3月6日
Androidアプリから投稿
鑑賞方法:映画館

悲しい

知的

幸せ

 本多勝一の「アメリカ合州国」で深南部の人種差別の現状が明らかにされたのは1960年代の終わり頃である。クリスチャンの黒人運動家キング牧師が暗殺されたのが1968年、イスラム教徒のマルコムXが暗殺されたのが1965年だ。本作品の舞台は1963年だから、二人の指導者による黒人公民権運動が盛んな頃だと思われる。運動が盛んであれば、それに反発するほうも盛んになる。多くの黒人は理不尽な差別に耐えていた。

 本作品を観て解ったことは、個々の白人はそれほど黒人に対して差別感情を持っていないということである。差別を作り出すのは共同体の一部の人間だ。歴史的には主に綿花栽培の労働者としてアフリカから「輸入」された黒人たちは、奴隷売買という市場の商品として、人間的な扱いをされないできた。最初はアフリカの言葉しか話せなかった黒人たちも、英語を理解するようになると、次は英語で自分たちの権利を主張するようになる。しかしそれが気に入らない人間たちがいた。
 人間の自尊感情は何らかの基準で自分よりも下の人間が存在することで担保される。本来は他人と比べることなく自尊感情を持てるようにしなければならない。なぜなら、この世界は自分が五感で感じているから存在するのであって、自分が存在しなければ世界も存在しないのだ。自分が死んだらどうなるかなどと考えるからいけない。自分が死んだら世界は終わる。人は自分だけの生を生き、自分だけの死を死ぬのだ。ゴータマ・ブッダが生まれてすぐに天上天下唯我独尊と言ったのは、そういう意味である。
 しかし多くの人々はゴータマが説いた孤独な自尊感情を持てず、他人の評価によって承認欲求を満たす。その裏返しが差別である。権利を主張し始めた黒人を弾圧し、差別を固定化することで自分たちのレーゾンデートルを求める。差別は多くの場合、虚構によって作られる。嘘八百を並べて黒人たちを差別する理由にするのだ。そうやって作られた差別の虚構が蔓延して、あたかも本当であるかのような錯覚をさせてしまう。それが差別の実態だ。そして差別主義がその時代のパラダイムになっていく。自分で物事を考えない人はパラダイムに流される。それに、差別に加わらないと次は自分が差別されるという恐怖心もある。教室でのいじめと構造は同じなのだ。共同体に蔓延する差別という空気を一掃しない限り、民主的な社会は得られない。それには長い年月がかかる。人々の頭の中に充満した差別の感情は、簡単に取り払うことができない。場合によっては親から子供へ差別感情が受け継がれる。人類から差別がなくなる日は永遠に来ないかもしれない。

 マハーシャラ・アリは、数日前に観た「アリータ バトルエンジェル」での肝の据わった悪役を演じた俳優と同一人物とは思えないほど、本作のドクター・シャーリーはストイックで落ち着き払った知識人であり芸術家であった。「暴力は敗北だ」という哲学が、彼の努力を支えてきた。
 主人公を演じたビゴ・モーテンセンは微妙な表情を使い分けることのできる達者な役者である。ガサツで無教養だが、嘘はつかず、悪に染まらず、意外と実直で頑固なトニーを好演した。ケネディの言葉を自分に都合よく間違えて憶えているところは、陽気なイタリア人らしくて笑える。
 人間が他人と完全に解り合えることはありえないが、互いの考え方を認め、性格を認め、存在を認め合うことはできる。そして同じ時間を過ごし、同じ星を眺めて美しいと言うこともできる。それは多分、しあわせなことである。

耶馬英彦