「何を持ってして「おかえり」とするか」男はつらいよ お帰り 寅さん 思いついたら変えますさんの映画レビュー(感想・評価)
何を持ってして「おかえり」とするか
「ニッポンの顔」と言っても過言ではなかった国民的邦画が姿を消して久しい。ていうか、「世代を越えて毎年の名物になっていた国民的な邦画があった」なんて、僕より下の世代に言って信じてもらえるだろうか(あえて現代人に似た経験を当て嵌めるなら「映画クレヨンしんちゃん」とかになってくるか)。僕らは親の膝の上で寅さんの悲喜劇を楽しんだ最後の世代である。しかしあれだけ好きだった「寅さん」の事を、僕達はどこまで克明に/具体的に覚えてるだろうか。
本作はシリーズ終盤でストーリーの牽引役であった満男、その相手役だった泉のその後が芯になって語られる。
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この「終盤で」の記憶はよく覚えてる。寅さんは満男の恋愛指南役(のつもり)でアレコレ人生訓をボヤいて世話を焼く兄貴分、後見人キャラにシフトしていったわけだが、これは寅さん=渥美清が肝臓と肺を癌に冒され長時間の演技が困難になってきた事情がある。晩年近くでは「最近の寅さんは目に見えて辛い、早くシリーズを打ち切ってくれ」なんて声まで上がっていた。
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という事情とは言えドラマ的な文脈で言えば満男がその後の語り部を担うのは筋が通っている。納得の選択だ。
満男の目を通して画面に移る日常は当たり前だが現代東京のそれで、カフェに変わったくるまやの裏にある畳の座敷が僅かな下町の残り香だ。で、「寅さん亡き後の寅さんの世界」なのだが、満男本人の忙しさと裏腹に兎に角ゆっくり、ゆっくりと映画が進んでいく。もともとテンポで言うと忙しないシリーズという程でもないのだが、立て板に水の寅さん節がコアにないだけでこうも印象が違うのかと静かなショックが僕を襲う。と同時に、体感として思い出す。僕達は寅さんのどういう人柄に、オーラに惹かれてたのか。
実際本作の語り口も、満男の行く先々で寅さんゆかりの人々(これが又必ずしも幸福ではなく、どちらかというとリアル・シビアな社会に当てられてる人が多い)との出会いがあり、落ち穂拾いが如く「寅さんとの思い出」が高頻度でフラッシュバックされ、あたかもそこに寅さんが座ってるように錯覚させる構造を取っている。そしてその場の思い出パートが終わるとまた常識的な東京の静けさに戻され、そのコントラストで「ああ、もう居ないんだった」とメランコリックになる。
で、これまた当たり前だが…本作は「お帰り」とは言ってるが言葉通り寅さんが物理的に蘇生してくるお話などではなく(こんな冗談を言ってしまうのも寅さんならそうなってもおかしくない、ぐらいの存在感が強烈に焼き付いてるからだろう)、満男がこれからを生きるヒントを瞼の中の寅さんに見出すような演出で映画は締めくくられる。
では、何を持って「お帰り」なのか。寅さんが帰ってきたのはどこなのか。スクリーンか柴又か、満男やさくら、リリーら登場人物たちの胸中か。
僕は、「僕たちの中に帰ってきた」のだと思う。本シリーズは49作目から今作まで、実に20年以上ものブランクがある。その20年の間、現実の関門に忙殺された人もいれば、別の楽しいものを糧に生きた人もいる。或いは空虚に時間だけが過ぎた人もいるだろう。何をしていたにせよそれは「僕たちの中の寅さん」が薄れていくには充分な長さだった。ここで「寅さんってどんな人だったっけ」を指差し確認する事で、僕達はその人となり、その人間的魅力を再インストールしたのではないだろうか。
本作は50本ある「男はつらいよ」でただひとつエンディングが流れるタイトルだ。言い換えればここで初めて幕を引いたともとれる。寅さんと生きたニッポンは50年間「男はつらいよ」という1本の映画を観続けていた、もっと言えば寅さんに魅せられた一人一人が「寅さんのいるこの世界」の登場人物だった…というクソデカ解釈は流石にひたりすぎだろうか。
でも、もしそうなら(勝手な展開で恐縮だけど)、僕達が寅さんに再会する方法も満男たちと一緒のはずである。ただ、思い出せばいい。人生に追われて何か大切なことを忘れたような気になった時、誰でもいつでも「男はつらいよ」を観ていいのである。正月に親の膝の上で見た時と同じように。