「あなたのそういう優しいところは、わたしはキライ」男はつらいよ お帰り 寅さん りゃんひささんの映画レビュー(感想・評価)
あなたのそういう優しいところは、わたしはキライ
『男はつらいよ 寅次郎純情詩集』までの各作はDVDも含めて鑑賞、その後の作品は間を置いて鑑賞という、中級レベルの寅さんファンです。
さくら(倍賞千恵子)と博(前田吟)の息子・満男(吉岡秀隆)は、サラリーマン勤めの後、小説家に転向し、評判作も出版できる、ひとかどの小説家になった。
6年前に妻と死別し、いまは高校生の娘ユリ(桜田ひより)とふたり暮らし。
ある夜、高校生のときからしばらく恋心を抱いていた初恋のひと・泉(後藤久美子)の夢を見る。
なんの偶然か、それまで嫌だった大型書店でのサイン会に件の泉が現れる。
彼女は、満男との交際の後、ヨーロッパへ渡って結婚し、現在は難民支援のUNHCRの職員をしているという。
日本での滞在は短く、満男との再会を喜ぶのも束の間、泉は疎遠だった父親のもとを訪れることになる。
彼女の父親は、かつて妻と娘の泉を棄てて、別の女のもとに走った経緯があり、泉はそれを赦せない・・・
という物語で、その合間合間に満男やさくらや、永年の寅さんの伴侶ともいうべきリリー(浅丘ルリ子)による寅さん(渥美清)の回想が入るという構成。
この構成、20年以上前に渥美清が亡くなっていることを思えば、これ以外に手はない(『スター・ウォーズ』最新作のキャリー・フィッシャーの手法は使えない)。
そして、使われるシーンも名場面ばかりだ。
メロン騒動、満男の運動会へ寅へ代参することでのすったもんだ、さくらからリリーへ「兄と一緒になってくれると嬉しい」と代替プロポーズの一幕、博が寅にさくらとの結婚を申し出てキッパリ断られる一幕などなど(その他には、泉と満男の過去のいきさつなども挿入されるが、これは物語を動かすだけの役割のように感じられる)。
ここで使われた寅さんのシーンは名場面、爆笑の一幕であるのだけれど、これを撮ったときと現在とでは山田洋次監督もさぞや心変わりをしてるのかもしれない。
使われたシーンは、寅さんを愛おしく思えるシーンばかりであるが、それは後年、年を経て振り返ったときに、である。
特に、第1作では、寅さんを愛おしいと思うだけでなく、どことなく嫌悪感もあったような気がする(小市民に対する嫌悪感とでもいえばいいのかしらん)。
特に、博がさくらとの結婚を告げに行ったところ、
博「ぼくの気持ちがわからないんですが」
寅「わかってたまるか。俺をお前は別人だろ。早い話が、俺がイモ食って、お前が屁をこくか」
ってところ。
理屈はわからないが感情が収まらないので、なんだかわからない屁理屈(まさに、屁・理屈)でやり込めるあたり、この小市民的な行動を山田洋次は「可笑しいが、共感すべきではない」と感じていたような気もする。
その後の、メロン騒動、満男の運動会へ寅へ代参するしないで表出する寅の、ひがみっぽさや理屈の通らなさなども、「可笑しいが納得はできないねぇ。まぁ、少しは共感するが」みたいなスタンス。
そして、泉に恋する若き満男に対して、「心の中で思っていても、何も足してしないんじゃ、愛しているとは言えないんじゃないのか」と説教しながらも、「そういう、おじさんはどうなの」と切り返されるとへどもどしてしまう寅。
こういう寅さんの行動に「もどかしさ」を感じていたのは山田監督自身だろうが、そういう寅さんを愛している大多数の観客に「NO」ともいえないもどかしさ・・・
そういう意味では50年に渡る日本人論的な映画なのかもしれませんが、寅さんの一家(代替わり、商売替わりした「諏訪」一家)は、もうある種の幻影でしょう。
で、極め付きが、ラストの満男と泉の別れ。
6年前に妻を亡くしたことを隠していた満男は別れ際に泉にそのことを告げる。
「君に負担を掛けたくなかったんだ」という満男に、「そういう、あなたの優しいところが好き」と泉は抱擁し接吻をする。
初期の寅さんには、愛おしさと同時に多少の嫌悪感があったのだけれど、寅さんの心根とまったく同じ満男に対しては、全面的に赦してしまう・・・
個人的は、泉は「そういう、あなたの優しいところが、もしかしらた嫌だったのかも・・・」と言いながらも抱擁する。そこで、満男は泉との3日間の夢から醒める必要があったと思う。
高校生の娘に、「3日間、どこかへ行っているようだった」と、まるで母親のように言われているようでは仕方がない。
50年の歴史も感じ、久しぶりに寅さんを大画面で観れて、面白い映画だったのだけれど、どこか生理的は落ち着きの悪さを感じる映画でした。
若いひとが観ると、どう思うのかしらん。
そもそも、若いひとは観ないか・・・