永遠の門 ゴッホの見た未来のレビュー・感想・評価
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天才芸術家を十分に理解したかったが、謎も少なからず残った
ジュリアン・シュナーベル監督による2018年製作のイギリス・フランス・アメリカ合作映画。原題:At Eternity's Gate、配給:ギャガ、松竹。
ゴッホが、牧師の息子で宗教学を学んでいたこと、或いはシェークスピアの戯曲を日常読んでいる様なインテリであること、更に画商である弟の仕送りで生活していたことを、初めて知った。一つの絵画、例えば靴の絵を描いていくプロセスを最初の一筆から見せてくれたことは嬉しかった。そして、ゴッホは描く勢いの様なものを、ゴーギャンと異なり重視していたことを教えられた。
ゴッホが聖職者に話していた様に、宗教的に自分は神が早く送りすぎた存在であり、未来の人間のための絵を描いていると確信的に話すところは、成る程そうかと思った。子供に自分に絵を揶揄された時の不器用な対応、精神的にあまりに脆く弟にあやされるのが、天才画家の裏側面なのか?
画材を求めてゴッホが自然に触れ戯れる姿は良く理解できるし、異様なものが見えるというのも精神的な病気によると理解できる。ただ、ゴーギャンが都会に戻ることを受けての耳切断とそれをゴーギャンに渡そうとした行動は、映画を見ても良く理解することは出来なかった。また、ゴーギャンが何故、ゴッホと共同生活を行ったのかも、自分には良く分からなかった。そういった点で、ゴッホの理解は深まったが、謎も多く残り(自分の理解能力の低さに起因かもしれないが)少なからず不満を感じた映画ではあった。
製作ジョン・キリク、製作総指揮カール・シュポエリ、マルク・シュミット、ハイニー ニック・バウアー 、ディーパック・ネイヤー 、シャルル=マリー・アントニオーズ、 モーラ・ベルケダール 、ジャン・デュアメル ニコラ・レルミット 、トーステン・シューマッハー 、クレア・テイラー 、フェルナンド・サリシン 、マキシミリアン・アルベライズ。
脚本ジャン=クロード・カリエール、ジュリアン・シュナーベル 、ルイーズ・クーゲンベルグ、撮影ブノワ・ドゥローム、美術ステファン・クレッソン、衣装カラン・ミューレル=セロー、編集ルイーズ・クーゲンベルグ、ジュリアン・シュナーベル、音楽タチアナ・リソフスカヤ。
出演は、ウィレム・デフォー(フィンセント・ファン・ゴッホ)、ルパート・フレンド(テオ・ファン・ゴッホ)、オスカー・アイザック(ポール・ゴーギャン)、マッツ・ミケルセン(聖職者)。
神の崇高で残酷な御業
18年前、メルボルンにひと月ほど滞在した間に、同市内の美術館で開催されていた印象派展で「ローヌ川ので星月夜」を鑑賞したことがある。その圧倒的迫力に心を奪われ、気が付いたら40分ほどその前に立ち尽くしていた。
1888年9月の作品。ゴーギャンがアルルの黄色い部屋を訪れて共同生活を始める直前だ。作家としての自負心も働いて野心的に創作を重ねた、ゴッホにしては割と健全な時期だったのではないか。
映画ではこの辺りの場面は描かれなかったが、運筆の速さをゴーギャンに嗜められるシーンが、18年前に実物を鑑賞した時の記憶と重なった。ゴッホは神に示された眼前の景色を「天啓」として受け止め、その余韻が消えぬうちにキャンバスに留めておきたかったのではないか。
ウィレム・デフォーのゴッホは正気と狂気の狭間で苦しみ悶える選ばれし男を見事に演じていた。30台半ばから亡くなる37歳までにしてはちと老けてはいるが、狂気に苛まれた人特有の近寄り難さは感じられず、何とかして救ってやれないかと思わせるいたいけな感じが良かった。神の領域に近付こうとする純粋さが、よくも悪くも稀代の作家の本領だったのだろうと思わされた。
画面の下半分の被写体深度を変えた表現技法は、ゴッホの見えを表現するにはいささか凝りすぎでかつ分かりにくかったのではないか。ゴッホの視力に問題があったのかと観賞後に調べてしまった。映像作家としてのどんなこだわりも、ゴッホの作品に迫ることは不可能であり、その原風景を素直に撮すだけで十分な映像美を讃えていただけにもったいない工夫だった。
画家の画家による画家のためのゴッホ
監督はウォーホルと同時代に世界的に活躍した現代美術家ジュリアン・シュナーベル。画家だけあって今作品には様々なカットで印象派の名作絵画のアングルが既視感いっぱいに使われている。ロートレック、マネ、セザンヌ、ルノワール、ゴーギャンなど・・美術ファンにはたまらないサービスだ。ゴッホの感情を映像の色彩で表現したりゴッホの意識の混濁具合をカメラレンズのぼかしで表現したり・・また最新のゴッホの死の解釈をそのエンディングに持ってきたりで、美術にそれ相当の知識のある人にはたまらない映画であったが、独立した映画としての魅力に溢れているかと言うと多少独善性に満ちているとしか言えない部分もあるのは事実だ。シュナーベルにとってこれは映画作品と言うより映像によるデッサンのような意味合いの強い作品と言えるだろう。
伝記…
ということで面白いとかつまらないとかではないのはわかるが。。なぜ子どもたちや、人々に嫌われていたのか、耳を切るに至ったのか、ラストはなぜ殺されたのか?描かれていないので感情移入が難しいが、実際も謎なので仕方ない。なぜ生きてる時代に晩年評価されたやに見受けられるが、絵が売れなかったのだろう。画商の弟は素晴らしい。どちらが兄かわからない。
ゴッホの伝記映画
ゴッホの人生がどんなものであったかを伝えるのが
伝記映画のするべき事ならば
大体上手くやってる感じはする
ただゴッホの内在した狂気とかには
やはり触れられないよね
狂人だと思われ、どうであったかも正確な記述は残ってなさそう
まぁ、それはさておきウィレム・デフォーはいいキャラクターを作ってる気がする
演技として悪くないと思う
ただ、やはり伝説の中の人だから上手く描くのが難しい
そんな気がした
結局頑張って作ってもこうだったとする別の意見も存在する訳で立証できない
ゴッホの最後の死に方もこれと決めてしまっていいのか?
そんな想いが出てくる
こうして物語にする事で議論が活発になるのであれば
この映画に意義があったんだろうと思う
ゴッホだ
ゴッホという人物像を語るための要素を(支援していた弟の存在、耳を切り落とすきっかけとなったゴーギャンとの日々、当時のゴッホの絵に対する世評など)最小限に、ゴッホがどうやって生きていたかを描いている。
当時のことは製作者の皆さんは知らぬはずで、すべては資料からの事実と推察で構成されてるはずなのに、劇中のゴッホが、まるでゴッホそのものを観ているよう。ゴッホ愛にあふれるチームが作った、ゴッホの映画。
ウィレム・デフォーが、フィンセントにしか見えない。
カメラワークは、「見づらい」という印象を持たれるかもしれないが、画面下部だけ意図的にぼかしたり、人間の視点で・視点からゴッホを画でとらえているので、タイムスリップした感覚に陥る。
ゴッホ好き人間がタイムスリップして、透明人間になって、ゴッホの間近でゴッホをずっと観察しているような。ゴッホ好きにはたまらない。最後のゴーギャンの詩も美しい。
「天使は悲しむ者の近くにいる。そして病は時に人を癒やす。病気の状態が絵を生むんだ」「健康を取り戻すのが嫌になる」「人は僕を狂人と呼ぶが、狂気は最高の芸術だ」
この言葉に笑い、共感し、涙し、救われる芸術家は多いはず。
未来の人々のために神は僕を画家にした
映画「永遠の門 ゴッホの見た未来」(ジュリアン・シュナーベル監督)から。
ストーリーとしては、ドキュメント風で目新しい発見はなかったが、
ゴッホの心の内とか、ゴーギャンとの会話の中で、
彼の絵に対する考え方などがわかるフレーズが多かった気がする。
以下、順不同になるかもしれないが、残しておきたい。
「僕は1人で静かに世間の全てを忘れて、そこにあるものをひたすら描く。
ゆっくりと心に生まれるものを、それだけだ」「存在には理由がある」
「見るものがないと戸惑う。僕には見る対象が必要なんだ」
「見るたびに新しいものが見つかる、自然の本質は美だから」
「絵は素早く描くものだ、それが天才が描く線だ」「僕の中に何かがいる」
「誰も見えないものが見えて恐ろしい。そんな時は自分に言い聞かせる。
僕にに見えるもの見えない人に見せてやろう。彼らに希望と慰めを与えよう」
「未来の人々のために神は僕を画家にした」
「人生は種まきの時で収穫の時ではないという」
「描くことは美点であり欠点だ」「描くのは考えるのをやめるため」
「自分が見たものを分かち合いたい」
「芸術家とは世界の見方を教える者と思っていた」
「天使は悲しむ者の近くにいる。そして病は時に人を癒す。
病気の状態が絵を生むんだ」「人は僕を狂人というが、狂気は最高の芸術だ」
個人的なは、望んでもいないのに、勝手に土足であがりこんできて、
誹謗中傷を浴びせ、1人で興奮して彼に怒りをぶつけて逃げていった、
学校の先生と子供たちに対して、憤りを覚えてしまった。
この画家を呼ぶのに天才という言葉は果たしてふさわしいものなのか。そんな想いが頭に浮かびました。心の内側が伝わってくる作品です。
この作品の前に、ゴッホをテーマにした他の作品(※)を観たのですが、
ゴッホの人物像が余り描かれていないような気がしました。
この作品ではどうかな、と気になって鑑賞です。
( ※「ゴッホとヘレーネの森」 )
この作品の中では
人間的な面が充分に描かれていたと思います。
悩みこだわり
自信にあふれたかと思えば
自信を失い、取り戻し
心を病んで
最後は…
この作品で
ゴッホの全てが理解できたとは言えませんが
彼の 「作品を産み出す力の源」 が
何となく分かった (ような)
そんな気がします。
自分の描く世界 それが
世の中の求めるものとは違う そうと知りつつ
描きたいものを描く
ただひたすらに描く
…
それしかできない作家だったのかもしれません。
☆ 余談です
弟の存在
時に兄のようにさえ見えました。
ゴッホの精神的支えだったのでしょうか。
彼がいてくれたことが救いです
ゴッホを演じた俳優さん
自画像から抜け出してきたかのようでした。 すごい似てる…
ゴッホを扱った映画
このところ多く作られているようですが その中で
「ゴッホ 最期の手紙」
この作品もすごく観たくなりました。 ( 油彩画がアニメーションする作品 )
どうしようか思案中です。
☆映画の感想は人さまざまかとは思いますが、このように感じた映画ファンもいるということで。
銃弾を受けた日まで絵を描いていた
ストーリーは
1880年代パリ。
若い画家たちがカフェで、いかにして絵を売って生活していくかで画商と交渉をしている。ゴーギャンは作家たちが絵を描くことよりも、売ることに汲々としていることに腹を立てる。自分は自由を求めてマダガスカルに行くつもりでいる。友人のフィンセント ゴッホには、ほかの画家たちとつるんでいるのを止めて、南の温かいところに行って絵を描くように勧める。彼の言葉に従って、ゴッホは南フランスに移り住むことにする。
底の抜けた靴、穴の開いて指が見える靴下、身なりかまわずゴッホは、田舎の景色のなかに身を浸し、風景を写し取る。陽光を浴び、風景を描き続ける。しかし教養の無い田舎の百姓たちにとって画家の姿は異質で、異様だ。田舎の子供たちは画家をからかい、写生する画家を妨害する。怒ったゴッホは子供たちを怖がらせたことで、警察によって精神病院に強制入院させられる。呼び出しを受けて、パリから飛んでやってきた弟のテオに、フィンセントは、じつはこのごろ幻覚が起きて、見えないものが見えたりするんだ、と告白する。しかしパリで画商をしているテオは、忙しくフィンセントにずっと付き添ってやることなどできない。送金の約束だけして彼は兄に、あまり悩まずに見えるものを描き続けるように励まして、自分はパリに帰る。
やがて、ゴーギャンがマダガスカルから、パリに帰って来た。ゴッホはゴーギャンと一緒に住んで、互いに活力を得て、画業に集中する。しかし強い個性を持った男同士の共同生活には、すぐに無理が生じて、ゴーギャンは出ていく。ゴッホは、ゴーギャンに謝罪の意味で、片耳を切り落とす。再び彼は精神病院に入院させられる。
しばらくして、病院長から呼び出され、どうして醜い絵ばかり描くのか、と彼は問われる。ゴッホは自分は神から才能を与えられた。自分にしか見えないものを人々に見せたい、という。彼は退院を許されて、再びマダムジヌーを世話になり宿屋に戻って絵を描き続ける。しかし田舎の地元では、頭のおかしい画家ゴッホを嫌う人が多かった。ワインを浴びるほど飲み、人と関わろうとせず、孤立しているゴッホは、ある夜二人の若者のトラブルに巻き込まれて、腹部を銃で撃たれ、その傷がもとで亡くなる。弟テオがパリから駆け付けた時、彼は息を引き取った。’
というおはなし。
ゴッホのような目を持てたらどんなに良いだろう。果てしない広がりを持った世界で、感性を思い切り自由に羽ばたかせながら生きることができるだろうか。
「ひまわり」を描くゴッホの目には、水々しいひまわりのつぼみが、やがて朝露とともに広がり、強い太陽に射すくめられた末についにしぼんでいく、そのすべての過程が見えていたのだろうか。「アルルの女」を描いているゴッホの目には、ジヌー夫人の強靭な精神に裏付けられた穏やかな人柄と、彼に対する同情、憐憫、母心、包容力、死ぬまで世話を焼いてくれた友情までが見えていたのだろうか。「ガシェット医師」を描くゴッホには、ドクターの自信と誇りをもった、でもユーモアとウィットに富む田舎紳士のほがらかさや人の善さが見えていたのだろうか。
ゴッホは精神医学的にいえば、精神病質に生まれて精神分裂症を発症した患者、社会学的に言えば、全く生活能力が無く、生活のすべてを弟テオの送金に頼っていた上、社交で人と関わることも出来なかった反社会的で、人格障害をもった人間だ。
しかし彼ほど切実に自分の見た物を描こうとして真摯に生を生きた画家はいない。人には見えない永遠の命を描いて人々に見せたい。自分は一生表現者として描くことが自分の使命だと信じて描き、その決意は死ぬまでゆるぎなかった。
映画でゴッホを演じたウィルム デフォーは、この映画でベネチア国際映画賞で主演男優賞を受賞した。アカデミー賞主演男優賞の候補にあげられたが、「ボヘミアン ラプソデイ―」でプリンスのフレデリック マーキュリーを演じたラミ マレックに賞を持っていかれた。ボヘミアン ラプソデイ―を切っ掛けに、プリンスが再び大爆発的な脚光を浴び、ヒットチャートを記録して大ブームを引き起こしたので仕方がない。第91回2019アカデミー賞会場でもプリンスの、71歳で依然としてかっこいいブライアン メイと、69歳のロジャーテイラーがパフォーマンスのトップを飾るなどして、2019アカデミー賞は、プリンスで始まってプリンスで終わった。プリンスの電子音に比べると、フィンセント ゴッホの世界は何と繊細で孤独の世界だろうか。
監督ジュリアン シュナベールは画家でもある。監督した作品には「潜水服は蝶の夢を見る」(2007)と、「夜になる前に」(2000)などがある。
彼は、「ゴッホの伝記はすでにたくさんの監督によって製作されているが、ゴッホの目では世界がどう見えていたのか、という視点で映画を作りたかったのだ」と言っている。
映画は、ゴッホのモノローグで語られ、彼の目線で見たものが映されている。彼の目がカメラになると人との会話では、ハンドカメラで相手がズームアップされる。カンバスを背負って穀倉地帯や森や丘を歩き回る時は、カメラがずっと下がって大写しになる。ハンドカメラが接写と遠近を繰り返すカメラワークは、ゴッホの主観を接写で、客観を遠くで捉えることで表している。これで酔う人が出たそうだ。
ゴッホが南フランスの穀倉地帯や森や丘を歩きまわる。広々とした自然の中で風に吹かれ、光に身をまかせ、永遠を感じる。陽の上がるのを待ち太陽を全身に感じて心を解放させる、そうして描いてきた風景が、精神病院で療養するごとに、徐々にぼやけてくる。風景の半分がよく見えない。徐々に蝕まれていくゴッホの精神が、ぼやける映像によって事実になっていく。彼は見た物を描く。ぼやけていても見ればそこに真実がある。そうやって彼は最後に銃弾を受ける日まで絵を描いていた。
映画のシーンで、ゴーギャンがジヌー夫人を座らせてデッサンを描いている。そこにゴッホが帰って来る。するとやわらゴッホはカンバスを立て、いきなりオイルでものすごいスピードで描き出す。ジヌー夫人はさっさと去っていくがモデルが居なくなってもゴッホは記憶をもとに描き続ける。そんなふうに油絵を完成させてしまうゴッホを見ながら、ゴーギャンーは、「描くのが速すぎるよ。どうしてゆっくり描けないの。」と言い、さらに「君の絵は塗って、塗って、重ねて塗って、まるで彫刻をつくるみたいだ。」とあきれる。二人の天才画家の会話が興味深い。
1853年に牧師の子供として生まれ、1890年に37歳で若くして亡くなったゴッホは、2000点以上の作品を残したという。2017年に彼のデッサン帳が新たに見つかった。
宿屋でシェイクスピアの「リチャード3世」を読んでいたゴッホに、ジヌー夫人が、「そんなに本が好きなら本をあげるわ。でも何も書いてない本なのよ。」と言って分厚い本をゴッホに渡すところで、この映画が始まる。ゴッホはそれをデッサン帳にして持ち歩く。彼によって描きためられたこのデッサン帳が、彼が精神病院から退院したときに他の病院記録などと一緒に放置され、ずっとあとになって21世紀を生きる人々の手に渡る、そんなシーンで映画が終わる。ゴッホは永遠だ、とでもいうように。ミステリーが好きだと、映画の中でゴッホに言わせている。そんなミステリーっぽい終わり方がしゃれている。
とても印象深い映画だ。
ごめんね
全然響いてこなかった。0.5点はパリ在住のメイクの薮内綾さんをロールで見つけたから。
ゴッホについては何度か展覧会も行き人生も少しは知っていたつもり。評価されるのを待たず38歳で苦難のうちに早世した半ば狂った(失礼)画家の生き急いだ感覚、果たしてデフォーでどうなの?好きな俳優で演技しまくっているのは見ればわかるだけに起用に納得いかない。
パリ、アルル、有名俳優を起用した画家の人生についての物語。いくらでも見せられるものがあるのに、なぜもう少しでもため息が出るほど美しい映像を見せてくれないのか。ポスターの美しい写真に騙された。
最後、2016年にスケッチブックが見つかった、って字幕で説明。TVドキュメンタリーのつもりなのか。
視界
よく寝れた。
ゴッホの事は良く知らない。絵画に興味がある訳でもないし、ルネッサンスとかも単語を知ってる程度だ。
なので…全く良くわからない。
この映画の脈絡についていける人ならば面白いのであろう。この映画を観ただけでは、天才と狂人は紙一重って事くらいしか分からない。
まぁ、だいたいからして独自の世界観があるからこその芸術家なわけで…それを解説したり、共有したりなど出来るわけがない。
彼は言う
「僕の世界を皆んなに見せてあげる」
もう唯我独尊まっしぐらだ。
うつらうつらしながら観てたから良く分からなかったのかと思ったのだけど、そうでもなかった。
ある日、ゴッホは少年に撃たれる。
それが故に命を落とすわけなのだけど…。
映画としても突然だった。
この事件は結構認知度が高いのだろうか?
なんらかの確執があるようなのだけれど、全く説明不足で訳がわからない。
おそらくなら全編そんな感じの編集で、時代は飛ぶは、ネタも飛んでいくのだろう…。
面白いなぁと思えたのは、作品のモチーフが随所に登場するところかな。
それとゴッホの黄色と言われるように、作品中に様々な黄色が登場する。
その描写は素敵だった。
模写と言えばいいのだろうか?贋作は的外れなような気がする。ゴッホが残した絵画たちも目に楽しかった。
後はまあ…ゴッホの視界なのだろうけど、時折画面の下がボケる。
ちょっと傲慢かなぁと考える。
他人が見てるものがどんなものかなんて、その人にしか分からない。
「こんな風に見えるんだ」と話しを聞いても全てを共有できるわけもない。
ましてや、天才なのか狂人なのか「見てる世界が他の人と違う」と宣う芸術家だ。
そんな人物の視界を模倣したところで何になると言うのだろう。
生前は認められる事のなかったゴッホ。
死人に口無しとはよく言ったもので、どんな解釈でどんな虚像を作り上げられても反論の1つも出来はしない。
デフォーを観たくて行ったのだけど、結構な予備知識がないと、そのデフォーさえも観れない作品だった。
ゴッホ展
現在開催中のゴッホ展にいきゴッホの人生に興味を持ち、この映画を観てみた。
恥ずかしながらウィレム・デフォーの出演作を2、3作しか観ておらず、しかしそれが却って良かったのか、鑑賞中彼の演じるゴッホがまるで本物のゴッホのように錯覚してしまった。ゴッホは37歳で亡くなるので30代を演じているのだろうがデフォーの顔のシワや年老いた表情は不自然ではなく、ゴッホの苦悩を自然に表現していた。
ウィレム・デフォーの映画といっても過言ではないが一見の価値はある。
少々残念だったのはフレームをボカした映像で、自分が思うゴッホの目線とは違っていたこと。
ウィレム・デフォーの映画
ここまでくると、彼の存在感そのものが芸術的。やや内向的な作品程本領発揮する方なので、過去の佳作に敬意を表して★4つと。
後半「なぜ絵を描くのか」との問いに「考えない為」というやりとり、結構ささる人いるんじゃないでしょうか。
ゴッホは被害者?
ゴッホが見ていた世界に寄り添って描こうとした映画なのだろうか?
それにしてはゴッホから見えていたであろう美しい自然の描写がカメラのせいもあって、感銘を受けなかった。
また、ゴッホの狂人としての側面を、ゴッホが悪いのではなく、周囲に貶められた存在として描いている点が興味深い。監督はゴッホ上げをしたかったのだろうか?
「絵は一刷けで描くものだ」
あの独特の技法と、当時は「不愉快・醜い」とまで言われた構図とデザイン、そして画家の数奇で過酷な運命。人物そのものが“ドラマ”そのものである、ゴッホの伝記映画である。ゴーギャンと共同生活を送るアルルへの移住直前から自殺とされる終焉までの期間が描かれている。
ゴッホ自体の伝記作品は、今作だけでなくテレビ番組も含めれば数多ある題材であり、教科書や読み物等も通して、大体のストーリーは知っている筈である。悪名の高い耳の切り落とし事件を例に出せば、それだけでもう彼の奇行、その元となる精神異常を思い起こさせるのではないだろうか。今作はそういう彼に巣くってしまった精神状態にスポットを当て、それを観客に追体験に相似したアングルや視覚技術で構成されている内容である。近すぎる顔のアップ、彼目線の映像の中央水平の線状ピンぼけ、経った今交わした台詞が心の声のように聞こえるリバース。ネガのような映像になったり、色彩設計の激しさが伴う自然描写と、どんよりと雲が敷き詰められたグレイが強調の屋内や街並。撮影レンズの傾きや回転も演出されていたりして、なるべく主人公の目から映し出す情景を作り出そうとする意図を強く感じる。なので、益々不安感や、不快感を以て映像を追ってしまう。それは作品そのものの否定ではなく、それだけ感情移入が激しいことの証明であろう。アルルの暖かい気候とは程遠い冬の季節特有の吹きすさぶミストラルの冷たさ、種を取られ枯れたひまわり、その景色の中を黙々と構図を追いかけるゴッホは、確かに宗教家、又は求道者、行者そのものである。英語とフランス語を駆使する語学力も兼ね備えているので、単純に学習能力の低さではなく、純粋に気質とメンタル面での脆弱さが最後迄彼を苦しめたのだろうと、今作で学んだ。後はそれぞれの転機の出来事、創作した絵画のモデルや風景等を散りばめながら、悲壮な幕引きへと近づく。126年間眠っていたゴッホの未公開スケッチや、自殺ではなく子供の暴発による事故といった、未だにコントラバーシャルな論議を落とし込むところの野心さも伺え、挑戦的な構築はされているが、今作の一番のメッセージ性は、“ゴッホ”という、絵画を体系立てて習得してこなかった天才が独学でオリジナリティを確立させた裏には、類い希なる深く哲学的で、しかし狂気にも足をかけた非人道さ、決して社会にはコミットできない苦悩を何とかして観客に感じて貰いたいという願いが、ひしひしを伝わる出来映えであった。本当に都合良く自ら起こした事件の記憶を忘れることができるのか、それとも弟に頼ってばかりの家族の鼻つまみ者という位置づけなのか、それともキリストのように未来の為に絵を描いた聖なる子なのか、今作の記憶を辿る度、その答えが固定できず心が揺れることであろう。哲学的な格言も台詞として多く、解読の難解さと、同じような場面のリピート(療養所への往復)の為、時間感覚や場面認識のおぼつかなさやぼやけが顕著になってしまうのだが、それも又この偉大な画家の追体験の一つなのかもしれない。「抑制などするものか! 熱狂していたい!」ゴッホがゴーギャンに言い放ったこの狂言は、あの厚く重ねられた油絵の具の一刷き、一刷きに込めた純粋さそのものであり、凡人である自分が垣間見ることさえ許されない、神の光=太陽の黄色なのかもしれない。
不遇の天才を辿る先にあるもの
自分は芸術の世界はよくわかりませんけど
後に評価された作家の絵が何十億もで取引されて
回ってる業界には嫌悪があります
その作家が苦しい生活で一生を終えたとなれば尚更
フィンセント・ファン・ゴッホはまさに
その不遇さを代表する芸術家だったと思います
でも不遇と言ってもそれは一般社会から見た世界
からの話で、当のゴッホ自身は自分の世界から見える
美しい世界を辿り着いた技術で描ききったのだと
いう崇高さをこの映画では存分に表現していました
情熱の作家、狂気の作家と表現される所以を
感じ取ることが出来る一作でした
半分ぼやけたフィンセントの主観でカメラが回る
シーンでは心臓の鼓動や病の影響から来る幻聴の
ようなノイズが入り、これが結構没入していきます
昨今芸術という言葉に関して
やれ表現の自由だ補助金だという単語が飛び交い
およそそういう世界とほど遠い連中が跋扈していますが
芸術だからどうこうではなくこうした
妥協なき姿勢で自分の力で表現を貫いてきた
人々の結晶こそ芸術と呼べるのではないでしょうかね
何十億もで取引する世界を嫌悪とは言いましたが
広く世界でそうした芸術家の名が知れ渡り人類史に
名前が残った事に関しては素直に喜ばしい事だと思います
公開してる劇場もあんまり無いようですが
もし機会があればおすすめしたいです
シュナーベルの自己満足で作り変えられた、悪趣味なゴッホ像
史実をとらわれずに作った作品であることは、観る前から分かっていた。
しかし、シュナーベルの自己満足で作り変えられた、このゴッホ像はひどすぎる。
違和感がある部分を挙げれば、キリがない。
(1)自然がない、色彩がない
ゴッホは事物の実際の色彩を無視して、非常にカラフルに描いたが、逆に、シュナーベルは、確信犯的に色彩を削ぎ落としている。
南仏の自然や風物は、どこに行ったのだろうか?
強烈な太陽や、吹きすさぶミストラル。
果樹園や花盛りの庭、青いアイリス。
アルルの街や公園。
働く農夫、洗濯女。
地中海。
夜のカフェやカフェテラス、そして星月夜。
麦畑や積み藁。
代わりに映されるのは、何も生えていない畑や、ただの原っぱである。
そのため、他ならぬ“ゴッホのアート映画”とは言い難い色調の作品となっている。
(2)許しがたいほど、ゆがめられた人物像
(a) 「“耳切り事件”の前に、すでに精神に異常をきたして入院している」(アルル)
ゴーギャンが来る前は、比較的落ち着いて「果樹園」、「跳ね橋」、「漁船」などを描いていたことは、周知のことである。
しかし本作品では、早い段階で施療院に入って、「人を殺すか、身投げするか」と語っているのだが、そんな事実は無い。
何より、ゴッホが“画家の共同体”を夢見ていたことを、完全にスルーしていることが許せない。
ゴッホが、金欠のゴーギャンを南仏に強引に誘ったのであって、ゴーギャンが「南へ行け」と勧めたのではないのだ。
(b) 「羊飼いの女にモデルになってもらおうと乱暴して、施療院に監禁された」(サン=レミ)
何のためにこんな暴行事件をでっち上げて、ゴッホを侮辱するのか?
また、「許可を得ずに施療院から脱走しようとした」ことはなく、何度も襲ってきた発作ゆえに、ほぼ自発的に施療院で過ごしたのだ。
(c) 「自分をイエス・キリストになぞらえた」(サン=レミ)
ゴッホが神父との会話で語った、「神が“時代”を間違えた」とか、「自分は“未来の人々”のための画家である」と考えていたという話は、一つの人物解釈として、十分アリだと自分は思う。
しかし、画家になって宗教とは距離を置いたとはいえ、「イエスも無名で、30~40年後まで知られていなかった」などと、イエスと自分を比較するような傲岸不遜はあり得ないと思う。
(d) その他、あり得ないと思う改変は、まだまだある。
アルルで「ゴーギャンへの“謝罪のため”に、耳を切って、ゴーギャンに届けようとした」というのは、勝手な創作だ。
また、いかに正気たらんと欲して苦しんでいたかを思えば、オーヴェルでガシェ医師に「病は人を癒やす」とか、「狂気は最高の芸術」などと語っているのは、全く信じがたい。
ゴッホは、言うことがコロコロ変わる人だ。
本作品で、キャラクターが最初から最後まで変化せず、生き生きしたゴッホ像が描けなかったのは、勝手な改変を積み重ねた挙げ句、史実から離れすぎて、身動きが取れなくなったためだろう。
演じたデフォーの年齢のせいではない。
(3)無駄に長い、あるいは、意味不明なシーン
たった111分の映画だから、無駄なことをしている余裕はないはずである。
しかし、ジヌー夫人(酒場でのシェイクスピア談義)、家政婦(花瓶の西洋キョウチクトウ)、同僚の患者(施療院の浴室)等との間で、何の意味も無い長い会話シーンがある。
また、最初や最後の方で、ゴッホが延々と走り続けるシーンがあるが、これもよく分からない。
エンドロールでは、スクリーンが黄色くなってゴーギャンの言葉が語られるが、あの“ダジャレ”に何の意味があったのだろうか?
(4)おとなしすぎるキャラクター、奇妙なカメラワーク
デフォーの熱演は素晴らしかった。
だが、ゴッホにもゴーギャンにも、男盛りの“生臭い”人物像や、強烈なキャラクターに欠けている。
また、カメラの“手ぶれ”もさることながら、「遠近両用サングラス」を使ったという、“下半分のピントがぼやけた”映像が気になった。
それらの“小細工”で、ゴッホの“錯乱した精神”を描写しようとしたとすれば、馬鹿げているとしか言いようがない。
(5)意外にも良かったシーン
とはいえ、普通のゴッホ映画なら、まず描写されなかったであろうシーンがいくつか見られた。
・葦(公式サイトでは“竹”となっているが嘘だろう)で、ペンを作ってドローイングする
・冗長でイマイチだが、“頭で描く”ゴーギャンと、“自然から描く”ゴッホとのアート談義がある
・石を投げられるなど、子供たちに虐待される
・自分を賞賛するアルベール・オーリエの評論に、不快感を示す
特に、モデルに窮していたゴッホが、ゴーギャンのおかげで、ジヌー夫人をモデルに描けたシーンは良かった。
帰宅して、ジヌー夫人が居るのにびっくりして、慌てて画架を降ろして、油絵で直接描き始める描写は素晴らしかった。
(6)結語
その生涯が謎の人物なら、馬鹿げた創作でも許されるだろう。
しかし、よりによってゴッホは、“手紙”の存在で例外的にその人生が知られており、また、そうであるがゆえに、悲劇的人生とあいまって、今も人々を惹き付けてやまない画家なのだ。
ガシェ医師を演じた俳優は言う、「監督を通してゴッホを見て、またゴッホを通して監督を見る」(公式サイト)と。
つまり、本作品で描かれているのは、ゴッホではなく、シュナーベル自身なのである。
シュナーベルは自身、モダンアートの作家として、世界中の観客を挑発したくて、“ゴッホを利用した”と言えるのではないだろうか?
ゴッホの事に対しての知識は必要
率直な感想、まずゴッホの事に対してある程度知識がないと難しい。
また映画だけではなくある程度絵画への理解もないとこの作品を本質的に楽しめない気もした。
デフォーの一つ一つの演技などには魅了されたが、デフォーの目に写る視線からのカメラアングルなどは少し酔う。
序盤は台詞が少なく目で、背景や表情などからストーリーを展開させていくため創造力が求められる。
ここで取り残されてしまうと、その後退屈に感じてしまった。
決して作品が悪いわけではなく、自分の知識不足、力不足で楽しむ事ができなかった。
その点からある程度ゴッホの知識や絵画への関心を持った上でこの作品は観賞するべきなのかと感じた。
"Turn your heart away from things visible and turn yourself to things invisible."
Vincent Van Gogh was shot on July 27, 1890 and died on July 29, of
a bullet wound to his stomach. In the remaining 30 hours of his life
he never mentioned the boy anything about the incident
surrounding his death.
Md Ginoux never know Vincent had returned the account ledger to
her having filled it with 65 drawings.
The ledger was found 126 years later, in 2016.
トロントの映画祭で、ジュリアン・シュナーベル 監督自らラスト以降に出てくる黄色いものが見えるまでは、観客に対して退席をしないでほしいと最初のあいさつで説明していた。その後映画の試写が終わり、会見が開かれた。まずMCから何故アートに関する映画を製作したのか?そして、どのように、それを描こうと思ったのか?という問いに監督は、「ヴィンセントが映画の中で、人々に生きている実感を感じさせたいと思っていることが第一に挙げられ、しかも生命は一番大切なもので、私自身も生きている実感を感じていたいためです。それが絵画であったり映画だったりもして、人と分かち合いたいと思っていた。」またこのようにも語っている。「絵画15あれば15通りの解釈がある。だから、ファン・ゴッホの伝記にとらわれた映画作りではなく、こういう事も起こりうるんではないかという映画にしたかった。」と優しく、少し笑みを浮かべながら質問に答えていた。
個人的には、amazon.comでのレビューでもあるように一部の場面で画面が揺れることを指摘する方がおられたが、画家ゴッホの視線に合わせた描写にしたかったのか、彼の狂気そのものを描きたかったのか、気になる部分も存在する。しかも、やはりカーク・ダグラスがゴッホを演じた映画「炎の人ゴッホ(1956)」と比較する人も。こんな古い映画を知っている人がおられるとは...。たしかカーク・ダグラスさんは、現在、認知症と戦っていて、まだご存命のはずでは...?存命なら102歳。
ゴッホの伝記的映画に関しては、アニメーション作品も存在する。日本も含め世界各地から参加した120人以上の画家によるゴッホと同じ作風を用いてキャンバス上に油絵で描いたものを高性能カメラで一枚一枚映写したものを映像化した独特な技法を用いた映画「ゴッホ 最期の手紙(2017)」。そこでも取り上げられたゴッホのアルル時代。彼自身が一番幸せだったとされる地、アルル。黄色を基調とした鮮やかな絵画が多く制作され、本作でも逆光や光のあて具合を利用して黄色を強調した場面は嫌味がなく、むしろ見やすく、またある場面は、青を基調とし、またある場面では、多彩な色で背景もゴッホも描いている。しかし、心の不安を描くときは、彼の頭の中でサウンドスケープ(音風景)のように何回も同じ言葉が鳴り響いていた。
-Why do you always have to paint from nature?
I feel lost if I don't have something to look at.
I need something to see.
There's so much to see.
Every time I look, I see something I've never seen before.
-Yes, but what you paint what you do belongs to you.
-You don't need to copy anything.
-Why don't you paint just what's in your mind?What your brain sees?
"Because the essence of nature is beauty."
ゴーギャンの辛辣な意見でもよき友のアドバイスとして真摯に聞いているゴッホだったが、どうもゴーギャンは違っていたらしい。映画の中では、同じ人物を被写体として2人が競うように描く場面が出てくる。それはお互いの絵画に対してのアプローチの仕方が異なることを暗に示しているのか? 次のゴーギャンの言葉....
You paint fast and you overpaint .
Your surface looks like it's made out of clay.
It's more like sculpture than painting.
有名な事件の後、サナトリウムの牧師とゴッホによる問答の様な会話。牧師役をマッツ・ミケルセンが演じている。個人的には、本年3本目のご登場となる。何故、自分自身を’Painter’というのか?また自分が生まれながらの絵描きだという理由は?
It's the only gift God gave me.
So, God gave you a gift so you could paint this?.... Yes.
But don't you see.....
I don't want to hurt your feelings, but don't you see that this painting is...
Unpleasant.
It's ugly.
Why would God give me a gift to paint
ugly and disturbing things?
.........................................
Maybe He chose the wrong time.
Maybe God made me a painter for people
who aren't born yet.
アルル時代は、郵便配達員を含め数人の友達がいたと聞いているが、彼のいちづな絵画に対する思いが誤解を呼んだのか、この映画でもそれを幾分かは感じ取れる映画となっている。
弟のテオも彼の死後、半年後には亡くなっていて、兄弟そろって仲良く肩を並べて眠っておられています。
Oh, God.
Will you receive your son?
Chicago Readerの記者が端的にウイリアム・デフォーの演技についてコメントをしている。「デフォーは、監督が画家のビジョンと人間性に対してしたように、彼の能力を使い、全面的に取り組んでいます。」この映画に関してもカナダの日刊紙Toronto Starの記者がこう述べている。「忘我的、悲劇的物語。悲劇よりも忘我を描いている。」
実際のゴッホの年齢とウィリアム・デフォーの年齢と大きく異なることを揶揄される方も実際におられるが、「私は常に俳優然としていない者として出てくる俳優になりたい。」と公言している俳優の1人ウィリアム・デフォーという人。いつも笑顔を絶やさない、気を使いすぎる人。エンターティメントの世界で生きている方です。
最後にジュリアン・シュナーベル監督が、こんなことも述べている「彼の絵画人生で、多作だった時期でもあり、また、お金に困窮しているにもかかわらず、死の前日には、多くの絵の具を含め画材を購入している。そんな人が、自ら命を絶つとは考えられない。」昨日の事でも人は、他人の人となりをわかっているようでわかってはいない。まして、150年前に亡くなった無名の画家の事なんて...。映画のラストは、この監督らしい史実を曲げてでも彼流のゴッホを描いた優しさの表れなのかもしれない。そして、ウィリアム・デフォーという外見とは180度違う”気づかい屋さん”と敢えて言わしてもらえる人柄も映画に反映されている。
ゴーギャンの手紙で締めくくられ、
I am the Holy Spirit.
I am sound of spirit. で幕は下りる...........
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