ある画家の数奇な運命のレビュー・感想・評価
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真実は全て美しい
予告では「義理のオヤジが叔母を殺したくそやろうでした」というのを前面に押し出していたが、3時間ちょっとのこの大作をこの面だけに注目して観るのはよろしくない。確かに主人公にとって叔母はとても重要な人物で、義父は憎き仇ではあるのだが、そこだけ意識して表面的な展開だけ追っていると物語の核に辿り着けない。
この映画は「真実の美しさ」をじっくり描いた物語であり、この真実は芸術家である主人公のみならず、観ている私たちにとってもとても重要なことなのである。
主人公は画家で、東ドイツにいた頃は共産主義のプロパガンダの絵を描くことを余儀なくされ、それに嫌気が指し西ドイツに亡命するも、今度は逆に自分が表現したいものはなにかと迷走することになる。しかし終盤になって自分の思うように絵を描けるようになる。三時間を存分に使って主人公は悩み、真実を見つける。
これは映画を観ている画家ではない私たちにも置き換えることができる「生きる」プロセスなんだと思った。
人間である以上「自分とは何者なのか」と一度は考える。しかし大半の人々は世間に流されて考えないように生きる道を選ぶ。しかし一度深みにはまると中々抜け出せない悩みの種であり、これが原因で病んでしまう人も少なくない人間であることの最大の宿命である。
作中でも登場するデカルトの「我思う、ゆえに我あり」という言葉を知ってる人は多いが、それを感覚として理解している人はそう多くないのではないか。
この疑問はただ息をしているだけでは到底理解できることではないが(そもそも生物としては考えないのが正解なのかもしれないが)、物事の答えは案外すぐ近くに転がっているもので、この途方もない疑問の答えでも同様である。
その答えとは今まで生きてきた自分自身であり、自分自身の目で見てきたもの、それを見て思ったもの全てなのである。
こんな当たり前のことなのに、気づくのは、こんなに大変なんだよってことを映画で描きたかったのかと感じた。
それが冒頭叔母が主人公に伝えたかったことであり、またそれに気付かず(または認めず)生きようとする共産主義や、逆に自由に溺れとにかく新しいものが芸術と履き違えている資本主義の風潮という様々な要素を使って表現しているのがとても良かった
教授本当に嫌な奴
実話ベースの映画なんですね。
クルトの叔母さん素敵です。綺麗で魅力的。あんな人の胸に抱きしめられたら子役の男の子もドキドキしたのではないかしら。
クルトの奥さんエリーは叔母さんほどの魅力がないのが残念。
叔母さん役の女優さんの一人二役でも良かったのに。
(でもそれだとクルトの描いた絵をみた教授の驚きに説得力ないかな?)
それにしても教授本当に嫌な奴。
最初はオヤジにしてはカッコいいな、と思った自分が恥ずかしい。
娘の身体をわざと傷付けるような堕胎手術するとか信じられない!
娘婿のクルトに自殺した父親と同じ掃除の仕事をさせるのも信じられない!
この若い夫婦が教授と縁を切ろうとしないのも全く信じられない!
ナチがユダヤ人だけじゃなくて障害者も沢山殺していた事は知っていたけど、その優勢思想って今でも根深く残っているように感じる。
民族差別や「生産性のない」人は排除しようとか政治家まで平気で言うでしょう。
どこかで線を引いたら、「次はここまで」「そのつぎはここまでがいらない人」ってことにされてしまう。
三時間の長い映画でしたが、見ごたえありました。
ただコロナ対策でフル換気の為か映画館が寒くて。
これからは膝掛け持参しないとダメですね。
芸術とは、自分の中から生まれるもの
正直、ゲルハルト・リヒターを知らなかったし、彼の作品も今まで見た事がなかった。
映画を見終わった後、ネットで、リヒターの作品を貪るように検索。
ちょうど、ポーラ美術館が彼の作品を35億?で買ったことや豊島に彼の作品があることを知り、急にリヒターファンになる。
映画を見て知った事は、なんとなくは知っていたけれど、ナチスが優生思想によって、ユダヤ人だけではなく、ドイツ人もガス室へ送っていたということ。
そして、戦争が終わってからの東ドイツでの暮らし。ソ連にほぼ支配された状態の社会主義国家。
彼の数奇な運命をたどりながら、何が優れていて、何が劣っているのか、それを決めているのは誰なのかを考えさせられる。
彼が、西ドイツへ行ってから、ヨーゼフボイスをモデルにした教授に見出される。
その教授から、芸術とは自分が体験したことからしか生まれないというようなことを言われて、自分の作品に改めて向き合う。
写真が出来るまでの絵画は、芸術ではあるけれど、写真のようにリアルにそのものを描くことが必要だったと思う。
しかし、写真、そして、映像が出来てからは、絵画とか、芸術は、何かを表現するものになった。
何かを表現するということは、奇抜なものだったり、驚かせるものではない。
確かに現代アートの中には、伝わりにくく、理解に苦しむものもある。
でもそのアートに何かを表現したいと思う作者の魂が入っていれば、作品は生きてくる。
ものを作るということ、表現するということが、その人の感受性全てであるように
感じるということが出来る能力は、何かを生み出す力を持っているということ。
叔母のエリザベトは、人よりも感受性が強いだけで、それは彼女の個性であり、能力だったかもしれない。
ADHDやHSPも同じこと。感じやすいからこそ、生きにくいけど、感じる力があるから何かを生み出すことが出来ると思う。
この映画を観て感じたことは、「目を逸らさないで見て。真実は全て美しい。」という言葉、そして、それを感じる心をなくしてはいけないと強く思う。
良作、けど大河ドラマ味がすごい
テーマが画家なだけに、あまり動きのない静かで静謐な作風。なんとなくドイツ的。
けど、作品の時代背景が良いスパイスになって、飽きさせはしません。
ただ、タイトルの通り、映画というよりはどこぞの公共放送の大河ドラマ感が強くて、どんな伏線もきっちり時間かけて説明し切ります!という仕事人魂を感じる。なんとなくドイツ的。笑
その辺が、上映時間の長さと相まって、視聴後の軽い疲労感につながってるかも。
でも、おそらくちゃんと時代考証したのだろう当時の東側と西側の描き分けや、とくに日本人だと想像しえない、東側の戦中の国家全体主義から戦後の共産主義への、極右から極左へ針振り切ってるなんだそりゃー感だとか、とっても興味深く面白かった。
裸、裸、裸。
今の若者にも人気の現代美術の巨匠、ゲルハルト・リヒターをモデルに、激動のドイツ歴史の闇と、芸術の光にピントを合わせたヒューマンドラマである。
しかし上映時間が190分は長い!やたら裸で抱き合ってるシーンが幾度となく映し出されるが、こんな物、1回で充分である。
あと、どうも主人公の人となりが明確ではないのが難点。しかも肝心な義父とのその後の関係はどうなったのか。明らかにしないまま終わってしまってる。実際、監督がリヒターに映画化を申し込んだところ、映画化に際して何が事実か事実でないかは、互いに絶対に明かさないことを条件に作られたゆえの中途半端さが否めない。
にしても、どうもヒロインはパッと冴えない。むしろ叔母の方が綺麗で華があった。逆にすればよかったのに・・・
絵画の世界
義父の写真、幼い自分と叔母の写真、新聞に載っていたナチ高官の写真、それらが結びつく不思議。
若い叔母が目を背けずしっかり見る事を伝えた。
才能があっても、自分のモチーフ、テーマに巡り合えないとアーティストにはなれない。
アートとアーティストに対する敬意を満ちた映画だった。
さらに惹きつけられた
リヒターを知ったのは、2005年の川村記念美術館での回顧展だった。
その時強烈に印象に残ったフォトペインティング、どうしようもなく惹かれる理由はこの映画の中にあった。
伝記ではない作品だけに壮絶な半生はインパクトが強くリヒターがモデルだが、脚色されていて全てが真実ではない。
とはいえ、フォトペインティング誕生の瞬間はとてつもなく私的で、真実を表現する過程は美しい。流れてくるコールドソングがクラウスノミだった事も拍車をかけ、脳裏に焼き付く素晴らしいシーンだった。
ヨーゼフボイスがモデルの教授は放つ、真っ直ぐでスパッとした言葉がかっこいい。
先日観たドキュメンタリーでもヨーゼフボイスの話題を耳にしたので、見逃してしまったヨーゼフボイスのドキュメンタリーにも興味が湧いてきた。
「ある画家の数奇な運命」を先週末に 鑑賞してきました。 上映時...
「ある画家の数奇な運命」を先週末に
鑑賞してきました。
上映時間3時間9分という長時間作品で
集中力が持つかなと思っていましたが、
全くの杞憂に終わりました。
ナチス政権下のドイツ、戦後の東西ドイツを通して描かれる主人公クルトの人生。様々なエピソードが語られ、その積み重ねられたエピソードが縦横に絡んでゆく。
ナチス政権が行なった「強制断種政策」と「障害者安楽死政策」や、当時のドイツの医者の半分近くはナチ党員だったこと、、
当時の状況が主人公クルトの人生に様々なことを及ぼす。
旧東ドイツ、旧西ドイツで出会う様々な人々。
彼らも主人公クルトの人生に様々な糧を
与えてくれる。
長編作品だと、脚本に少しでも粗さを
感じてしまうとストーリーに入り込めなくなることがありますが、本作はエピソード一つ一つが丁寧に描かれいて、クルトと人生を一緒に歩んだ気持ちになれる。
だからこそ、3時間という長さを
感じることなく鑑賞できたのかもしれません。
そして、キャンバスに描かれる画。
自分、全く絵心が無いので絵画に対しても、好みかそうじゃないか位のことしか言えないんですが、クルトの描く画が凄く印象的で技法が素晴らしかった。
脚本の良さもありましたが、役者さんの
演技も素晴らしかった。
主人公クルトを演じたトム・シリングは
勿論のこと、医師カールを演じた
セバスチャン・コッホの威厳のある
出で立ちとその裏にある顔の表情
叔母エリザベト演じたサスキア・ローゼンタールの憂いのある美しさ
先日鑑賞した「ウルフズ・コール」に出ていた、パウラ・ベーア。叔母エリザベトとはまた違った美しさで魅了されました。
主人公の名前の“クルト”で思い出してしまったのが「僕たちは希望という名の列車に乗った」のクルト。同じ国の方の名前だからあたりまえなんですが、時代も少し重なってるかもしれないなぁ。そういえば、公園のくだりはまさに僕たちは・・だった。。
僕たちは・・のヨナスも出ています
鑑賞したあとであらすじを読んだら、実在の芸術家ゲルハルト・リヒターの半生をモデルにした作品だったと知り驚きました。
公式HPでも載っているのでそのまま書きますが、リヒターからの映画化の条件は、人物の名前は変えて、何が事実か事実でないかは、互いに絶対に明かさないこと。だったそうで更に驚き。
ゲルハルト・リヒターのことは恥ずかしながらこの時初めて知る方でしたが、作品の奥深さをも知った瞬間でした。
観たい作品が目白押しですが、出来ることならもう一度この作品はスクリーンで目にしたいです。
上映時間なんか気になりません。
いやー、189分?
そんなのカンケーねぇっ!です。
見事に芸術家の数奇な運命を描いております。
まさか、モデルの画家さんがいらっしゃるとは
知らずに鑑賞。
「善き人のためのソナタ」の監督さんだったんですね。
いやいや、なるほど。あの作品も好きです。
この、なんと言うのでしょう。確実に伝えたい
であろうテーマの一つ(反戦、反ナチだと思いますが)
を前面に出さずに、しかしジンワリと胸に響く
作品作り、素晴らしいです。この作品も同様です。
我々観客は画面で展開する出来事を目にします、だから
知ってます、物語の中で何が起きてたか?
だから、なんとも歯痒さを感じる展開があるやもしれ
ませんが、物語がこの主人公の画家目線で作られて
ますから、それは仕方ないこと。
知らないことを知っているかの如く展開したら
変です。
ご都合主義映画になっちまいます。
主人公は一人の人間として成長し、芸術家として
創作活動に悩みながら、もがきながら進みます。
このモデルの画家さんの独白を映像にしたのでは?
と思えるほど、丁寧に物語が綴られていきます。
そりゃ180分必要!
そして、芸術家、アーティストとして重要な事に
気づけたことが大きなウネリを生み、そして
ちょっとだけ観客の溜飲を下げるような話の
展開は、うまくいきすぎ、、、でしょうが、上手てす。
物語として秀逸でした。
ラストシーン、、、泣きました。
ジンワリ、ホッコリです。
撮影者なき写真
芸術好きの叔母が、精神疾患を理由にナチスから粛清されてしまった少年クルト。成長し、より芸術を学ぶため進学した大学にて出逢ったエリーに恋に落ちるが、その父親こそが…
といった、まさに数奇な運命を辿る画家の物語。
3時間越えの超大作!ながい!
私的には2時間10分を超える作品はよほど興味がひかれないかぎり見る気が起きないのですが、意を決し(?)仕事帰りの疲れた体で鑑賞を敢行!!
しかし、絵画等の芸術に疎い私でも充分に楽しめる作品だった。
芸術云々もそうだけど、ストーリー自体が面白く、長いがダレることなくスーッと観られる不思議。
とはいえやはり3時間。本作の目玉シーンともいえる場面に至るまでは、もはや序盤にだけ出てきてた叔母さんのことなどすっかり忘れてしまっていた(笑)
ストーリーとしては、辛い現実を手で覆い隠したくなる気持ちは誰にでもあろうことかと思うけど、叔母さんの教えに反するともいえるクセが、ラストに紡ぐまでの流れはまさに爽快。
確かに、これこそが彼がみた風景(真実)。
ただ、文字通りの「真実」に気づいたのは教授だけだったのかな?クルトはいかに。
絵画の中の彼が指さしてに教えようとしているようにも見えた。。
とにかく長い映画だったが、ナチスの悍ましさ、ソ連少佐との秘密の関係、社会主義にあえぐ芸術家の苦悩、エリーとの恋…等々、面白いと思えたポイントも多いし、意外にも笑わせにくる所があったり、各所に散りばめられたBGMもとにかく美しかった。
清掃するのも、これまた数奇な運命。
ベストシーンは、模写している時の風のいたずら。不意打ちのファンタジーだった。
あれはきっと叔母さんが…。
芸術に疎い私なので、理解しきれない部分も多々あれど、理屈抜きで素敵な作品だった。
いわば映画も芸術のひとつか。。
アート作品として
シンプルに、あるドイツ人の画家が成功するまでの物語であれば、ひたすらに美しく偶然のような奇跡に溢れた作品。ただ、ドイツの真面目さ故か、ナチス時代から冷戦期までかなり重めの時代背景がのしかかってくる。全ての負の遺産であるドイツの歴史が説明的に描かれていてドイツを知るきっかけになると感じた。東ドイツの訛りまでも。私見になるが、アートに没頭するきっかけになったゲアハルトリヒターの半生が反映された作品ということだけで心が踊った。
人間不在の絵には生命がない
エンドロールの途中で席を立つ人がいる。急ぎの用事があるのかもしれないから、一概に否定するつもりはない。しかしアンミカがテレビで言っていた「アメリカではエンドロールなんか見る人いない。みんな席を立つ」という発言には不快感を覚えた。アメリカのすべての映画館のすべての観客がエンドロールを見ずに席を立つという明確な証拠でもあるならまだ容認できるが、証拠もなしに発言していたなら感心できる話ではない。当方はエンドロールまでなるべく全部見る派である。エンドロールも人の手間と時間がかかっている作品の一部なのだ。
本作品のエンドロールは文字ばかりの普通のエンドロールだったが、BGMがヒーリング音楽みたいで大変心地がよかった。おかげでこの長編映画をゆっくりと反芻することができた。189分の映画だが観ている間は長いと思わず、観終わるとずっしりと来る作品である。それは優れた作品の特徴のひとつだ。
当方は絵画に縁がない。子供の頃から絵が下手だった。絵が上手な子は教師から褒められるが、下手な子の絵は笑われる。自然と絵を描かなくなり上手な子との差はますます広がっていく。だから絵を描く楽しさが分からない。そこが残念で仕方がない。絵を描く楽しさが分かっていれば、下手なりに絵を描き続けていたかもしれないし、本作品の捉え方も違っていたかもしれない。
とは言え、本作品は絵が下手でも美術に造詣がなくても理解できるように作られている。ひと言で言えば、人間不在の絵には生命がないということだ。政治的なイデオロギーによって描かれる絵は、見た人に訴えかけるものが何もないのだ。主人公クルト・バーナートは東側のソ連傘下に入った東ドイツではイデオロギーの枠の中の絵しか描けない。
西側では自由に描けるはずだが、今度はテクニックに惑わされてしまう。クルトの作品にはクルト自身が見えないと教授に指摘されると、クルトは創作者が一度はハマる、頭が真っ白になる状態になる。クルトは何かを創り出せるのだろうか。
物語はクルトの幼少時から始まる。自由人だった叔母の影響でクルトも既存のイデオロギーやパラダイムに支配されない自由な精神性を持っている。その叔母はナチスドイツの優生思想による政策でガス室に送り込まれた。送り込んだ医師ゼーバントはナチス党員であり、権威主義、国家主義者であった。
クルトが青春を迎えたある日、かつて叔母が世界の真実を悟ったと叫んだようにクルトも世界の真実を悟ったと叫ぶ。若いときにはこういう日が一度はある。当方も高校生の頃にドストエフスキーやショウペンハウエル、ニーチェなどを読んで、世界を理解した気になったものだ。しかしそれが勘違いであったのと同様に、クルトの悟りもおそらく勘違いだったと思う。
その後東ドイツの美術学校で出逢ったエリーが偶然にもゼーバントの娘だったが、エリーの家族もクルト自身もそれに気づかない。そして西側の美術学校でちょうど創作に行き詰まっていた頃にいくつかの出来事が重なり、クルトは持ち前の映像記憶力でそれらを組み合わせ、大戦時に叔母に起きた事実とゼーバントとの関係、ぜーバントとナチスの関係を洞察する。そしてそれをキャンバスに表現しはじめる。そこからがクルトの本来の芸術のスタートとなる。
芸術家としてのクルトの成長と、恋愛から結婚に至る個人的な生活が物語の両輪で、主人公クルトと恋人エリーに対し、国家主義や優生思想などの象徴としてのゼーバントという権威主義者の俗物を対立軸として置くことで、立体的な作品に仕上がっている。精神的な自由を重く扱った映画であり、世界の人々が再び陥りそうになっている危険な思想への傾倒に警鐘を鳴らす作品でもあった。いかにもドイツ映画らしい作品だと思う。
自由は辛くて厳しい。人間は放っておくと自由を投げ出して権威の前にひれ伏し、代わりにパンと家を手に入れようとする。そこを踏ん張って自由を守り続けるには勇気が必要なのだ。自由を投げ出して共同体に同化すると国家主義になる。戦争をするのは決まって臆病者たちなのである。
【ミケランジェロ、24歳、ピエタ】
若い頃に才能を開花させないとと紹介される、ミケランジェロ、24歳の時のピエタは、バチカンのサン・ピエトロのピエタだ。
サン・ピエトロ寺院の入ってすぐ右にあるピエタ。
磔刑から下ろされたキリストは死して尚、復活を示唆するみずみずしい筋肉を保ち、悲しみに暮れるマリアは、我が子が自らの腕の中に戻り安心しているようにも感じられる。
だが、最後の作品となったロンダニーニのピエタは、荒削りで、ある意味、現代彫刻のようでもある。
これは、正面からは、死んだキリストを必死で抱き起こそうとするマリアに、背後からは、老いたマリアをおぶうキリストのように見えるのだ。
作品中で、ファンヘルから、脂とフェルト生地の原体験の話をされるクルト。
クルト自身の原体験としての叔母エリザベト・マイの裸体。
同じ名前をもつエリーとの肌の触れ合い、裸、乳房、セックス。
意味のない数字が意味をなすとは。
エリザベト・マイがつれさられる様をぎょうしできかなかった怖さ。
写真の模写とぼかし。
自身の原体験が作品のエネルギーとなり、作品に変化をももたらしていく。
クルトの叔母を安楽死に送ったのがエリーの父であるという運命にフォーカスが当たるのだと思うが、実は、この作風の変遷が数奇な運命なのだと、僕は感じる。
バスのホーンが、エリザベート・マイと聞いていた音として、今でもクルトの頭の中に響き続けているのだ。
ミケランジェロは、サン・ピエトロのピエタで名声を確立したが、最後の作品もピエタだ。
ピエタは、ミケランジェロの原体験とも通じるものがあったに違いない。
だが、最後のロンダニーニのピエタは、タッチも求めるテーマも異なる物だ。
この作品のモデルであるゲルハルト・リヒターの作品の変遷もそうであるように感じる。
ドイツの歴史の暗い部分もあるが、芸術や、それを生み出す人の力も感じて欲しいと思う。
因みに、僕は、壁崩壊直前に、東ベルリンの美術館に行ったことがある。
労働者を賛辞する絵は、映画のクルトの作品と非常に類似していた。
退屈なものだった。
グルグル廻る意図は?
ゲルハルトリヒターの初期の作品は、「凡庸の悪」だそうだ。イイ父親(母親)なのに、軍服を着て愚作を支持した。ドイツだけじゃなく日本だって世界中である話で、今も。そのテーマを、表現するには、完璧な構成だった。しかし、これは、リヒターの本を読めば知ってたし、映画監督としての個性も少なかった。
マックス・リヒターの音楽もちょっと個性が少なかった。わざとか?
最初と最後のグルグル廻る意図が分かり物語に繋がってるなら、評価は、0、5上がる。
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