僕はイエス様が嫌いのレビュー・感想・評価
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宿命、天命、運命 この映画のイエス様は本物のイエスかどうかイエスかノウで答えよ
私は信者ではありませんが、この映画で子供に見える小さなイエスは、どうみても、イエスを小馬鹿にしているようにしか見えません、挙動はあみだばばあみたいですから。
でも、最後に、早世した友人に捧ぐ、わけですから真面目なんでしょう。
私事ですが、ある人が壮絶な人生のため、自殺を考えていると夢の中にイエスが出てきて、自殺はいけない、今日生きて、明日生きることは、奇跡だから、といわれ、自殺を断念した、ということがあります。
宗教は功利主義でないとすれば、信心深くとも、事故などで死ぬことは防げないわけです。
主人公がイエスや祈りが役に立たないとつぶやくのは、仕方ないことですが、天に召されたと考えれば、死んだ本人はともかく、周囲は救われ安らかにんるわけです、それがこの映画のテーマだと思うのです。
ちなみに、冒頭のだじゃれは村上春樹の本に書いてありました。
【無垢な少年の心の痛みを、見事に切り取って見せた作品。】
ー東京から雪国のキリスト教系の小学校に引っ越して来た小学五年生のユラは、目の前に現れた”小さなイエス様”にある願い事をする。-
■印象的なシーン
・不安な気持ちを抱えていたユラ。
美しき”グロリア”が流れる中、ユラの前に現れた、光輝く小くて、チャーミングなイエス様の姿。
・ユラにサッカーが得意で、勉強もできるタクヤという友人が出来、二人で楽しそうにサッカーをしたり、流星群を見つけようと夜、学校に行ったり・・。タクヤのお母さんはいつも、笑っている・・。
・今は亡きお祖父さんが穴を開けていた障子。新しく張り替えて穴の無くなった障子にユラが穴を開けるシーン。
<勝手に、ユラが”自分はどうなるんだろう・・”と、見えない未来を見ようとするシーンとして解釈する。>
・タクヤの告別式で弔辞を読む、ユラ。
目の前に現れた”光輝いていない”小さなイエス様をお祈りするために握った両こぶしで叩き潰すシーン。
ーエンドロールで流れた奥山監督のメッセージで、劇中の幾つかの疑問が氷解したような気がした作品。ー
<ラスト、美しき”グロリア”が流れる中、ユラとタクヤは雪の積もった学校の校庭で楽しそうにサッカーをしている。
その姿を空から映し出す暖かいトーンの映像。心に残る”寓話”である。>
それなりに叶えてくれる神様
主人公は親の都合で東京から雪国に引っ越し、ミッション系の小学校に転校する。
学校で聖書などを学ぶが、そのうち目の前に小さな神様が現れ、それなりに願い事をかなえてくれる。
そして友達が出来て、親も安心、本人もとても楽しい。
22歳の監督が自主制作したらしいが、これは期待が膨らむ。
ひとり人生ゲーム
雪深い地方の町。小5のユラが転校したのはミッションスクールだったけど、普通の学校だよと教えられ、なんとなくお祈りをするうちに小さなイエス様が彼の前に現れるようになった。大人になってから細かく思い出すのが困難だろうから、22歳の奥山監督がカズマの記憶とともに捧げた作品なのだろう。不思議とノスタルジーも感じられるのは、この作品が誰しもが持っている原風景を映しだしただけなのかもしれません。
面白いことにキリスト教を前面に表したのではなく、お祖父ちゃんは仏壇にいるし、神社にお参りもするというところ。日本人ならこれが普通だよね、と感じてしまいます。もちろん子どもたちの遊びもごく普通。サッカーをしたり、流星群を見に行ったり、別荘に誘ってもらったり。そんな中でも人生ゲームで遊んでるところが好きだなぁ。ただ、ゴールは誰でもできるんですけどね・・・
激しく流れ星が落ちるシーンには答えがあるけど、答えのないのが亡くなったお祖父ちゃんの障子に穴をあけてしまう癖。これは色んなことが想像できるけど、それ以上に理解に苦しむのが、ユラが体育の時間(サッカー)の途中で勝手に帰ってしまったこと。何だったんだろう・・・ひとり人生ゲーム。これが事故に繋がるのかな?全体を通してみると、監督が22歳にして断片的な記憶しか残らなかったことの表現かもしれませんが、これから先、鮮明に思い出す日が来るのかもしれませんね。
ささげられる弔辞と祈り
早世した友人にささげられた映画だったのですね・・
エンドタイトルにその小さな“告白”を見て、この映画が作られた動機を知った思いがしました。
22歳の監督。
22歳って、まだ生々しく子どもの頃の記憶が息づいていている最後の季節だと思います。
その時期を過ぎてしまうと、大人の人生は荒波にもまれるばかり。生きるに忙しくて毎日の刺激も強すぎるから、子どもの頃を振り返る暇もない。
そんなわけで、老境にさしかかる日まで、私たちはかつて自分が子どもであったことを想起するチャンスを失ってしまうのです。
ふと思い出してはいても、その思いはとり紛れて意識の底に隠されてしまうのです。
・忘れないうちに、
・忘れたくない友だちのことを、
奥山監督は大人の生活に突入する前に、彼自身の絵日記のようにそれを映画に残したのでしょう。
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僕は、五十になった時に終活を始めました。
終活を始めたその1年のうちにやり残していた課題をぜんぶ片付けました。
それは子どもの頃に犯した過ちのひとつひとつを、(覚えている限りではありますが)、本人に直接会って気持ちを伝え、説明し、先ず詫びてから相手の気持ちを聞かせてもらうことでした。
心に刺さったままの棘を、そのままに自分の人生を終えてはいけないと思ったからです。
日本中を回りました。
加害者の自分がこんなに後ろめたい過去を抱えて子どもの時以来数十年の時を生きているのだから、僕によって痛みを受けた人もきっとそうであるはずだと思って。
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ユラは断りなく帰宅してしまい、残されたカズマはひとり死にます。
とぼとぼ歩いていたユラは早足になり、走り出す。
あそこは、なんの説明もいらないユラの心のシーン。
奥山監督が映画に託した心は、早世した友人カズマに届いたでしょうか?
すでに亡くなっている友人に届けたかった思いは、もう後の祭りでその子に届かずとも、でもユラの弔辞として、そして祈りとして、この素朴なフイルムに実を結んだのだと思いました。
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【ボーっとしてわからないこと】
なぜユラは祖母の家に引っ越したのか。
以前の東京での暮らしでユラには何が起こったのか。
なぜ両親も当たり前のようにそこに同居しているのか。
祖母の家の天井の節穴が怖かったように、あの障子の穴も記憶の中の小さなかけらなのか・・
― いろいろたくさんの、よくわからない事情があるようで、混沌とした少年期の記憶の再生が実にうまく表現されている映画でしたね。
自分を幼少期に連れ戻してくれる、不思議な余韻を与えられました。
ユラ君は、いると思う? いないと思う?
タイトルなし(ネタバレ)
☆☆☆★★★
お祈りをすると姿を現していた神様。
友達のお見舞いに行った時にその神様は消える。
欲しかった友達。それだけに何故こんな事にの思い。
帰り道、一目散に走り出したその刹那! カメラも男の子と並走して走り出す。
それまでが徹底的な固定撮影だっただけに、この場面は衝撃的だった。
この気持はどこから生まれて来るものなのか?
一体どうすればいいのかが分からない。それだけに怒りしか湧いて来ない。
この時に被さるピアノの旋律も併せ、観ていて思わず感情移入してしまう凄い場面でした。
その後。献花の意味を知った男の子は、お祖父さんのヘソクリの千円札でお花を買う。
すると今度は、パイプオルガンが高らかに鳴り響く。
次のカットは、画面が斜めになり。教室の壁に掛かっている縄跳びが映る。
強く印象に残るカットだったのですが。そのカットに於ける、はっきりとした意味は今ひとつ分かりかねるモノでした。でもおそらくこのカットには、監督自らの何らかの意図したモノが組み込まれていたのでしょう。
デヴィド・リーンの『逢びき』や。キャロル・リードの『落ちた偶像』等の名作で、ここぞ!の場面で使われた。観客を不安感へと引きずり込む演出をつい思い出した。
ファーストシーンのお祖父さんと、ラストシーンでの男の子の行動の対象性。
車の車内から曇ったガラスを拭くと雪の光景。
思わず感じる、新しい土地に自分は馴染めるだろうか?…との不安感を。映画の後半で、「この先どうなって行くのだろう?」…と、考え込んでしまったのか?教室のガラス窓に息を吹きかけ、曇らせる男の子の姿を見つめる静謐な演出には、思わず見入ってしまう演出でした。
時折、「何だろう?」…と考え込んでしまうところもあり。どうやら、「分かる人にだけ分かれば良い」(此方の勝手な思い込み)と思われる演出もあるにはありましたが。それより何より、「今後が楽しみな監督さんが出て来たなあ〜」とゆう、嬉しさが強い作品でした。
2019年6月25日 TOHOシネマズ/シャンテシネ3
イエス様は友だち
まずタイトルがいいなぁ
日本で宗教を取り扱うのも珍しく、しかも22歳という若さの監督が撮ったというのは少し驚きがある。
と思って調べてみたら、監督もミッション系の学校で育ったとあってなるほどと納得。
淡々とした長回しの中に、日本ならではの特殊な宗教との関わり合いや少年達の小さな心の動きが表現してあって見事だなと感じた。
見ていて塩田明彦監督の『どこまでもいこう』を思い出した。
冒頭、東京から引っ越してきたユラの目線でミッション系の学校の様子を描いてる。これがこのまま続くと少し退屈だなと思っていた所に小さなイエス様登場。そしてタイトル。なるほど、これはこういう映画なんだなと感じさせる構成、興味を持たせる画造りに感心。
4対3の画角でシンメトリーな画で均衡を保っていた世界が、友達の和馬が死んだ事で斜めに揺らぐ。イエス様という今まで信じていた存在に裏切られたことでそれが崩れる。
語りなどではなく、画でそれがきちんと表現出来ているのはすごい。
手紙を読んだ後のイエス様を押しつぶす場面や、ラストの神目線での2人の出会いの場面も、見ている人をすごく意識しているなぁと思った。
なんだか松本大洋の漫画みたいだなぁと感じた。
第2作目がどんな風になるか、非常に興味ある監督だ。
リスキーでセンシティブなテーマ
いつも笑顔
見えた!
まったくもって素朴な、神様ってなんだろう?
神の沈黙を明かる過ぎず軽過ぎず
神の沈黙、不在、迷える子羊たちとの関係は、
明確な答えが出ない永遠のテーマ。
教会であるいは懺悔室で、嘆く映画は数知れず・・・
シェイクスピア、ドストエフスキー、ニーチェ、ベルイマン、
そしてスコセッシ『沈黙』。
いずれも暗くて重い。
暗い重いを、
明るい軽いに、
最大限にズラす→
「聖☆おにいさん」
「ブルースブラザーズ」
そこそこズラす→
「天国から来たチャンピオン」
ジム・キャリーのタイトル忘れました。
「オー!ゴッド」
本作は明るくて軽い・・までズラしてないが、暗くないし、重くない。
世知辛い世の中になっているからこそ、
炎上するような内容を、
上手く炎上させない技術、
多くの人を傷付けしまうような内容でも、
誰も傷付けないユーモア、
常にそんなアイデア、武器を身体中のあちこちにぶら下げている人にとって、ターゲットは常に明確で、使用する武器、その影響、責任も想定してるはず。
と仮定して考えるならば。
ちょっとだけズラした、チャド・マレーン。
立派なコロンブスの卵でしょう。
「この窓からなんにも見えねーな」は竜二。
穴の先に見えていたものは?
チャド・マレーンのフィギュアをカバンにぶら下げたい。
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