赤毛のアン 初恋のレビュー・感想・評価
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小説とちがいすぎるけど、これはこれでええねん。
字幕監修が松本侑子さんだった。松本侑子訳の赤毛のアン、アンの青春、アンの愛情を読んでいるのでうれしい。
村岡訳リスペクトを感じる読みやすい訳が好きです。
そして注が多いのがすごいいい。背景とか引用出典とか、解釈とかすごく役立った。
まぁそれは置いておいて。
前作以上に原作からかけ離れました。
なんせアンとギルバートは川に流される前にはすでに両思いにしか見えない仲よさだし、それをダイアナが嫉妬してるし(アンを取られてね)
すでにアンはパフスリーブドレスを着て13歳のバースデーパーティー開いてもらってるし(マリラそんなことする?マシュウがアンのためにパフスリーブドレスを用意しようとするところがいいのに)
マシュウの性格が怒りっぽくてよく喋るふつうのおじちゃんやん。マシュウの引っ込み思案の奥ゆかしさが恋しい!
だいたいリンド夫人がなんでマリラより見た目わかいの!!10人子供産んだようにみえへんがな!
なんて思いましたが!!
いいの。そんなことは。
13歳の女の子が安全な場所で、衣食住の心配をせず、自分の悩みや煩悩や空想に夢中になっている姿が、37歳のわたしにはただただ癒しなのです。
自分に振り回されて自己嫌悪しながら、それでいて瞳は輝いていて。
樹の下で座って本を読むアン、ダイアナやルビーと野原を楽しげに走るアン…それを見つめるギルバート。
癒されます。
さしずめ赤ん坊の一挙手一投足、仔犬や仔猫のそれをみて、安らぐような気持ちです。
もちろん赤毛のアン卒業もみますよ。
よく喋りすぎてもマシュウとの別れは辛いですね。
あまりに無味乾燥なダイジェスト。完結編への橋渡しとしての2作目。
私の生涯の愛読書「赤毛のアン」の映画化第2作目。昨年の春に第一作が劇場公開された時にも映画館で作品を観た。長編の物語を90分に収めるのだからダイジェスト化されるのは仕方ないと考慮した上で、甘々評価で楽しませてもらった。その時点ではまだ、私は続編が製作されていることを知らず、なるほど三部作だということを知れば、第1作目におけるやや説明の足りない部分も十分に語られるだろうという期待が生まれた。しかしながらこの第2作。ますます言い足りなさを感じたというのが正直なところか。
まさか、原作小説が有するだけの物語とその真意を全て描けというのが無理な話だとはもちろん分かっている(世界名作劇場のアニメ版がそれに成功したのは、1年間という放映時間を使って十分に描くことが可能だったからだ)。ただこの第2作目においては、ダイジェスト化が更に加速しており、半ば事務的に原作小説で描かれたエピソードを消化しているだけのように見えないこともない。原作で描かれたひとつひとつのエピソードの面白さをみすみす削ぎ落してエピソードを説明的に描写しているような無味乾燥さ。牧師さんの奥さんに薬入りのケーキをふるまっても、髪を緑に染めても、川を筏で流されても、原作で読んだようにワクワクもドキドキも思わず笑ってしまいそうにもならない。一方で、原作にはないオリジナルストーリーは(前半部分は特に)寧ろ増えているようなところがあり、その多くはマシュウの描写に表れている。マシュウの存在をこよなく愛する身としては余計な加筆だと言わずにいられない。寡黙で内向的で言葉少なながらもアンを導いていくマシュウが、この映画では饒舌でユーモラスで加えて認知症という設定まで加わってますます原作のマシュウとは別人格である。演者であるマーティン・シーンという大物を起用した以上台詞を増やさずにいられなかったか?なんてちょっと邪推してしまいそうになる。原作に忠実に映像化するだけが映画化の意義ではないにしろ、原作が持っていた「面白味」は理解しておいてもらいたいなと思う。まぁ、なぜか戦争映画になってしまったミーガン・フォローズ版「アンの結婚」のようにならないだけまだまだマシとも言えるけれども。
前作は、一応は「アンがグリーン・ゲイブルスに残れるか」というストーリーを主軸にして描くことで一つの作品の大きなテーマを設定できていたものの、この2作目はそういったことはなく、あくまで1作目と完結編を繋ぐ「2作目」としての立ち位置をこなすのみという感じ。この作品だけで成立する起承転結はないし、エンドクレジットが出てきたときには「ここで終わりか?!」と思った。
でも、だからこそ、3作目を見るまで本当の評価は分からない。3作目を見て2作目に対する感想も変わるかもしれない。何しろ私はアンが好きだ。11月の3作目公開をそれでももちろん当然のように楽しみにしている。
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