「客観的に示されて自分を省みはじめる登場人物たち。」愛がなんだ noirさんの映画レビュー(感想・評価)
客観的に示されて自分を省みはじめる登場人物たち。
◯個人的な分析を含むストーリー
照子は、手のきれいな男、田中守に恋をする。時に自分の人生を犠牲にし、全てを捧げていつでも田中守からの電話を受けられるようにしつつ、身の回りの世話を焼いては側に居たいと願い、決して報われなくとも構わない気でさえいる。
友人の葉子は、そんな照子をたしなめつつ、自分のことは棚に上げ『母は、昔でいうお妾さん。父親にぞんざいに扱われていて、私はそうはなりたくない』と選択する側でありたいと願っているようだった。
葉子を好きでぞんざいに扱われてもめげず、照子にストーカー同盟と名付けられ同じ立場を共有しているような気になっていたカメラマンのナカハラ。
自己肯定感の低さ故に自分を愛してくれる照子を受け入れられず、(33歳になったらという気まぐれなビジョンを語り、それを照子は都合よく『自分はその時も当たり前のように隣に居られるのだ』と解釈し、勝手に傷ついていたのだがその奔放さは自覚しないままに)
奔放で自由なスミレに惹かれる。
・ナカハラが葉子を想う気持ち
・照子が田中守を想う気持ち
・田中守がスミレを想う気持ち
それぞれにそれぞれの言い分があって、全て違う感情ではあるものの、似た構図の関係の4人がキャンプで出会い、…相手の好意を利用して都合よく扱うのは良くない』とのスミレの指摘から
それぞれが自分のしてきた事の客観的正当性を考え出して関係性を変えようと動き出す。
自分の正当性を主張しようとすると、相手に放った過去の言葉の数々が鮮やかなブーメランになって自分にふりかかってくる。
ナカハラは耐えかねて葉子との関係を解消することを選んだ。
照子は、それで良かったのかと葉子に問うが、葉子は自分ではなく田中守を責めるべきだと言い、田中守に電話を掛ける。
後日、葉子の言葉を受けた田中守から『もう会うのをやめよう』と告げられる。
これまでは照子は自分を殺して世話を焼き、尽くし、きっとスミレには振り向いて貰えないのだから諦めて自分のものになれば良いと説得してきた。今度は咄嗟の機転で自分さえも欺き、『愛していないのだから自分を利用するといい』と持ちかける。
◯感想
照子はとても頭の回転がはやく、時に相手に感情をぶつけ、時に自分の本心すら欺きつつも強かに田中守に執着し続ける。
それが果たして愛なのか、とっくに本人にもわからなくなっていく様がなんとも人間らしく生々しく、観る人によってはとてつもない熱量をもってして刺さるのであろう。
照子も田中守も自己肯定感の低くわかりやすい人間だと感じたが、作品内では葉子とナカハラ、スミレの行動心理と動機がよくわからなかったのだが、映画の尺の中では語り切れない部分も多いと思うので是非原作を読んでみたいと思った。
個人的には、田中守は自覚的に照子に夢を見せて利用するクズであって欲しかったな。
スミレの飲み会にはじめて呼びつけたときの「嘘つきだね」との台詞に関して
追いケチャップなんて芸当の出来る人物なら、『会いたかったから嘘吐いたんでしょ?』ぐらい言いそう……(この辺は私の趣味でしかない)と思ったが、この追いケチャップ、どうやら俳優さんのアドリブらしい。なんということだ。
それから、これも勝手な妄想だが
この物語の終わった後のスミレと照子の関係も気になる。照子からすると好きな人の好きな人であり、言っていることは正しいから嫌いになれない人物だが
スミレ側からすると「照子が行かないなら行かない」等と応援するつもりだったのが急に心変わりしたようで何か起きれば良いしこの二人の百合の同人が読みたい。うん、何の事だ。
なんのことだついでに、オスカー・ワイルドのナイチンゲールと薔薇という物語を思い出した。幸福の王子様の作者の作品と言うとピンと来る方もいるかもしれない。
あるところに、教授のお嬢さんに恋をした青年がいた。季節外れの真っ赤な薔薇の花をくれたら一晩踊ってあげるわという言葉を
真に受けて探しはじめるが、全くもって季節外れでありどこを探しても見つかるはずはない。それを見ていたナイチンゲールという青年に恋をする鳥は良かれと思って薔薇の木に聞いてまわり、「うちは黄色い薔薇だよ」「残念ながらもう咲けないよ」と何度も断られた末に咲く気力はないがお前さんの心臓の血をくれれば真っ赤に染めて見せるよという悪魔的な誘いに何の躊躇いもなく喜んで絶命するのであった。そうとも知らない青年は喜び勇んで偶然見つけた季節外れの深紅の薔薇をお嬢さんの所に持って行き呆気なくフラれる。「こんな薔薇赤すぎて私のドレスには合わないの。それに、もっと上等な赤い宝石をくれた人が居てね、そっちの方がうんと価値がある。わかるでしょう?」との言われようである。絶望の縁に立たされた青年はまた哲学の森の奥深くへと閉じ籠り、投げ棄てられた薔薇の花は水溜まりに落ち、馬車の下敷きになる。と、まぁこういった具合の話だ。
照子の愛はナイチンゲールが自分の命と引き換えに血で染めた薔薇のようなものかもしれない。誰も望んじゃいない。でもそうとわかれば気味悪がってそもそも手折られることも、物語が進む事もなかっだろう。それではもっと報われない。自分の本心を欺いてまで、この薔薇は自らの血で染めたというのは黙って隠さなければならなかった。
現実ではきっとセフレを友達に会わせたり、その実態が赤裸々に語られることも感情を剥き出しにした言い合いも起こらずゆっくりひっそりと関係を拗らせていくんだろうなぁ、とは思うが
この「現実」というものも私の主観の中で思い込んでいる現実に過ぎないのだから
、今後の人生経験によってはこの映画の持つ味わいも変わるだろう。それを楽しみに20年後位にまた観たい。