劇場公開日 2019年4月19日

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「聖人あらわる」幸福なラザロ きりんさんの映画レビュー(感想・評価)

5.0聖人あらわる

2020年9月27日
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鑑賞方法:DVD/BD

“社会派映画”として、この世の荒廃を鋭く指摘しつつも、それぞれの人の心に対しては“癒しと希望”を与える現代の寓話。

驚いた。若い監督が脚本まで手掛ける。巨星出現と言わずして。

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都会に暮らす かつての村娘アントニアの目の前に、幻影のように現れるラザロ。

村のパシリだったラザロ。

懐かしく穏やかな笑みを浮かべてあのラザロはそこに現れ、対面するアントニアはラザロの前に駆け寄り、足元に額突く(ぬかづく)。

・・ふるさとの泉の傍らで、遠いあの日に淹れてくれたコーヒーの礼と詫びを言えずにいた、今はスラムに暮らす女=アントニアに、今一度の再会の奇跡が贈られて、今も昔も怒りを向けるどころか無償の愛を差し出すためだけに現れたラザロを、アントニアは ただただ嬉しくてかき抱く。

ややあって、
アントニアと村人は静かな喜びと高揚感を携えてトラックを押して家路につく。今度は振り返らずに。

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今作のラザロくん、
彼に重ねて思い出すのは「グリーン・マイル」で黙したまま電気椅子に消えたコーフィーや、傷兵を担ぎ続けた「ハクソー・リッジ」、そして青の洞門の禅海和尚などなど・・

私たちの世界の歴史に、時に“客人”(まれびと)として顕現し、そして去っていった“聖人”の姿に、また伝説として語り継がれてきた“愚か者”たちの声と眼差しに、私たちは何を見、何を聞いてきたのであろうか。

エンドロールでラザロの思い出が村人たちによって素朴に歌われる。
恐らくこんな内容で歌っているのであろう ―
「昔ラザロという若者がいたよ、いいやつだったよ、愚か者だったよ」
と。

〉主人公に魅力を感じなかったので退屈だった
― というレビューも散見するが、それは無理からぬことと思う。
⇒劇中でも復活したラザロを「悪魔、ごくつぶし」と言って嫌う老人はちゃんと描かれているからだ。

だからこう言えるだろう、
邦題「幸福なラザロ」は「馬鹿なラザロ」「ぬけさくラザロ」ということだ。
そしてどこまでも控えめなラザロは、アントニアとタンクレディの前にしか現れない。

つまり、
《ラザロの生きざまに惹かれるアントニアとタンクレディと観客にだけ、ラザロは現れる》。

映画の中盤、社会の格差と搾取問題が大きくクローズアップされたかと思いきや、そんな世界に生きるわずか数人だけの個の記憶に収れんして物語は閉じる。社会改革の指導者としてではなく温かい思い出として、ラザロは幸福を与える福者として、救助を必要としている者の所だけに来てくれる。

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映画の構成は
村⇒資本主義社会⇒個の魂の救いという流れ。
不思議な起伏だ。

「私のラザロ」をば、現代社会に呻吟つつ、どこか心の中で待望している我われ人間が、記憶の中の憧れの存在を呼び、深奥にナマに彼を想起したときに、私たちもエンディングのあの歌のように、きっと心の中に歌うのであろう

サハイフヒト二ワタシハナリタヒ
と。

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野暮だね、こんな分析レビューは。苦笑い。

詩を感じるのは個人だから、この映画に関しては個人として応えなければね、

アントニアは、老人たちを受け入れ、高額のお菓子を惜し気もなく与えた。

僕の心にも、何かじんわりと浄めをもたらし、静かな革命を起こす、とてつもない映画だと思いました。

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主演のアドリアーノ・タルディオーロくんありき。
他の作品には出てほしくない。

きりん
NOBUさんのコメント
2020年10月1日

今晩は
《ラザロの生きざまに惹かれるアントニアとタンクレディと観客にだけ、ラザロは現れる》・・。
 成程。
 ラザロの善性を”無意識にでも”認める人にだけ彼の善性が見えると解釈すると、現代パートでのラザロの位置づけが分かる気がしますね。
 では、又。

NOBU