「心にナイフが刺さっているみたいだ」存在のない子供たち 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)
心にナイフが刺さっているみたいだ
生まれた子供には無限の可能性があるというのは都市伝説でしかない。例えば同じ程度の頭の出来の子供がふたりいて、一方は東京の裕福な家庭に生まれ、一方は地方の貧しい家に生まれたとすれば、東大に入学できる確率が高いのは圧倒的に東京の裕福な家庭の子供である。よほど優秀でない限り、地方の貧しい家の子供が東大に合格することはない。生まれたときから格差ははじまっているのだ。
しかし本作品の主人公であるゼーンとその兄弟姉妹たちにとっては、日本国内の格差など無きに等しいと言えるだろう。ベイルートのスラムの貧困は殆どその日暮らしだ。戸籍のない親が戸籍のない子供を生む。名前はつけるが誕生日は覚えていない。出生届も出さない。歩けるようになった子供はみんな働き手だ。しかも非合法、不衛生な仕事のそれである。盗み万引は日常茶飯事だ。仕方がない。まっとうな仕事にありつくには共同体の身分証明書がいる。共同体に認知されていない子供は共同体にとっていないも同然である。責任の所在が不明だから仕事にもありつけない。格差どころか、生きるか死ぬかの問題なのだ。
本作品にはいくつかのテーマがある。ひとつは貧富の格差の問題であり、ひとつは貧しい人々ほど子沢山になってしまう人口爆発の問題であり、そしてもうひとつは身分証明とはなにかという問題である。これらは密接に結びついており、ひとりの子供を主人公にすればそのすべてを訴えることが出来る。
例えば日本の銀座の中央通りには日本人の子供はあまり歩いていない。海外の旅行者の子供ばかりである。しかし貧しい国の貧民窟(スラム)は子供で溢れかえっている。日本でも戦前から戦後にかけてはやたらに子供をたくさん作った時代があった。しかし社会が成熟すると少子化になる。その前にベビーブームがあれば、必然的に少子高齢化社会となる。日本は世界でもその最先端を行く。
だから本作品の子どもたちの実情は実感としては伝わってこない部分がある。貧しくて育てられないなら子供を生まなければいいと思うのは、すでに下り坂に入った社会の人間の感想である。スラムの人々は子供をたくさん生めば将来子供に助けられるかもしれないと思うのかもしれない。または直接的に働き手としての子供を生産するという目論見かもしれない。先進国は少子化、高齢化が進み、後進国は人口爆発が起きている。やがて先進国の富が移動するのは時間の問題だろう。孤独な老人がひっそりと苦しみ、ひっそりと死んでいく。先進国の未来はおそらくそうなる。日本の未来は必ずそうなる。
共同体が個人の存在を認めるというのはどういうことか。認めてもらわずとも自由に生きるんだと考えても、共同体が作った社会の仕組みは、どの場面でも身分証明を要求してくる。共同体が認知してない人間が生んだ子供は、当然認知されようがなく、生まれたこと自体が不幸そのものだ。かくして人間は不幸製造機となってしまう。生まれた子供に無限の可能性などなく、大人になるまで生きられるかさえ怪しい。
主人公ゼーンは栄養不足で育ち、見た目は8歳か9歳くらいに見える。しかし口の中を見たら乳歯がないから12歳くらいだろうと、年齢まで当てずっぽうで決められる。ゼーンはそんな社会をまったく信じていない。だから世の中を恨みこそすれ、楽しむことなど出来やしない。それは両親もまったく同じである。スラムの人間にとってこの世は地獄なのだ。
最初から最後まで苦しい思いで観た作品である。ゼーンは心にナイフが刺さっているみたいだと母に告げるが、知らずしらずのうちに観ているこちらも胸が痛くなる。決して他人事ではない。
日本は政権の失敗で年々貧しくなっている。働けなくなった将来には、ゼーンと同じように路上に放り出されないとも限らない。身分証を発行する政治権力はそのとき、自己責任という言葉ですべての問題をなかったことにするだろう。格差は連綿と続き、貧しい人間は不幸製造マシンとして子供をたくさん生む。年老いて貧しい人間は痛みと苦しさに耐えながら片隅に暮し、そのうち黙って死んでいく。