「演出の意図があからさまな自己満足の独善的世界観の好悪」ドッグマン Gustavさんの映画レビュー(感想・評価)
演出の意図があからさまな自己満足の独善的世界観の好悪
1980年代にイタリアで実際にあった殺人事件をモチーフにしたというが、作者独自の世界観に当てはめた設定とストーリーを意図的な演出で単一化した自己満足の映画作品。近年のヨーロッパ大陸の映画表現の独善化を象徴するかの国際映画祭での評価は、あくまで審査委員数名の映画人の好悪が優先される選択に過ぎないことを改めて認識させる。勿論単一化するための演出技量は認めるも、細かな点の疑問が次から次へと現れ、それが不条理の一言で片付けられないところにある。例えば、離婚したとはいえ何故愛する娘が悲しむことを主人公マルチェロは続けるのか。この矛盾を抱えたまま、無知で小心者の哀れさを描かず、暴力男シモーネの飼い犬の如き服従を強いられる姿を執拗に映し出す。また、町一番の嫌われ者でもあるシモーネの度重なる傷害事件を、だれも警察沙汰にしない放置状態が無駄に過ぎていく。唯一、闇の組織を使って暗殺を試みるが、負傷したシモーネの自宅の場面で繋ぎ、マルチェロが傷の手当てをすることと、シモーネのマザコン振りを見せるための手段にしている。そして、強盗事件の身代わりで1年の服役をするが、それは出所後に分け前として1万ユーロを要求するためと判る。しかし、シモーネがそれを承諾するはずがないことは、火を見るよりも明らかであろう。すると結末はおおよその予測が付いてしまう。狂犬シモーネをケージに入れる映像の面白さはあるが、流石に自らケージに入るのは餌の仕掛けがない檻に入る熊以下という事なのか。二人の突出した間抜け振りが、結局は無残な結末を必然とする。
脚本と演出の殆どが意図的な表現の為に費やされ、人間を描く本質から逃げているのではないか。唯一優れているのは、統一された沈んだ空気感が漂う映像美を見せる撮影である。イタリアの荒廃した海辺の町の舞台が全ての矛盾を生むことを、作者は言いたいのだろうが。